16.蛇の首と冷たい灰
ガゴォッ!
重苦しい鈍音が執務室に反響した。
グレゴールの頭部が石造りの暖炉の角へ強烈に叩きつけられ、レンガの縁が砕け飛ぶ。額から噴き出した鮮血が、赤々と熾る炭火の上にジュッと音を立てて蒸発した。
「ぐ、あ……あッ……!」
並の人間なら頭蓋が割れて即死する一撃。だがグレゴールは、血みどろの顔のまま獰猛な唸り声を絞り出し、床の灰を引っ掴んでジャンの顔面へ投げつけようとした。
最後まで生き汚く、死線をくぐり抜けてきた裏社会の首領たる執念だった。
だが、ジャンはその手首を上から完全に踏み抜いた。
バキリ、と骨の軋む音。
「がああっ!」
グレゴールの左手首が絨毯に縫い付けられる。ジャンは踏みつけた足を一切緩めず、残る右手でグレゴールの顎を掴み上げ、強引に床へと押し付けた。
「おい、グレゴール」
ジャンの声は、暖炉の爆ぜる音よりも低く、静かだった。
「テメエ……っ、何者だ……! その体さばき、音のない踏み込み……どこのギルドだ……!」
グレゴールは血走った瞳を剥き出しにし、歯茎から血を流しながらジャンを凝視した。
裏社会の頂点に立ち、数々の暗殺者や傭兵を雇い、葬ってきた男の記憶の引き出しが、目の前の男の異様な「手口」と合致していく。
無駄のない重心移動。
金属の特性を知り尽くした急所破壊。
そして――何よりも、人を解体しながら脈拍すら乱さない、あの徹底的な無機質さ。
「……まさか……『ネーベルクレーエ』か……!?」
グレゴールの口から漏れ出たその名に、執務室の空気が氷のように凍りついた。
「あの霧の烏どもは……十年前に帝国軍の殲滅魔導で山ごと焼き払われ、一匹残らず灰になったはずだ……! 生き残りなど、いるはずがねえ……!」
「ああ、全滅したよ」
ジャンは感情の削ぎ落とされた声で淡々と返した。
「大砲と殲滅魔術で山ごと焼かれてな。誰一人、墓すら残っちゃいない。……だがな、刃物の研ぎ方も、人間の急所の位置も、道具の手入れと同じで一度覚えりゃ体が忘れねえんだよ」
「ひっ……化け物め……! 死に損ないの亡霊が、今さら下町で何を気取ってやがった……!」
「気取っちゃいないさ」
ジャンは右手の黒打ち短剣の切っ先を、グレゴールの左胸――肋骨と肋骨のわずかな隙間、心臓の鼓動が伝わる一点へと静かに当てた。
「俺が欲しかったのはな、朝起きて、パンの耳をかじって、隣の爺さんの靴の歪みを直して、向かいの娘から美味いスープを貰うだけの……くだらねえ日常だったんだよ」
「な……んだと……?」
「お前らが、それを燃やした」
ジャンは体重をわずかに前へ乗せた。
ブスリ、と硬質な布と筋肉を断ち割る感触。
短剣の刃が、寸分の狂いもなくグレゴールの心臓の真ん中を貫通した。
「ご……ふッ……」
グレゴールの瞳から光が急速に失われ、口元から黒ずんだ血が溢れ出る。
指先が数回ピクピクと痙攣し、やがて全身から完全に力が抜け落ちた。
下町の闇を牛耳り、数多の人々を絶望に突き落としてきた『アイゼンシュランゲ』の組長グレゴールは、暖炉の灰に塗れたまま、ただの肉塊となって沈黙した。
ジャンは短剣を音もなく引き抜き、グレゴールの黒服の裾で血糊を丁寧に拭った。
「ひ……っ、ひいいいっ!!」
部屋の隅、巨大なマホガニーの執務机の陰から、情けない悲鳴が上がった。
カスパル伯爵だった。
豪奢な毛皮のコートは乱れ、ワインで汚れたズボンを履いたまま、床を這うように後ずさり、壁際まで追い詰められていた。
「た、頼む、助けてくれ! 殺さないでくれ! 余は伯爵だぞ! 王国の正規の貴族だ! 余を殺せば、王国軍が黙ってはいないぞ! 騎士団がお前を地の果てまで追い詰めて縛り首にするぞ!」
ジャンは返り血のついた黒革の外套を翻し、無言のまま、ゆっくりと伯爵へと歩み寄った。
一歩、石畳を踏み締めるたびに、濡れた靴底がペルシャ絨毯の上に赤黒い足跡を刻んでいく。
「何が望みだ!? 爵位か!? 領地か!? 下町の土地など全部くれてやる! あのボロ靴屋にも食堂にも、金貨を百枚ずつくれてやる! だから……だから命だけは――」
ジャンは伯爵の眼前で立ち止まり、静かに膝をついた。
フードの奥から覗くジャンの瞳には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、冬の夜の底のような、果てしない虚無と冷気が漂っていた。
「伯爵閣下」
ジャンは静かに口を開いた。
「あんたの手帳と、下町の地上げに関する裏帳簿は、どこにある」




