エピローグ.林檎の香りと新しい看板
国境に近い港町は、潮風と魚の匂い、そして行き交う船乗りたちの喧騒に満ちていた。
下町よりも少しだけ風が冷たく、日差しが強いこの街の裏通りに、開店して間もない一軒の小さな店があった。
軒先にぶら下がっているのは、真鍮の歯車と研ぎ石を象った素朴な木製の看板。
【よろず道具修繕 ジャン】
薄暗い工房の土間で、ジャンは腰を丸め、使い古された万力に挟んだ真鍮のランプの歪みを金槌で叩いていた。
――カン、カン、カン。
規則正しい金属音が通りに響く。
あれから各地を転々とし、ようやく腰を落ち着けたこの港町でも、やっていることは何も変わらなかった。網を繕う針を研ぎ、船の舵を留める金具を直し、近所の主婦から預かった包丁の刃こぼれを均す。
人を解体するための技は、もう三年以上使っていない。背嚢の底に沈めた黒打ちの短剣は、油を塗られたまま一度も抜かれることなく、静かに眠り続けている。
「……ふう」
ジャンは金槌を置き、くわえ煙草に火をつけようとマッチ箱に手を伸ばした。
カラン、コロン。
引き戸につけられた小さな呼び鈴が、澄んだ音を立てて鳴った。
「へい、いらっしゃい。何の修繕かね? 包丁研ぎなら夕方には――」
ジャンは煙草をくわえたまま、愛想笑いを浮かべて振り返った。
そして、その顔のまま完全に固まった。
開け放たれた戸口から差し込む午後の光を背に、旅装をまとった一人の若い女性が立っていた。
砂埃で少し汚れた革のブーツ、肩に掛けた大きな革のボストンバッグ。
そして、三年前よりも少しだけ大人びて、けれどあの頃と変わらない強い光を宿した琥珀色の瞳。
「……エレナ?」
ジャンの口から、火のついていない煙草がポロリと土間に落ちた。
「相変わらず、薄暗いところで煙草ばっかり吸ってるのね、ジャンさん」
エレナはふっと息を漏らし、呆れたように、けれど泣き出しそうな笑顔を浮かべた。
頬には旅の疲れが滲んでいたが、その立ち姿には凛とした芯の強さがあった。
「な……なんで、あんたがここに……? 下町の店はどうした? 親父さんは……」
狼狽えて言葉を失うジャンに、エレナは一歩、土間へと足を踏み入れた。
「食堂はね、お父さんと、住み込みの若い夫婦に任せてきたの。……下町の商工ギルドの行商人に頼み込んで、あちこちの街の道具屋の噂を聞き回ったのよ。『やたらと腕のいい、愛想笑いの得意な無愛想な道具屋がいる』ってね」
「……馬鹿な真似をしやがって。女の一人旅がどれだけ危ないか……」
ジャンは眉を八の字に下げ、頭を抱えた。
だが、エレナは全く意に介さず、肩の荷物をどさりと作業台の横の丸太椅子に下ろした。
「ニコからも言付けを預かってきたわ。『俺の研ぎ口を見に来いって言ったのに、あいつが来ないから、エレナ姉ちゃんをそっちに送り込む』って」
「あいつ……」
ジャンが苦笑いを浮かべると、エレナは持ってきた大きな荷物の結び目を解き、中から厳重に油紙で包まれた平たい木箱を取り出した。
包みを開けた瞬間、甘く香ばしい、懐かしい香りが工房いっぱいに広がった。
「はい、これ。途中の宿場で焼いて、冷めないように魔法瓶の布で包んできたの」
箱の蓋を開けると、黄金色に焼き上げられた林檎タルトが、湯気とともに姿を現した。
「……タルトか」
「三年分、溜まってるんだからね」
エレナは腕を組み、ぷっと頬を膨らませてみせた。
だが、その瞳には溢れんばかりの情愛と、長い旅路の果てにようやく辿り着いた安堵が浮かんでいた。
ジャンは作業着の袖で乱暴に手を拭き、ゆっくりと木箱に手を伸ばした。
切り分けられた一切れを指で掴み、口に運ぶ。
サクサクとした生地の食感と、甘酸っぱい林檎の果汁、そしてかすかなシナモンの香りが、口いっぱいに広がっていく。
あの日、下町で守ろうとして、そして一度は手放した「日常」の味がした。
「……相変わらず、美味いな」
ジャンの掠れた声に、エレナはふわりと微笑んだ。
そして、工房の壁に掛けられた真鍮のヤスリや砥石を見回し、エプロンを自分の鞄から取り出しながら言った。
「私ね、この街で新しく食堂を開く場所を探しに来たの。……道具屋の向かいに、ちょうどいい空き店舗があるといいんだけど」
「……おいおい」
「文句は受け付けません。もう、一人で勝手にいなくなったりさせないんだから」
エレナは悪戯っぽく笑い、腕まくりをして工房の奥の小さな台所へと勝手に入っていった。
「まずはお茶を淹れるわね!」と弾んだ声が響く。
ジャンは土間に落ちた煙草を拾い上げ、埃を払って灰皿へ置いた。
そして、もう一度作業台の上の林檎タルトを見つめ、静かに、深く息を吸い込んだ。
過去の血と業火の記憶は、きっと生涯消えることはない。
背嚢の底の短剣も、いつかまた彼を縛るかもしれない。
けれど、いま目の前にある温かな湯気と、潮風に乗って届く懐かしい声が、冷え切っていた胸の奥を確かに溶かしていた。
「……やれやれ。手入れの手間が、また増えちまったな」
ジャンは誰にも聞こえない声で呟き、三年ぶりに、心の底からの本物の笑みを浮かべた。




