7.火の粉と古傷
黒煙が下町の狭い空を覆い尽くしていた。
「水を運べ! バケツが足りない、井戸からもっと汲み上げろ!」
通りは怒号と悲鳴で満ちていた。ジャンが駆けつけると、ハンスの靴工房はすでに火の手が屋根まで回り、激しい熱風が吹き荒れていた。
崩れ落ちる梁、はじけ飛ぶ火の粉。泥水を含んだバケツの水など、猛り狂う炎の前には焼け石に水だった。
「ハンスのおじさんは!? 中にいるの!?」
煤まみれの顔で叫ぶエレナの姿があった。彼女の細い腕はバケツの重みで震え、瞳には涙が溜まっている。
「奥の作業場から引きずり出したが、煙を吸いすぎてる! 火傷も酷い、息が浅いんだ!」
通りに寝かされたハンスの体は、黒く焦げた布に包まれていた。かつて頑固に革を縫い合わせていた職人の両手は、見る影もなく爛れている。
その横では、巡回に来たはずの警備隊員たちが遠巻きに腕を組み、「乾燥してるから火の回りが早いな」「失火だろう」と鼻で笑いながら煙草を燻らせていた。
火をつけた連中も、それを命じた連中も、最初から裁かれることなどない。
ジャンは燃え盛る靴工房の炎を、ただ無言で見つめていた。
爆ぜる木材の音、焦げ付く革の匂い、人々の絶望の叫び。
そのすべてが、記憶の奥底に分厚く沈めていた光景を抉り出す。
――帝国軍の殲滅魔術によって、山ごと焼き払われた『ネーベルクレーエ』の隠れ里。
夜空を真っ赤に染め上げたあの業火も、今のこの炎とまったく同じ色をしていた。仲間たちの骨が爆ぜる音と、無力に散っていった者たちの断末魔。
(……あの時と、何一つ変わっちゃいない)
圧倒的な暴力の前に、日々の営みや職人の矜持など、一瞬で灰に変わる。
ジャンが爪を立てて守ろうとしていた「平穏」という名の檻が、目の前の炎に煽られてメキメキと音を立てて軋んでいた。
「ジャン……」
服の裾を引かれ、視線を落とすと、追ってきたニコが煤けた顔で立ち尽くしていた。
少年は燃え落ちる工房と、虫の息のハンスを見つめ、小刻みに震えている。
「あいつら、本当に燃やしやがった……。次は、お前の店だろ……? 俺たちの居場所、全部燃えちまうのかよ……」
ニコの手が、ジャンの服を強く握りしめる。
その小さな手の震えは、恐怖だけではない。何もできない自分への、そして理不尽に全てを奪っていく世界への、激しい怒りだった。
ジャンは少年の頭にそっと手を置いた。
いつもなら冗談めかしてわしゃわしゃと撫で回すその手は、今はただ静かに、重く置かれていた。
「ニコ」
「……なに?」
「エレナちゃんのところへ行け。ハンスの爺さんを運ぶのを手伝うんだ」
「でも、お前は――」
「俺は、店の片付けをしなきゃならん」
ジャンは少年の背中を軽く押し、炎から背を向けた。
振り返ることなく、煙の立ち込める路地を自分の工房へと歩き出す。
工房の土間には、先ほど踏み荒らされた壊れた道具たちが散らばったままだった。
砕けたガラス、へし折れた真鍮の歯車、泥に塗れた砥石。
ジャンは作業台の前に立ち、くわえ煙草に火をつけた。
深く吸い込み、紫煙を吐き出す。
煙の向こうで、ジャンの瞳から「しがない道具屋」の光が完全に消え去っていた。
ゆっくりとしゃがみ込み、土間の隅――長年使われていない分厚い作業机の脚元へ手を伸ばす。
泥と油で固められた床板の隙間に指を掛け、一息に引き上げた。
床下に口を開けた暗がりの底。
湿気た土の中に埋もれていたのは、黒い油布で幾重にも厳重に包まれた、一つの長方形の革袋だった。
ジャンはその袋を無言で引き上げ、作業台の上に置いた。
まだ、ほどきはしない。
だが、その袋が置かれた瞬間、工房の空気が氷のように張り詰めた。
日没まで、あと半日。
檻の鍵は、すでに指先にかかっていた。




