6.硬貨の重さと冷えた鉄
朝の光が差し込む工房の引き戸を、遠慮がちに叩く音がした。
「……おい、開いてんのか」
入ってきたのはニコだった。
昨日の泥は少しだけ井戸水で洗い流されていたが、着古した麻布の裾は相変わらずボロボロだ。少年の目は、警戒を解かない野良犬の鋭さを保ったまま、作業台の前に立つジャンを値踏みするように見上げた。
「早いな、ニコ。まだ朝飯のパンも焼けてない時間だぞ」
ジャンは作業着の袖をまくり上げ、欠伸を噛み殺しながら手招きした。脇腹の打撲痕には、エレナが塗ってくれた薬草の香りがかすかに残っている。
「……腹が減ったから来たんじゃねえ。昨日の仕事の続きだ。店の裏の側溝、まだ泥が残ってたろ」
「へえ、殊勝な心がけだねえ。じゃあ裏のバケツとスコップを持ってけ。終わったら、昨日エレナちゃんから貰った林檎タルトを半分分けてやる」
「タルト……」
少年の喉が小さく鳴った。どんなに虚勢を張っても、飢えた子供の腹は誤魔化せない。ニコは悪態をつくことも忘れ、裏手へと足早に向かった。
ジャンは苦笑しながら、作業台の上の万力に真鍮の壊れた鍵束を固定した。
ヤスリを手に取り、角を削る。金属が擦れ合う高い音が工房に満ちる。
――ガタガタ、と通りを重い荷車が通る音が響いた。
普段なら威勢のいい御者の掛け声が聞こえるはずだが、今朝は異様に静かだった。
ジャンはヤスリの手を止め、通りに目をやる。
荷車を引いていたのは、下町で青果を卸している商人たちだったが、その顔は一様に青ざめ、荷台の半分以上が空配りだった。
「おい、ジャン」
隣の仕立て屋の主人が、青ざめた顔で工房の前に駆け込んできた。
「聞いたかい? 西の街道の検問所が『アイゼンシュランゲ』の息がかかった連中に封鎖されたそうだ。通行税をいつもの五倍払わねえと、荷を通さないって……!」
「五倍? そりゃまた法外な……。警備隊は何をしてるんです?」
「警備隊がその横で茶を飲んで笑ってたって話だよ! あいつら、完全にグルだ。上層のカスパル伯爵が裏で糸を引いてるから、隊長クラスも手を出せないらしい。このままじゃ、下町に食い物も油も入ってこなくなるぞ!」
仕立て屋の主人は恐怖に震えながら、自分の店へと戻っていった。
(……包囲網を狭めて、街ごと干し殺す気か)
ジャンは無言で煙草をくわえ、火をつけた。
アイゼンシュランゲの狙いは明白だった。下町の物流を止め、商店を干上がらせ、二束三文で土地と権利を巻き上げる。貴族の権力と裏社会の暴力を組み合わせた、古典的だが最も防ぎようのない手口だ。
「おい、ジャン!」
裏口から、泥だらけのスコップを持ったニコが息を切らして駆け込んできた。
「表の通りに、昨日のおっさんたちがまた来てるぞ……! 今度は鉄パイプや棍棒を持った奴らが十人以上いる!」
ジャンの指先が、煙草のフィルターをわずかに強く押し潰した。
「ニコ、奥の資材置き場に入れ。どんな音がしても、絶対に顔を出すな」
「で、でも……!」
「いいから入れ。……タルトを食いっぱぐれたくなかったらな」
ジャンの声には、いつもの剽軽さとは違う、抗えない重みがあった。ニコは息を呑み、言われた通り作業場の奥の暗がりへ身を隠した。
ジャンは深く息を吐き出し、紫煙を土間に散らすと、顔に張り付くような愛想笑いを貼り直した。
引き戸が、蹴破られるような勢いで乱暴に開け放たれた。
「おい、小道具屋! まだこんなガラクタ溜め込んで営業してやがったのか!」
入ってきたのは、昨日ハンスの靴屋を荒らしたスキンヘッドの男と、柄の悪い傭兵くずれの男たちだった。手には無骨な棍棒や、刃を潰したナタが握られている。
「いやあ旦那方、朝から精が出ますねえ」
ジャンはわざと背中を丸め、両手を揉みながら擦り寄った。
「何かお探しですか? あいにくうちは包丁研ぎと真鍮の修理くらいしか――」
「減らず口叩いてんじゃねえぞ、腰抜け!」
スキンヘッドの男が横柄に腕を振るい、作業台の上に並べられていた修理待ちの道具――客から預かった銀の懐中時計、精密な裁ち鋏、油の塗られた小刀――を一網打尽に床へ叩き落とした。
ガシャン! と甲高い金属音が土間に響き渡る。
精密な歯車が砕け、ガラスの風防が粉々に飛び散った。
「ひっ……! だ、旦那、それは客の大事な……!」
「知るかよ! 今日中にこのボロ小屋を畳んで出て行けって言ってんだ! 立ち退き料として銀貨三枚恵んでやる。サインしな!」
男が突き出してきたのは、土地の権利を破格の安値でアイゼンシュランゲに譲渡するという契約書だった。
床に散らばった無残な道具たちを、ジャンは見つめた。
何日もかけて歪みを直した古い時計の針が、泥にまみれて折れている。
ジャンの視界の端が、かすかに冷たく研ぎ澄まされていく。
足の重心をわずかに落とせば、手元にあるヤスリを男の眼窩へ突き刺し、背後の二人の頸動脈を十枚通しで穿つまで、わずか二秒。
(……まだだ)
ジャンは奥歯を噛み締め、膝を床についた。
割れたガラスの破片が膝に食い込み、ジワリと血が滲む。それでも顔を上げ、情けなく歪んだ笑みを浮かべた。
「だ、旦那方……勘弁してくださいよ。俺にはこの仕事しかないんです。これを取り上げられたら、路頭に迷っちまう……」
「知ったことか! 明日の日没までにここを空けろ。さもなきゃ――」
スキンヘッドの男はジャンの頭を踏みつけようと足を上げた。
だが、その時、通りの向こうからけたたましい鐘の音が響き渡った。
『火事だーーッ!! ハンスさんの靴工房が燃えてるぞーーッ!!』
男たちは顔を見合わせ、ニヤリと下劣な笑みを浮かべた。
「へっ、あっちの頑固ジジイは一足先に片付いたようだな。……おい道具屋、明日の夕方だ。それまでに消えてねえと、テメエもあの火に放り込むからな」
男たちは踵を返し、煙の上がる通りへと駆け出していった。
静まり返った工房。
泥とガラスの破片の上に跪いたまま、ジャンは微動だにしなかった。
「……ジャン」
奥の暗がりから、震える声でニコが出てきた。少年の目は、床に散らばった壊れた道具と、膝から血を流すジャンに釘付けになっていた。
「ハンスの爺ちゃんの店が……燃えてるって……」
ジャンはゆっくりと立ち上がった。
膝の血を払うこともせず、割れたガラスの中から、折れた時計の針を一本だけ拾い上げる。
その横顔には、もうどこにも「愛想のいい道具屋」の表情は残っていなかった。




