4.刃の重さと子供の拳
「……なんでやり返さねえんだよ」
少年の尖った声が、静まり返った土間に響く。
擦り切れた麻布の袖から突き出た腕は、怒りと悔しさで微かに震えていた。路地裏の吹き溜まりで生きてきた少年特有の、生きるか殺すかの単純な論理だ。
ジャンはくわえ煙草の先を指で弾き、灰を空き缶に落とした。
怒るでもなく、いつものように困ったような笑みを浮かべ、丸太椅子に腰を深く沈める。
「物騒なこと言うねぇ、坊主。人を刺すノミの持ち方なんて、俺は研ぎ師匠から教わっちゃいないよ」
「嘘だ!」
少年は作業台を一歩詰め寄り、噛みつくように言った。
「今朝、俺の手首を押さえたときの手……一瞬で力が入らなくなった。あんなの、普通の修理屋の技じゃねえだろ! やろうと思えば、あいつらの喉だって突けたはずだ!」
ジャンの目が、煙の向こうでわずかに細められた。
(……観察眼だけは一人前だな)
盗みに入った短い刹那の感触を、この飢えた子供は正確に覚えていたのだ。かつて『ネーベルクレーエ』で生き残った子供たちも、最初に伸びるのはこの「危機に対する勘」だった。
ジャンは煙草を水の張った缶にジュッと押し込んで消すと、作業台の引き出しを開けた。
取り出したのは、一本の錆びた小さな細工用小刀だ。留め具が外れ、刃先も大きく欠けている。
カラン、と無造作に少年の足元へ放り投げた。
「拾ってみな」
少年は警戒しながらも、泥のついた手で小刀を拾い上げた。柄を握りしめ、切っ先を構えようとする。
「どうだ、重いか?」
「……こんなの、ちっとも重くねえよ。ただの鉄くずだ」
「そうかい。でもな、それを一回でも誰かの体に突き刺したら、その鉄くずは一生手放せなくなるくらい重くなるんだよ」
ジャンの声から、いつもの剽軽な調子がふっと消えていた。
低く、乾いた、底冷えのする響き。少年の背筋にぞくりと冷たいものが走る。
「一度でも刃で問題を解決した奴はな、次の問題も刃で片付けようとする。言葉も、知恵も、我慢も全部捨てて、ただ刺すだけの獣になるんだ。そうやって生きてる連中が、さっきの『アイゼンシュランゲ』のゴロツキどもさ」
ジャンは立ち上がり、少年の前に歩み寄った。
少年の手から、無造作に小刀を取り上げる。
「俺は道具屋だ。刃物を研ぐのは、肉を切ったり木を削ったりして、誰かが飯を食うためだ。人を殺すための道具をここで作る気も、使う気もない。……泥水すすってヘラヘラ笑うのはみっともないがね、獣に逆戻りするよりはずっとマシなんだよ」
小刀を油布で包みながら、ジャンはいつもの気の抜けた顔に戻り、少年のボサボサの頭を乱暴にわしゃわしゃと撫で回した。
「ほら、能書きは終わりだ。名前はなんていうんだ、坊主」
「……ッ、触るな! ニコだ。ニコって呼ぶな!」
少年――ニコは乱暴にジャンの手を払い除け、真っ赤な顔で睨みつけた。
「よし、ニコだな。木鉢を綺麗に洗って返してくれた礼に、仕事をやる。店の前の側溝、まだ泥が詰まって水が溢れそうなんだ。あの泥を全部掻き出したら、今夜の飯代として銅貨を三枚やる」
「……金を恵んでくれるわけじゃねえのかよ」
「当たり前だろ、うちは慈善事業やってる神殿じゃないんだ。働かざる者食うべからずだ。箒とスコップは裏の樽の横だ。暗くなる前に終わらせろよ」
ジャンが工房の奥へ引っ込もうとすると、ニコは悔しそうに唇を噛み締めながら、裏手へと走っていった。
やがて、ザクッ、ザクッ、と重い泥をスコップで掬い上げる拙い音が表から響き始める。
作業台に戻ったジャンは、自分の右手をじっと見つめた。
(……獣に戻るより、マシ、か)
口では偉そうに言いながら、胸の奥に冷たい疼きが残っていた。
もし今日、ハンスが殺されかけていたら? もしエレナが連れ去られそうになったら?
その時でも自分は、この「檻」の中に留まり、泥水をすすって頭を下げ続けられるのか。
工房の薄暗い窓から、赤黒い夕焼けが差し込んでいた。
その光はまるで、かつて見慣れた血飛沫と、故郷の山を焼き尽くした炎と同じ色をしていた。




