2. 路地裏の侵入者と冷えたスープ
翌朝の工房は、冷え切った油と鉄の匂いで満ちていた。
ジャンは火鉢に木炭を放り込み、ふいごで小さく空気を送る。赤く熾った炭火に薬缶を載せると、作業台の前に腰を下ろした。
朝一番の仕事は、昨日預かった魔導ランプの芯の修繕だ。
「よいしょ、と。……あーあ、魔力弁が完全に固着してやがる。無理に回すからネジ頭が舐めるんだよなあ」
ぼやきながら、先端を極細に削り落とした精密ドライバーを隙間に差し込む。
手首をわずかに捻る。カチリ、と硬質な手応えとともに真鍮のネジが緩んだ。
その時だった。
――コト。
工房の引き戸の隙間から、泥を擦るような極めて小さな摩擦音が響いた。
普通の人間なら、朝風で扉が軋んだ程度にしか思わないだろう。だが、ジャンの耳には「体重三十キロ前後の人間が、右足を引きずりながら忍び足で入ってきた音」として明瞭に識別されていた。
(……足音が拙いな。猫ならもっと爪の音を消す)
ジャンは作業の手を止めず、ドライバーを回し続けた。
背後から、ツンと鼻を突く下水と泥の臭いが漂ってくる。
侵入者は土間の隅を這うように移動し、棚の上に置かれていた昨日ゴルドから貰った肉パイの残りと、真鍮の壊れたバックルに手を伸ばした。
痩せこけた小さな手が、獲物を掴んだその瞬間――。
ジャンは椅子から音もなく立ち上がり、振り返った。
「……ひッ!?」
短い悲鳴。
そこにいたのは、ぼろ切れのような麻布をまとった一人の少年だった。
泥と煤にまみれた茶色い髪の下から、飢えと恐怖で血走った大きな瞳がジャンを見上げている。手にはしっかりと肉パイの包みが握られていた。
少年は反射的に後ずさろうとしたが、背後はすでに壁だった。
逃げ場がないと悟った瞬間、少年の顔から怯えが消え、噛みつくような野良犬の表情へと変わる。落ちていた木工用の細いノミを拾い上げ、震える切っ先をジャンに向けた。
「近寄るな……! 声を出したら、刺すぞ!」
甲高い、だが必死の威嚇。
かつてのジャンなら、この間合いならノミを握る手首をへし折り、喉笛を突いて一秒で沈めていただろう。
だが、今のジャンは両手をひらひらと挙げ、情けないほど大袈裟に目を丸くしてみせた。
「うわあ、物騒だなあ! 坊主、そのノミは研いだばっかりなんだよ。そんな細い刃で人を突いたら、骨に当たってポキリと折れちまうぞ?」
「う、うるさい! 飯をよこせ! 金もだ!」
「パイならくれてやるよ、俺の朝飯だったけどな。でもその真鍮の留め具とノミは返してくれ。客の預かり物と商売道具を盗まれたら、俺が街角で首を括らなきゃならん」
ジャンはわざと呑気な口調のまま、間合いを一歩詰めた。
少年が反射的にノミを突き出してきた瞬間、ジャンの右手がまるで川の流れをすくうように滑らかに伸びた。
パチン、と乾いた音が響く。
少年の手首の急所を親指の腹でわずかに圧迫すると、少年の指から脱力し、ノミがぽろりと落ちた。それをジャンは空いている左手で空中でキャッチし、くるりと回して作業台に置く。
すべてが一瞬だった。少年は自分が何をされたのかすら理解できず、ぽかんと自分の右手を見つめている。
「ほら、道具は大事に扱えって母ちゃんに教わらなかったか?」
ジャンはそう言いながら、少年の手から真鍮の金具だけを器用につまみ取り、代わりに薬缶の横で温めていた昨日の残りの野菜スープが入った木鉢を持たせた。
「な……んだよ、これ……」
「見りゃわかるだろ、蕪と豚肉のスープだ。冷えてるより温かい方が美味い。パイと一緒に持ってって、どっかの物陰で食いな」
少年は湯気を立てる木鉢と、ジャンの飄々とした顔を信じられないものを見る目で見つめた。
殴られるどころか、温かい飯を握らされたのだ。下町で泥水をすすって生きてきた少年にとって、それは理解の範疇を超えた事態だった。
「……お前、バカなのか? 突き出せば、警備隊から報奨金が出るかもしれないのに」
「あんな腹黒い警備隊の面々を見るだけで胸焼けがするんでね。それに、こんなガリガリの坊主突き出して小銭貰うくらいなら、包丁二本研いだ方がよっぽど実入りがいい」
ジャンはひらひらと手を振り、作業台に戻って腰掛けた。
「ほら、さっさと行きな。冷めちまうぞ。……あ、そうだ。食い終わったら鉢だけは返せよ。向かいの食堂の親父さんに怒られるからな」
少年はしばらく立ち尽くしていたが、やがてスープをこぼさないよう両手でしっかりと抱え、脱兎のごとく工房から飛び出していった。
泥だらけの足音が路地の奥へと消えていく。
静寂が戻った工房で、ジャンは小さく溜息をつき、煙草に火をつけた。
(……あいつの目、昔の俺たちと同じだな)
生きるために盗み、常に周囲を警戒し、牙を剥き出しにする獣の目。
かつて『ネーベルクレーエ』の隠れ里に集められた子供たちも、全員があんな目をしていた。あの少年を見捨てることも、衛兵に突き出すこともできなかったのは、ただの甘さだ。
「……ガラにもないことしちまったな」
紫煙を天井へ吹き上げたその時、表の通りから乱暴な怒号と、何かが叩き割られる鋭い音が響いた。
「おいコラ靴屋のジジイ! いつまでこんなボロ店開けてやがんだ! 今月のみかじめ料がまだ足りねえぞ!」
煙草をくわえたまま、ジャンの目が細められた。
いつもの軽薄な光が消え、底冷えのする闇が一瞬だけ宿る。
アイゼンシュランゲのゴロツキどもが、いよいよ本格的に動き出したようだった。




