17.帳簿と首の鎖
「裏帳簿……? な、何の帳簿のことだ……!?」
カスパル伯爵は脂汗を噴き出しながら、震える両手で胸元をかばうように後ずさった。
だが背中はすでに冷たい石壁に突き当たっている。これ以上の逃げ場はどこにもなかった。
ジャンは無言のまま、作業用の革袋から一本の細いピンセットを取り出した。
先端をわずかに曲げた、鍵穴のタンブラーを操作するための解錠道具だ。
「おい、伯爵」
ジャンの声は、感情を一切交えずに淡々と響く。
「あんたの右の小指。上等な真鍮の粉と、特殊な防錆油の匂いが染み付いている。……金庫のダイヤルを日常的に触っている証拠だ」
「ひっ……!」
「この部屋の壁、東側のタペストリーの裏だけ石材の継ぎ目にわずかな隙間がある。……鍵の番号を口で言うか、それとも指の骨を一本ずつ外されてから言うか。選べ」
「言、言う! 言うから手を出すな……ッ!」
伯爵のプライドはすでに跡形もなく砕け散っていた。
自慢の金髪を振り乱し、涙と鼻水を垂れ流しながら、震える唇で番号を捲し立てる。
「『右に七、左に四、右に九』だ……! タペストリーの裏の隠し金庫だ! 下町の地上げに関する警備隊への賄賂の記録も、王都の商工ギルドとの裏契約書も、全部そこに入っている……!」
ジャンは伯爵を一瞥すると、音もなく立ち上がり、壁に掛けられた豪奢なタペストリーをめくった。
露出した隠し金庫の真鍮ダイヤルに指をかけ、言われた通りに回す。
――カチ、カチ、カチ……コト。
軽やかな解錠音とともに、重い鉄扉が静かに開いた。
中には、金貨や宝石の山とともに、革表紙の分厚い手帳と、警備隊長や都市評議員の署名が記された裏取引の証文が整然と収められていた。
これだけの証拠があれば、アイゼンシュランゲという組織の根幹だけでなく、下町を食い物にしていた上層の腐敗構造そのものを白日の下に晒すことができる。
ジャンは帳簿と証文の束を無造作に掴み出し、自分の外套の内ポケットへとしまい込んだ。
「全部……全部渡したぞ……!」
伯爵が這いつくばりながら、縋り付くようにジャンの足元を見上げた。
「金も、帳簿も、全部お前のものだ! 頼む、見逃してくれ! 余はこの街を出ていく! 二度と下町には手を出さない! だから……!」
ジャンは金庫を閉め、ゆっくりと伯爵を見下ろした。
その瞳には、憐憫も怒りも、微塵の感慨も浮かんでいなかった。
「伯爵閣下」
「は、はい……ッ!」
「あんたが金をばら撒いて雇ったゴロツキどもは、下町の靴屋を焼き、あそこの爺さんの手を奪った」
ジャンの指先が、腰の黒打ち短剣の柄へと静かに触れた。
「……あ、あれはグレゴールが勝手にやったことで――」
「あんたが書いた命令書一枚で、あの街の日常は灰になったんだ」
ジャンは短剣を抜かなかった。
代わりに、作業袋から取り出したのは、一本の細く強靭なピアノ線――かつて時計の精密スプリングとして加工するために手入れしていた鋼線だった。
「ひ……っ、ぎゃ――」
伯爵が悲鳴を上げようと口を開いた刹那、ジャンの両手が交差した。
鋼線が伯爵の喉元に巻き付き、一瞬で気道と頸動脈を締め上げる。
声は途絶え、伯爵の両手が宙を掻きむしるが、ジャンの鉄のような腕力は寸分の狂いもなく均等に力を込め続けた。
暴れる足が床を蹴り、やがてその動きが徐々に鈍くなっていく。
数秒の痙攣の後、伯爵の瞳から焦点が消え、頭部ががくりと前に垂れ落ちた。
ジャンは鋼線を静かに解き、油布で丁寧に拭ってから袋へ戻した。
執務室には、豪雨の音と、暖炉で爆ぜる薪の微かな音だけが残されていた。
床にはアイゼンシュランゲの首領と、悪徳貴族の骸。
下町を脅かしていた元凶は、今夜この部屋で完全に断たれた。
だが、ジャンは勝利の余韻に浸ることもなく、ただ静かに自分の両手を見つめた。
煤と泥にまみれ、再び血の冷たさを吸い込んだ自らの手。
もう二度と、あの工房で呑気に鼻歌を歌いながら包丁を研ぐ「しがない道具屋」には戻れない。
檻の扉は完全に開かれ、獣は自らの足で夜の荒野へと踏み出してしまっていた。
ジャンは外套のフードを深く被り直すと、砕け散った扉を抜け、雨の降りしきる夜の街へと歩き出した。




