8.霧の谷と消えた羽
作業台の上に置かれた、黒い油布の包み。
ジャンは煙草の煙を細く吹きかけながら、泥と油で汚れたその表面に指を滑らせた。冷え切った革の感触が、十年以上前の記憶を一瞬で引き戻す。
――年中、深い霧が立ち込める険しい山岳地帯。
そこにあったのは、大掛かりな城砦でも豪奢なギルドハウスでもない。岩肌を穿ち、土壁と木組みで作られた質素な隠れ里、『ネーベルクレーエ(霧鴉)』の集落だった。
「ジャン、刃先を研ぎすぎるな。薄く研ぎ澄ませた刃は美しく切れるが、骨に当たれば即座に欠ける。われらの獲物は魔物ではない。鎧と骨肉を纏った人間だ」
耳の奥に蘇るのは、かつての頭領――痩せた老人のしゃがれた声だ。
ネーベルクレーエは、大国が誇る魔導騎士団のような華々しい力を持たなかった。
生まれつき莫大な魔力を持つエリートなど一人もいない。親に捨てられた孤児や、飢饉で売られた子供たちが集められ、徹底的に叩き込まれたのは「生活の道具を転用した泥臭い殺人術」だった。
気配を完全に殺して霧と同化する歩法。
鎧の隙間、頸動脈、腱、眼窩を、無音で穿つ刃の角度。
木工作業の目打ち針を吹き矢のように飛ばし、調合した鉱物油で敵の詠唱を喉元で潰す技術。
そこには英雄譚のような誇りも、大義名分もなかった。
あるのは、領主たちの暗闘の裏で泥をすする職人の矜持と、夜に集まって分け合う薄い塩スープの温もりだけだった。
「おい、ジャン。この依頼が終わったらよ、麓の町で本物の肉を食おうぜ。塩漬けじゃない、焼きたてのやつだ」
そう笑っていた同胞の若い暗殺者たちの顔が、走馬灯のように脳裏をかすめる。
彼らは皆、人を殺める道具でありながら、同時に誰よりも慎ましく生きようとしていた。
――だが、そのささやかな生は、時代の圧倒的な暴力の前に一瞬で消し飛ばされた。
大帝国の統一戦争。
領主の勢力争いに巻き込まれたネーベルクレーエの隠れ里は、ある夜、山ごと包囲された。
騎士団が放ったのは、暗殺者の技などまるで意に介さない、空を埋め尽くすような広域殲滅魔術の火球だった。
逃げ場のないすり鉢状の谷に、赤黒い業火が降り注いだ。
岩が融解し、木造の家屋は爆炎に呑まれ、夜空が真昼のように照らし出される。
仲間たちの肉が焼け、骨が爆ぜる音。
鍛え上げた隠密術も、研ぎ澄ました短剣も、山を焼き払う大火力の前には赤子の手慰みにすらならなかった。
『ジャン、逃げろ! 技を……ネーベルクレーエの生きた証を、灰にするな……!』
崩れ落ちる梁の下から押し出されたジャンの背中に、熱風と同胞の絶叫が焼き付いた。
泥水をすすり、仲間の死骸の山を這いずり回り、煙に喉を焼かれながら、ジャンはただ一人、霧の彼方へと逃げ延びた。
生き残った。だが、心はあの夜の灰の中に埋まったままだった。
「……生き証人、か。笑わせるなよ」
ジャンは自嘲気味に呟き、くわえ煙草の灰を作業台の隅へ落とした。
逃げ延びた先で見つけたのが、この下町の片隅だった。
刃を研ぎ、鍵を直し、壊れたガラクタを直す日々。人を殺すために磨き上げた指先で、誰かの生活を繕うこと。
それが、業火の中で散っていった仲間たちへの、唯一の贖罪だと思い込もうとしていた。
だが、あの炎は再び形を変えて、ジャンの前に現れた。
ハンスの靴屋を包んだ炎。煤まみれになって泣いていたエレナ。絶望に震えていたニコの手。
「結局、どこへ行っても同じだ」
強い者が弱い者を踏みにじり、理不尽が日常を焼き尽くす。
頭を下げて泥をすすり、どれほど分厚い「檻」の中に引きこもろうと、外から檻ごと叩き壊されるのなら、耐えることに何の意味もない。
ジャンは静かに息を吸い込み、黒い油布の結び目に指をかけた。
革紐が解かれ、布が左右に開かれる。
現れたのは、光を一切反射しないよう油焼きされた二本の黒打ち短剣。
革製のホルダーに整然と並ぶ、鋼の目打ち針。
そして、調合された刺激性の鉱物粉末と麻痺毒の小瓶。
十年以上の歳月を経てもなお、寸分の狂いもなく手入れされた「霧鴉」の道具たち。
ジャンは右手を伸ばし、短剣の柄を握りしめた。
指先のタコが、まるで最初からそう設計されていたかのように、無骨な柄の凹凸に吸い付くように馴染んだ。
カチリ、とジャンの胸の奥で、何かが静かに外れる音がした。




