3.踏みにじられた泥と軋む天秤
表の通りから響く罵声に、ジャンは煙草をくわえたまま、のそのそと工房の外へ顔を出した。
朝の冷たい空気の中、二軒隣にある古びた靴工房の前で、派手な革鎧を着た三人の男たちが暴れていた。
地面には作りかけの革靴や木型が無残に散らばり、泥まみれになっている。
「てめえ、誰に口答えしてんだ? 『アイゼンシュランゲ』の看板に泥塗る気か、ああん?」
中心に立つスキンヘッドの巨漢が、下町の古株である老靴職人・ハンスの胸ぐらを掴み上げていた。ハンスは白髪交じりの頭を揺らしながらも、頑固な目を光らせて言い返す。
「ふ、ふざけるな……! 先月も払ったばかりじゃないか! こんな法外な額、払えるわけが――」
「あ? 相場が変わったんだよ。上層の旦那方がこの区画を買い取るって言ってんだ。さっさと立ち退かねえなら、このボロ小屋ごと焼き払うぞ!」
巨漢がハンスを石畳の上に突き飛ばした。
ゴトリと鈍い音が響き、ハンスが呻き声を上げて膝を押さえる。周囲の商店の店主たちも遠巻きに見ているが、関わり合いを恐れて誰も助けに入れない。
そこへ、ジャンが両手を前で合わせ、ヘラヘラとした愛想笑いを浮かべながら間に入っていった。
「いやあ、旦那方! 朝から威勢がいいですねえ。声の張りが素晴らしい!」
「あんだぁ、テメエは?」
スキンヘッドの男がぎらついた目でジャンを睨みつける。
ジャンはおどけた手つきで頭を掻き、擦り切れたエプロンのポケットから銅貨を数枚取り出してみせた。
「隣で小道具屋をやってるジャンと申します。この爺さん、耳が遠くて頭も固いもんで、旦那方のありがたいお話が理解できてないんですよ。ね、これで美味い安酒でも煽って、今日のところは勘弁してやってくれませんかね?」
手のひらに載せた銅貨を見た男は、鼻でせせら笑うと、ジャンの手を乱暴に払いのけた。
チャリン、と硬貨が泥水の中に跳ねて転がる。
「銅貨数枚で俺らを買収する気か、ええ!? ナメてんのかてめえ!」
ドスッ、と重い革靴の先がジャンの鳩尾を蹴り上げた。
「ぐっ……!」
ジャンは大袈裟によろめき、泥水の上に派手に尻餅をついた。
痛みに顔を歪め、泥だらけの手で腹を押さえながら、何度も頭を下げる。
「も、申し訳ありません……! 滅相もない、ナメるだなんてとんでもない……!」
「ちっ、腰抜けの修理屋が。次に来る時までに全員、立ち退きの書類にサインしとけ。逆らう奴は骨ごとへし折るからな!」
男たちはツバを吐き捨て、肩を怒らせて通りの向こうへと去っていった。
静まり返った通りで、ジャンは泥まみれになった膝をついたまま、無言で泥水の中に散らばった銅貨を一枚ずつ拾い集めた。
指先の皮一枚下で、かつての殺人機械としての冷徹な回路が、即座に敵の急所を算出し終えていた。
(……間合い、三歩。右の男の頚椎、中央の巨漢の喉仏、左の男の眼窩。目打ち針が三本あれば、息を吸う間に全員殺せた)
だが、ジャンは奥歯を噛み締め、その思考を頭の隅へと無理やり押し込めた。
殺せば終わる。しかし、殺せば自分はこの平穏な街から消え、また血と硝煙の闇へ逆戻りだ。この泥の冷たさと屈辱こそが、自分を繋ぎ止める「檻」の対価だった。
「すまんな、ジャン……情けないところを見せた」
ハンスが痛む足を引きずりながら、申し訳なさそうにジャンの肩に手を置いた。
「いやいや、ハンスの爺さんこそ骨折れてないですか? あーあ、せっかくの新品のエプロンが泥だらけだ。後でエレナちゃんに笑われちゃうな」
ジャンはいつもの剽軽な調子を取り戻し、おどけて泥を払ってみせた。
だが、その笑顔の裏にある暗い影に、ハンスは気づくことはなかった。
夕暮れ時。
ジャンが工房の土間で、泥で汚れた作業着を洗い終えて煙草を燻らせていると、引き戸が小さくギィと音を立てた。
見ると、戸口の影から、今朝の浮浪児の少年が顔を覗かせていた。
手には、綺麗に洗われた木鉢がしっかりと抱えられている。
「……あ、あの」
少年はおずおずと土間に足を踏み入れ、木鉢を作業台の端に置いた。
そして、泥だらけのジャンのエプロンと、作業台の上に置かれたヤスリに視線を走らせる。
「……さっきの、見てた」
「ん? 何のことだ?」
ジャンが煙を吐きながらとぼけると、少年は悔しそうに眉を寄せ、拳をぎゅっと握りしめた。
「お前、あいつらに蹴られてヘラヘラ笑ってただろ。……なんでやり返さねえんだよ。道具を直すその手なら、ノミだって上手に刺せるはずなのに」
少年の剥き出しの言葉が、工房の静寂に鋭く突き刺さった。




