5.油染みとラベンダーの香り
日が完全に落ちた下町は、露店の灯りと酒場の喧騒に包まれていた。
ニコは約束通り側溝の泥をすっかり掻き出し、ジャンから受け取った銅貨三枚を握りしめて、逃げるように夜の路地へ消えていった。
「あいつ、明日の朝にはまた腹を空かせて来るだろうな」
ジャンは独りごちて、腰の痛みを逃がすように背伸びをした。
昼間にアイゼンシュランゲの男から喰らった蹴りの痛みが、鈍く脇腹の奥で疼いている。骨にヒビはいっていないが、明日の朝には見事な青痣になっているはずだ。
「……痛たた。年季の入った嘘吐きも、身体の衰えには勝てねえか」
苦笑いしながら作業場の片付けをしていると、トントン、と開け放たれた戸口が軽く叩かれた。
「まだ起きてた。明かりがついててよかった」
そこに立っていたのは、仕事終わりのエプロンを外したエレナだった。
昼間の作業着とは違い、淡い藍色の上着を羽織っている。手には小さな陶器の壺と、白い布の包みを持っていた。
「よお、エレナちゃん。こんな夜更けに男の工房に上がり込むなんて、物騒な街じゃ不用心極まりないよ。俺が狼だったらどうするの?」
ジャンがいつものように両手を広げて大袈裟におどけてみせると、エレナは呆れたように小さく息を吐いた。
「口ばっかり達者な狼さんね。昼間、ハンスの小父さんを庇って蹴られたって聞いたわよ。……怪我、見せて」
「え? あー、いやいや、全然平気! ちょっと泥がついただけだから。俺の頑丈さは路地のドブネズミ並みだって知ってるだろ?」
「いいから、座って」
エレナの珍しく強い口調に気圧され、ジャンは大人しく丸太椅子に腰を下ろした。
エレナは土間に膝をつき、ジャンの泥で汚れたシャツの裾を躊躇なくめくり上げる。
脇腹に広がる赤黒い打撲痕を見た瞬間、彼女の息が短く詰まった。
「……全然平気なんかじゃないじゃない。真っ黒よ」
「まあ、見た目は派手だけどさ……」
エレナは持ってきた壺の蓋を開けた。
ふわりと、油と鉄の匂いで満ちた工房に、優しく甘いラベンダーと薬草の香りが広がる。
彼女は自分の指先にひんやりとした軟膏を取り、ジャンの脇腹の熱を持った肌へ、躊躇い配慮しながらそっと伸ばした。
「っ……」
柔らかな指先が触れた瞬間、ジャンは無意識に身体を強張らせた。
敵の刃や殺気には瞬時に反応できる肉体が、無防備な女の指先の温もりにだけは、どう対処していいか分からず硬直してしまう。
「痛む?」
「いや……冷たくて気持ちいいよ。手際がいいね、いい嫁さんになれる」
誤魔化すように軽口を叩いたが、エレナは茶化すことなく、静かに傷口に薬を塗り広げていく。
伏せられた彼女の長い睫毛が、ランプの灯りに照らされて微かに震えていた。
「ジャンさんは、どうしていつもそうやって笑って誤魔化すの?」
エレナの静かな声が、夜の静寂に落ちる。
「ハンスの小父さんのこともそう。いつも誰かの間に割り込んで、ヘラヘラして、自分が一番痛い思いをして……。街のみんなは『ジャンは腰抜けでお人好しだ』って言うけど、私は知ってる。あなたがいつも、一番危ないところで壁になってること」
「買い被りすぎだよ。俺はただ、揉め事が嫌いなだけの臆病者さ」
「嘘ばっかり」
エレナは塗り終えた指を布で拭い、顔を上げた。
至近距離で、澄んだヘーゼル色の瞳がジャンの顔を真っ直ぐに見つめる。二人の距離は、吐息がかかるほど近かった。
「私ね、ジャンさんがこの街に来てくれて、本当はすごく嬉しかったの。……昔のあなたが何者だったとしても、今のあなたがどんなに過去を隠してても関係ない。ただ、無茶をして怪我だけはしないで。あなたがこの工房で、ずっと包丁を研いでてくれるだけで、私は……安心するのよ」
エレナの頬が、夜風の冷たさとは裏腹にほんのりと朱に染まっていた。
伸ばされた彼女の手が、ジャンの作業台の上に置かれた右手にそっと重なる。
タコだらけで、油と煤にまみれ、かつて無数の命を奪ってきたジャンの右手。
その穢れた手を、エレナの小さく温かい掌が包み込む。
ジャンは動けなかった。
引き抜くことも、握り返すこともできない。
彼女の純粋な好意と温もりは、暗殺者として生きてきた自分にはあまりにも眩しく、そして毒のように甘美だった。
この温もりに縋りついてしまえば、もう二度と冷徹な刃には戻れなくなる。だが、この平穏(檻)を守りたいと願う心が、胸の奥で激しく疼くのもまた事実だった。
「……エレナちゃん」
「なに?」
「……湿布の匂いより、君の持ってきた薬草の方が、ずっといい匂いだな」
絞り出すように言ったジャンの言葉に、エレナは一瞬きょとんとした後、ふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「当たり前でしょ。私が調合した特製なんだから。……はい、これ。お父さんには内緒で持ってきた、残りの林檎タルト」
重なっていた手が離れ、代わりに紙に包まれたタルトがジャンの手に握らされた。
冷たい風が二人の間に吹き込み、少しだけ温もりの名残が惜しくなる。
「明日には痛みも引くはずよ。おやすみ、ジャンさん」
「ああ……おやすみ、エレナ」
エレナは小さく手を振ると、軽やかな足取りで夜の路地へと戻っていった。
遠ざかる足音を聞きながら、ジャンは一人、作業台の前に立ち尽くす。
手元に残された林檎タルトと、脇腹に残るラベンダーの香り。
そして、触れられた右手の甲の、焼け付くような熱。
ジャンは残されたタルトを一口かじり、甘酸っぱい果実の味を噛み締めながら、暗い夜空を見上げた。
(……守らなきゃならんものが、増えちまったな)
それは道具屋のジャンとしての幸福であり、暗殺者としての致命的な弱点でもあった。
そして街の闇の奥底では、そのささやかな光を根こそぎ踏み躙ろうとする『アイゼンシュランゲ』の牙が、確実に研ぎ澄まされつつあった。




