13.雨の階段と灰炎の罠
下町と上層貴族街を隔てるのは、切り立った崖に沿って伸びる三百段の石階段――通称「嘆きの長階」だった。
土砂降りの雨が滝のように石段を洗う中、ジャンは一段ずつ音もなく駆け上がっていた。
濡れた革靴は滑ることもなく、泥と煤にまみれた身体は豪雨の水煙に溶け込んでいる。
だが、階段の中腹、ちょうど外灯の灯火が途切れる踊り場に差し掛かった瞬間、ジャンの足が止まった。
夜の雨の匂いに混ざり、かすかな硫黄と焦げた獣脂の臭い。
「……ほう。ボリスの筋肉だるまを仕留めてここまで上がってくるとはな」
踊り場の暗がりから、低く掠れた声が響いた。
黒いローブを羽織り、真鍮の飾り杖を携えた痩身の男――アイゼンシュランゲ専属の傭兵魔術師、「灰炎のロルフ」が壁の影から姿を現す。
その手元では、雨水すら蒸発させる赤黒い魔導の残り火が、パチパチと不気味に爆ぜていた。
「ただの道具屋のジジイと聞いていたが、その身のこなし……ただの下町住まいじゃねえな」
ロルフが杖を振るった。
「――『爆ぜよ、灰の舌』!」
短縮詠唱とともに、圧縮された火球が階段の狭い踊り場を埋め尽くすように放たれる。
だが、ジャンは後退しなかった。左手で腰袋から掴み出した鉱石の削り粉と、気化しやすい防腐鉱物油を含んだ布切れを火球の直前へ扇状にぶち撒ける。
ドォンッ!!
空中で不完全な粉塵爆発が起き、爆風と黒煙が視界を遮った。
ロルフが煙の向こうを睨み、追撃の呪文を紡ごうと息を吸い込んだその瞬間――煙を突き破って鋼の目打ち針が飛来した。
針は喉ではなく、ロルフの右手首の腱を正確に貫通した。
「ぎゃあッ!?」
杖が手からこぼれ落ち、石段を転がる。詠唱が中断され、ロルフが手首を押さえてうずくまった瞬間、ジャンの影が真上から覆いかぶさった。
ジャンはロルフのローブの襟首を掴み、踊り場の冷たい石壁へ力任せに叩きつけた。
後頭部を強打し、意識が飛びかけたロルフの顎を左手で掴み上げ、強引に壁へ固定する。
「が、は……ッ! や、やめろ……俺は伯爵の――」
ジャンは言葉を挟ませず、作業革袋から取り出した「極小の精密クサリ(引き抜き用ノミ)」を、ロルフの貫かれた右手の傷口――目打ち針が通った神経の隙間へ、垂直にねじ込んだ。
「あぎゃあああああああああっ!!」
雨音をかき消す悲鳴が石段に木霊した。
魔術師にとって魔力を練り上げる起点である手の神経を、金属のヘラで直接抉られる激痛。ロルフの全身が痙攣し、白目を剥きかける。
ジャンは無表情のまま、クサリをわずかに回転させた。
「屋敷の防衛術式(結界)の解除法を言え」
「し、知ら……っ、ぎゃあああっ! 回すなッ、回すなあああッ!」
「結界の魔力核はどこだ。どの窓の術式を殺せば、警報を鳴らさずに侵入できる」
「に、二階だ……! 二階の東側、ステンドグラスの裏にある真鍮の魔力板だ……! あそこの配線を外せば、外壁の探知結界はすべて落ちる……!」
ロルフは鼻水と涙を雨水と混ぜ合わせ、喉が千切れるほどの勢いで捲し立てた。
ジャンの瞳には一切の揺らぎがなかった。かつてネーベルクレーエの隠れ里で、山を焼き払った魔導士たちから情報を引き出すために使われていた、徹底した尋問の技法そのものだった。
「屋敷内の私設兵の数は」
「に、二十人……! 組長のグレゴールが連れてきた腕利きが十人と、伯爵の直属騎士が十人……! 全部、最上階の執務室の前に集まってる……!」
「そうか」
ジャンはクサリを引き抜いた。
ロルフが安堵で息を吐き、ずるずると壁を滑り落ちようとした瞬間――ジャンの右手の黒打ち短剣が、逆手から順手へと滑らかに持ち替えられた。
そして、迷いなくロルフの鎖骨の隙間から、心臓の付け根へと深く突き立てられた。
「ごふっ……」
ロルフの瞳から光が消え、言葉にならない血の泡が口から溢れ出た。
ジャンは男の身体を石段の脇へ静かに横たえ、刃をロルフのローブで無造作に拭った。
「……癖を見抜けば、道具も術式も解体は難しくない」
ジャンは雨水を浴びながら、短剣を鞘へと戻した。
階段の最上部、上層貴族街の豪奢な門扉の向こうに、雷光に照らされたカスパル伯爵の大邸宅が聳え立っている。
二階、東側のステンドグラス。
ジャンは跳ぶように石段を駆け上がり、夜の闇へと消え去った。




