20.風の旅路と青い砥石
それから、三年の月日が流れた。
朝露に濡れた下町の路地に、威勢のいい荷車の軋みと、パンを焼く香ばしい匂いが漂っていた。
かつてアイゼンシュランゲの横暴に怯えていた通りは、いまや活気を取り戻し、以前にも増して穏やかな賑わいに包まれている。
焼け落ちた靴工房は新しく建て直され、完治こそしなかったものの、ハンスの頑固な老職人は再び眼鏡を鼻先に載せて革を縫い合わせていた。
向かいの大衆食堂では、エプロン姿のエレナが、看板娘から若女将のような頼もしさを漂わせながら、常連客たちに湯気を立てる野菜スープを配っている。
「はい、お待たせ! 熱いうちに食べてね!」
食堂の扉が開き、十代半ばに差しかかった少年が、手際よく木箱を抱えて入ってきた。
かつて泥まみれの麻布をまとい、飢えた獣の目をしていた浮浪児――ニコだった。
すっきりと切り揃えられた茶色の髪の下の瞳は澄み、身につけた作業着の袖には、幾重にも重なった油と鉄の染みが刻まれている。
「エレナ姉ちゃん、預かってた厨房の牛刀と小出刃、二本とも研ぎ終わったよ。刃こぼれも綺麗に落として、柄の緩みも新しい鋲で留め直した」
「ありがとう、ニコ。助かるわ」
エレナが微笑みながら受け取り、刃筋を光に透かす。
曇りのない鈍い光沢を放つ鋼の刃。そこには、かつてこの下町で最も器用だったあの男の面影が、確かに宿っていた。
「腕を上げたわね。お父さんも『ニコの研ぐ包丁は切れ味が長持ちする』って絶賛してたわよ」
「……まだまだだよ。あいつの研ぎ口には、まだ全然届かない」
ニコは照れくさそうに笑いながら、作業着のポケットから手帳を取り出した。客からの修理の依頼がびっしりと書き込まれている。
「次は仕立て屋のおばさんの裁ち鋏と、広場の噴水の真鍮バルブの修理だ。暗くなる前に片付けてくる」
「無理しないでね。終わったら、林檎タルト焼いてあるから食べにおいで」
「うん!」
ニコは元気に手を振ると、通りを駆けて自分の工房――かつてジャンが営んでいた、あの小さな道具屋へと戻っていった。
薄暗い土間の真ん中。
何千回、何万回と削られ、中央がわずかに窪んだ青砥石の上に、ニコは水を含ませた。
――シュッ、シュッ、シュッ。
規則正しく、静かで力強い摩擦音が工房に響き渡る。
壁の棚には、あの時ジャンから託された樫の木箱の道具たちが、一点の狂いもなく美しく手入れされて並んでいた。
誰かを傷つけるための刃ではなく、誰かの生活を支え、命を繋ぐための道具の手仕事。
かつて霧の谷で生まれ、業火に消えかけた技術の小さな灯火は、いま確かに新しい世代の血肉となって、この平和な街の土台を支え続けていた。
***
遠く離れた、乾いた風が吹き抜ける国境沿いの街道。
砂塵が舞う荒野の茶屋の軒先で、埃まみれの黒革の外套を羽織った男が一人、腰掛けていた。
深々と被ったフードの隙間から、紫煙がふわりと立ち上り、青く澄み切った空へと溶けていく。
ジャンはくわえ煙草を指で挟み、手元の古びた真鍮の懐中時計に目を落とした。
針は寸分の狂いもなく、正確な時を刻み続けている。
背嚢の底には、決して使うことのない黒打ちの短剣が、今も静かに眠っていた。
(……今日も、いい音で研げてるといいがな)
ジャンは小さくひとりごちて、口元に微かな、本当に微かな笑みを浮かべた。
あの下町で過ごした日々の温もりと、託してきた道具箱の重み。
それだけが、決して消えることのない過去の業を背負い、当てもない旅を続ける彼の胸にある、唯一の錨だった。
「おい、旅人さん。あんた、道具の手入れができるって本当かい? うちの荷車の車軸の留め具が馬鹿になっちまって、困ってるんだが」
茶屋の主人が、困り顔で声をかけてきた。
ジャンは煙草の吸い殻を空き缶に落とし、いつものように眉を八の字に下げて、愛想よく立ち上がった。
「へいへい、お任せあれ。しがない道具屋ですがね、壊れたもんなら大抵のものは直せますよ」
飄々とした軽口とともに、ジャンは作業袋を肩に担ぎ直し、新しい街の風の中へと歩みを進めた。




