↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元暗殺者の道具屋、日常を荒らす悪党を皆殺しにして姿を消したら、三年後に看板娘が「逃がさない」と押しかけてきました  作者: みなつきはつか


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/21

19.託された道具箱

朝の第一鐘が、濡れた下町の屋根瓦を震わせて重く響き渡った。


工房の薄暗がりの中、ジャンは無言で身支度を整えていた。

黒打ちの短剣はしっかりと油布で覆われ、黒革のホルダーに収めた千枚通しや目打ち針とともに、背嚢の底深くへと沈められる。人を解体するための「霧鴉(ネーベルクレーエ)」の遺品は、再び日の当たらない闇の中へ封印された。


ジャンが背負うのは、擦り切れた麻布の小袋一つだけだった。中身はわずかな乾パンと水筒、そして着替えのシャツが一枚。


「……ジャンさん」


作業台の脇で立ち尽くしていたエレナが、濡れた瞳でその背中を見つめていた。

これ以上引き留める言葉は、もう喉から出てこなかった。ジャンの纏う静謐な決意の前に、どんな懇願も無力であることを彼女は悟っていた。


ジャンは背嚢の紐を締め終えると、作業台の中央へ歩み寄った。


そこには、樫の木で作られた小さな木箱が置かれていた。

ジャンが何年も使い込み、隅々まで手入れし続けてきた「道具屋の一揃い」だ。


表面をきれいに面取りされた平砥石と青砥石。

刃の歪みを正確に測る真鍮の定規。

柄を固定するための小さな金槌と、磨き抜かれた各種のヤスリ。

そして、かつてニコが作業台から盗もうとした、あの真鍮の金具と、研ぎ直された小刀。


「ニコ、こっちに来い」


ジャンが低く呼ぶと、戸口で俯いていた少年が、泥で汚れた裸足を引きずるようにして一歩ずつ歩み寄ってきた。包帯の巻かれた細い腕は、感情を押し殺すように固く握りしめられている。


ジャンは少年の前に膝をつき、目線を同じ高さに合わせた。


「この箱の中身は、全部お前にやる」


「……っ」


ニコが息を呑み、木箱とジャンの顔を交互に見開いた瞳で見つめた。


「俺はもう、この街で包丁を研ぐことはできない。……だが、街の連中はこれからも肉を切り、野菜を刻み、靴を繕って生きていく。道具はいつか必ず刃こぼれし、ネジが緩む。それを直す奴が、この街には必要なんだ」


ジャンは少年の痩せた両手を取り、木箱の蓋の上にそっと置かせた。


「盗みはもうやめろ。人に刃を向けるな。……手入れを怠らなきゃ、道具は絶対にお前を裏切らないし、お前を飢えさせたりもしない。誰かの暮らしを支えるための手になれ。お前なら、やれる」


「……俺に、できるわけねえだろ……!」


ニコの大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。少年の小さな胸が激しく上下する。


「俺は……泥棒だ! 親もいなくて、文字も読めなくて、ドブネズミみたいに生きてきたんだ! お前みたいに器用に直せるわけねえだろ……! 行くなよ……! 俺に、道具の直し方を……全部教えてから行けよ……ッ!!」


ニコがジャンの胸元に顔を埋め、服の裾を両手で強く掴んで泣きじゃくった。


ジャンは眉を下げ、困ったように小さく息を吐き出した。

そして、かつて工房で冗談を言い合っていた時のように、不器用で、だが温かい大きな掌で、少年のボサボサの頭をゆっくりと撫でた。


「教えてる暇はねえよ。見て盗めって言ったろ。……泥を掻き出す根気があるなら、砥石の当て方くらいすぐに覚えられるさ」


ジャンは少年をそっと引き離し、立ち上がった。

そして、傍らで見守っていたエレナに向き直る。


「エレナ」


「……はい」


ジャンは懐から、カスパル伯爵の金庫から抜き取った手帳に挟まれていた、一枚の古い金貨の袋を取り出し、エレナの掌に押し込んだ。


「ハンスの爺さんの工房を建て直す足しにしてくれ。……それと、この悪ガキが腹を空かせてたら、たまに余った野菜スープを食わせてやってほしい」


「ジャンさん……」


エレナは金貨の袋を握りしめ、溢れ出る涙を拭おうともせず、ジャンの顔を焼き付けるように見つめた。


「私、忘れないわ。あなたがこの街で、私たちのために笑ってくれていたこと。……絶対に、忘れないから」


「……ああ。美味い林檎タルトを、ありがとな」


ジャンは短く返し、外套のフードを深く被った。


もう一度だけ工房の中を見回す。

鉄と油の匂い。水を含んだ砥石の静かな輝き。

自分が三年余りを過ごし、人を殺めない「人間」として呼吸することができた、世界で一番愛おしい檻。


「じゃあな」


ジャンは背を向け、雨上がりの朝靄の中へと踏み出した。


背後から、ニコの泣き叫ぶ声と、エレナの祈るような声が響いていたが、ジャンは一度も振り返らなかった。

濡れた石畳を蹴る足音は、朝の光の中へと静かに溶けて消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。