1.錆と砥石と油煙の街
水を含ませた中砥の上を、鈍く光る刃が滑る。
――シュッ、シュッ、シュッ。
規則正しい摩擦音だけが、薄暗い工房の土間に心地よく響いていた。
ジャンは作業台の前の丸太椅子に浅く腰掛け、鼻歌まじりに包丁の刃筋を光に透かして見る。
「うーん、見事な刃こぼれ。魚の骨どころか、小鬼の兜でも叩き割ったんじゃないのかね、これ」
ひとりごちて大袈裟に肩をすくめ、仕上げ用の青砥へ少量の水を垂らした。水滴が弾け、鉄と濡れた砥石の冷たい匂いがふわりと広がる。
ジャンはこの匂いが嫌いではない。血の生臭さとは無縁の、ただ物が命を取り戻していく時の、清潔で静かな匂いだ。
「おーい、ジャン! 頼んでた大鍋の底、塞がったかい!」
開け放たれた引き戸から、陽気な胴間声が飛び込んできた。
通りを挟んだ向かいで大衆食堂を営む店主、ゴルドだ。湯気を立てる丸太のような腕を組み、土間にずかずかと入ってくる。
「へいへい、出来てますよ親方。ほら、銅の鋲を打ち直して、隙間もきっちり蝋付けしときました。これでまた十年は、あの凶悪なドロドロ煮込みスープを作れますよ」
「誰が凶悪だ、失礼な奴だな! ……おお、綺麗に塞がってるじゃねえか。さすがは下町一の器用貧乏」
ゴルドが感心したように重い鍋を持ち上げ、底を小突きながら豪快に笑う。
ジャンはおどけた手つきで後頭部を掻き、眉をハの字にしてへらりと笑ってみせた。
「褒め言葉として受け取っておきますよ。あ、研ぎ代と合わせて銅貨四枚ね。ツケは勘弁してくださいよ、うちの今夜のパンが薄くなっちゃうんで」
「わかってるよ、ほらよ。あ、そうだ。娘のエレナが『いつもお世話になってるから』って、昼の余りの肉パイを包んでくれたんだ。後で食いな」
「うわ、最高! エレナちゃんによろしく言っといてください。やっぱり持つべきものは器量のいい看板娘がいる食堂だなあ」
大袈裟な身振りでパイの包みを受け取り、両手を合わせて拝むようなポーズを取る。
ゴルドは「まったく調子のいい野郎だ」と呆れ半分に笑い、鍋を抱えて通りへと戻っていった。
足音が完全に遠ざかるのを見届けると、ジャンの顔から軽薄な笑みがすっと抜け落ちた。
無表情に戻った顔でパイの包みを棚の奥に置き、くわえ煙草に火打ち石を擦る。
立ち上る紫煙を天井の梁に向けて細く吐き出しながら、ジャンは自らの右手をじっと見つめた。
指先は油と煤で黒ずみ、刃物研ぎ特有の分厚いタコがついている。
だが、その下の骨格、神経、そして無駄のない筋肉のつき方は――かつて別の使い方をするために、幼少期から徹底的に叩き込まれたものだった。
――気配を絶ち、無駄口を叩かず、冷徹な刃となって急所を断つ。
霧深き山間にあった暗殺集団『ネーベルクレーエ』の掟。
あの場所では、笑顔も冗談もすべて「余計な緩み」として切り捨てられた。だが、大帝国の軍勢によって山ごと焼き払われ、一族が灰燼に帰したあの日、ジャンはその掟ごと過去を捨てた。
今の自分は、お調子者で愛想のいい、しがない道具屋のジャンだ。
軽口を叩き、近所の機嫌を取り、小銭を数えてへらへらと頭を下げる。
この退屈でくだらない日常という名の「檻」に閉じこもっている限り、心の奥底で眠る冷たい怪物が目を覚ますことはない。人を殺めない「人間」でいられる。
「……さてと。感傷に浸ってる暇があったら手を動かせ、だな」
吸い殻を水の入った空き缶に落とし、ジャンは再び作業台に向き直った。
預かっているのは、隣の仕立て屋から持ち込まれた裁ち鋏、露天商の壊れた天秤、そして芯の詰まった古い魔導ランプ。
ヤスリを手に取り、錆びたネジを慎重に回し始める。
窓の外からは、石畳を行き交う荷車の軋みや、夕暮れの市に集まる人々の賑やかなざわめきが響いていた。
――だが。
その穏やかな空気の底に、わずかな濁流のようなものが混ざり始めているのを、鍛え抜かれたジャンの皮膚は敏感に捉えていた。
ここ数日、見慣れない革鎧を着た柄の悪い男たちが、下町の通りを値踏みするようにうろついている。
領主の威光を傘に着て勢力を伸ばしているという新興の裏ギルド――『アイゼンシュランゲ(鉄蛇)』の息がかかったゴロツキどもだ。
「……ま、俺には関係のない話だ」
ジャンは小さく呟き、手元のヤスリに力を込めた。
誰がこの街を支配しようと、利権を奪い合おうと知ったことではない。自分はただ、持ち込まれたガラクタを直し、日銭を稼ぎ、この薄暗い工房の隅で静かに老いていくだけだ。
鉄と油の匂いが満ちる工房に、再びシャリ、シャリ、と規則正しいヤスリの音が戻る。
しかしその平穏が、足元から音を立てて崩れ去るまでの時間は、ジャンが思っているよりも遥かに短かった。




