19.託された道具箱
朝の第一鐘が、濡れた下町の屋根瓦を震わせて重く響き渡った。
工房の薄暗がりの中、ジャンは無言で身支度を整えていた。
黒打ちの短剣はしっかりと油布で覆われ、黒革のホルダーに収めた千枚通しや目打ち針とともに、背嚢の底深くへと沈められる。人を解体するための「霧鴉」の遺品は、再び日の当たらない闇の中へ封印された。
ジャンが背負うのは、擦り切れた麻布の小袋一つだけだった。中身はわずかな乾パンと水筒、そして着替えのシャツが一枚。
「……ジャンさん」
作業台の脇で立ち尽くしていたエレナが、濡れた瞳でその背中を見つめていた。
これ以上引き留める言葉は、もう喉から出てこなかった。ジャンの纏う静謐な決意の前に、どんな懇願も無力であることを彼女は悟っていた。
ジャンは背嚢の紐を締め終えると、作業台の中央へ歩み寄った。
そこには、樫の木で作られた小さな木箱が置かれていた。
ジャンが何年も使い込み、隅々まで手入れし続けてきた「道具屋の一揃い」だ。
表面をきれいに面取りされた平砥石と青砥石。
刃の歪みを正確に測る真鍮の定規。
柄を固定するための小さな金槌と、磨き抜かれた各種のヤスリ。
そして、かつてニコが作業台から盗もうとした、あの真鍮の金具と、研ぎ直された小刀。
「ニコ、こっちに来い」
ジャンが低く呼ぶと、戸口で俯いていた少年が、泥で汚れた裸足を引きずるようにして一歩ずつ歩み寄ってきた。包帯の巻かれた細い腕は、感情を押し殺すように固く握りしめられている。
ジャンは少年の前に膝をつき、目線を同じ高さに合わせた。
「この箱の中身は、全部お前にやる」
「……っ」
ニコが息を呑み、木箱とジャンの顔を交互に見開いた瞳で見つめた。
「俺はもう、この街で包丁を研ぐことはできない。……だが、街の連中はこれからも肉を切り、野菜を刻み、靴を繕って生きていく。道具はいつか必ず刃こぼれし、ネジが緩む。それを直す奴が、この街には必要なんだ」
ジャンは少年の痩せた両手を取り、木箱の蓋の上にそっと置かせた。
「盗みはもうやめろ。人に刃を向けるな。……手入れを怠らなきゃ、道具は絶対にお前を裏切らないし、お前を飢えさせたりもしない。誰かの暮らしを支えるための手になれ。お前なら、やれる」
「……俺に、できるわけねえだろ……!」
ニコの大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。少年の小さな胸が激しく上下する。
「俺は……泥棒だ! 親もいなくて、文字も読めなくて、ドブネズミみたいに生きてきたんだ! お前みたいに器用に直せるわけねえだろ……! 行くなよ……! 俺に、道具の直し方を……全部教えてから行けよ……ッ!!」
ニコがジャンの胸元に顔を埋め、服の裾を両手で強く掴んで泣きじゃくった。
ジャンは眉を下げ、困ったように小さく息を吐き出した。
そして、かつて工房で冗談を言い合っていた時のように、不器用で、だが温かい大きな掌で、少年のボサボサの頭をゆっくりと撫でた。
「教えてる暇はねえよ。見て盗めって言ったろ。……泥を掻き出す根気があるなら、砥石の当て方くらいすぐに覚えられるさ」
ジャンは少年をそっと引き離し、立ち上がった。
そして、傍らで見守っていたエレナに向き直る。
「エレナ」
「……はい」
ジャンは懐から、カスパル伯爵の金庫から抜き取った手帳に挟まれていた、一枚の古い金貨の袋を取り出し、エレナの掌に押し込んだ。
「ハンスの爺さんの工房を建て直す足しにしてくれ。……それと、この悪ガキが腹を空かせてたら、たまに余った野菜スープを食わせてやってほしい」
「ジャンさん……」
エレナは金貨の袋を握りしめ、溢れ出る涙を拭おうともせず、ジャンの顔を焼き付けるように見つめた。
「私、忘れないわ。あなたがこの街で、私たちのために笑ってくれていたこと。……絶対に、忘れないから」
「……ああ。美味い林檎タルトを、ありがとな」
ジャンは短く返し、外套のフードを深く被った。
もう一度だけ工房の中を見回す。
鉄と油の匂い。水を含んだ砥石の静かな輝き。
自分が三年余りを過ごし、人を殺めない「人間」として呼吸することができた、世界で一番愛おしい檻。
「じゃあな」
ジャンは背を向け、雨上がりの朝靄の中へと踏み出した。
背後から、ニコの泣き叫ぶ声と、エレナの祈るような声が響いていたが、ジャンは一度も振り返らなかった。
濡れた石畳を蹴る足音は、朝の光の中へと静かに溶けて消えていった。




