18.雨上がりの痕跡
夜明け前の下町は、降り続いた豪雨が嘘のように小雨へと変わり、立ち込める深い霧が石畳を乳白色に覆い尽くしていた。
ジャンは暗い路地を縫うように抜け、中央広場にある都市警備隊の詰所へと向かった。
雨樋の影から息を潜め、気配を完全に絶つ。見張りの衛兵が寒さに身を縮めて居眠りをしている隙に、内ポケットから取り出した「カスパル伯爵の裏帳簿」と「汚職に関わった評議員や隊長たちの署名入り証文の束」を、詰所の扉の前へドンと無造作に置き去った。
これだけの物証が朝の交代時に晒されれば、もはや上層といえども隠蔽は不可能だ。
アイゼンシュランゲの残党も、後ろ盾を失った汚職貴族たちも、中央から派遣される監査監察の手によって根こそぎ刈り取られることになる。
下町の土地は守られ、商人たちに平穏は戻る。
だが――その平穏の中に、血で手を染め直した自分の居場所はもう存在しなかった。
ジャンは濡れた足音を立てずに路地を歩き、自らの道具屋へと戻ってきた。
薄暗い工房の引き戸を静かに開けると、冷え切った鉄と湿った土の匂いが鼻腔を突く。
昨日の朝、ゴロツキどもに叩き落とされたままの壊れた時計の歯車や、砕けたガラス片が、まだ床に無残に散らばっていた。
ジャンは火鉢に小さな炭を放り込み、ふいごを踏んだ。
パチリと火が熾り、わずかな橙色の光が薄暗い土間を照らし出す。
彼は作業台の前の丸太椅子に腰を下ろすと、濡れた黒革の外套を脱ぎ捨てた。
作業着のエプロンを身につけることもなく、床に散らばる道具たちを一つずつ拾い集め始める。
欠けた木工用のノミ。
歪んだやっとこ。
折れた真鍮のネジ。
客から預かっていた小さな銀の懐中時計。
それらを万力に挟み、金槌で軽く叩き、砥石で研ぎ、歪みを整えていく。
――カン、カン、シュッ、シュッ。
金属が擦れ合う規則正しい音だけが、夜明け前の静けさの中に染み渡るように響いていた。
「……ジャンさん」
背後から、擦れた声がした。
振り向くと、戸口のところにエレナが立っていた。
一睡もしていないのだろう、その瞳は充血し、目の下には薄い隈が浮かんでいる。羽織った淡い藍色の上着の裾は朝露で濡れそぼり、手には小さなランタンを握りしめていた。
その後ろには、包帯を痛々しく巻いたニコが、壁の影に隠れるようにしておずおずと顔を覗かせている。
「……エレナ。ニコもか」
ジャンは作業の手を止めず、ヤスリを動かしながら低く言った。
「言ったろ、夜が明けるまで外へ出るなって。まだ冷えるぞ」
「街が……大騒ぎになってるの」
エレナはゆっくりと、引きずられるように工房の中へ足を踏み入れた。
ジャンの作業台の横、床に散らばる壊れた道具と、机の隅に無造作に置かれた――返り血の冷たい匂いがかすかに残る二本の黒打ち短剣に、彼女の視線が釘付けになる。
「アイゼンシュランゲの幹部たちが……廃棄倉庫で全員、殺されたって。上層のカスパル伯爵の屋敷も何者かに襲撃されて、伯爵も組長も死んだって……。警備隊の詰所には、あいつらの悪事を全部暴く帳簿が届けられたって……街中の人が話してる」
エレナの声は小刻みに震え、瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「ジャンさん……あなたが、やったのね」
ジャンはヤスリをコトリと作業台に置き、深く息を吐き出した。
くわえ煙草に火打ち石で火をつけ、立ち上る紫煙を薄暗い天井へと吹き上げる。
「ただの腰抜けの道具屋に、そんな大層な真似ができるわけないだろ。……どこかの凄腕の暗殺者が、ついでに街のゴミ掃除をしてくれたのさ」
いつものように眉を下げ、ヘラヘラとおどけてみせようとした。
だが、その言葉は乾ききり、笑みは形を結ぶ前にふっと消え失せた。
「嘘ばっかり……!!」
エレナが駆け寄り、作業台の前に両手をついて叫んだ。
「どうして……どうしてそうやって、いつも一人で全部背負い込んじゃうの!? 怪我はしてないの!? お願いだから、もうどこにも行かないって言ってよ……! あいつらはもういないんでしょ!? だったら、またここで……みんなの包丁を研いで、食堂にスープを食べに来てよ……!」
泣き崩れ、肩を震わせるエレナの姿を、ジャンはただ静かに見つめた。
触れてやりたいと、慰めてやりたいと、伸ばしかけた右手。
だが、指先にこびりついた煤と鉄錆、そして洗い流しきれなかった微かな血の匂いを自覚した瞬間、ジャンはその手を力なく下ろした。
「……俺の手はな、エレナ。もう、真っ当な職人の手じゃないんだ」
ジャンの声は、どこまでも低く、夜風のように冷たく澄んでいた。
「一度でも檻から出た獣は、もう人の街の光の下には戻れない。……ここにいれば、いつか必ず別の血と火種を引き寄せる。あんたや、ニコや、ハンスの爺さんを、今度こそ本当に焼き尽くしちまうんだよ」
「そんなの……関係ないわ! 私が……私たちが守るから……!」
「守れないさ」
ジャンは静かに首を振った。
「理不尽な暴力ってのはな、一瞬で何もかもを灰にする。俺はそれを、嫌というほど見てきた」
戸口で立ち尽くしていたニコが、奥歯が砕けそうなほど唇を強く噛み締めた。
少年は何も言えなかった。昨日、倉庫の暗がりで目撃したジャンの冷酷な「解体」の光景。あれは人の技ではなかった。だが同時に、その恐ろしい手が、ただ自分一人を救い出すために振るわれたのだということも、痛いほど理解していた。
「……行っちまうのかよ、ジャン」
ニコの掠れた声が、土間に落ちた。
ジャンは少年に視線を向け、ほんのわずかに、いつもの不器用な表情を浮かべた。
「ああ。……朝の鐘が鳴ったら、発つ」
東の空の雲が薄く茜色に染まり始め、工房の小さな窓から、冷たく透き通った朝の光が差し込んできた。
夜の帳が上がり、別れの刻が、すぐそこまで迫っていた。




