12.鈍色の尋問
「消え――ッ!?」
ボリスが息を呑んだ刹那、濡れた風が右の耳元をかすめた。
「死ねええッ!」
裏社会で幾重の修羅場をくぐり抜けてきたボリスは、常人の倍近い太さの腕で大鉈を真後ろへ力任せに薙ぎ払った。分厚い刃が空気を切り裂き、轟音じみた風切り音を立てる。直撃すれば人体など容易く両断する一撃だ。
だが、大鉈が切り裂いたのはジャンの外套の残像だけだった。
ジャンは刃が到達する直前、すでに重心を低く沈め、ボリスの懐――分厚い腕の振りの内側へ潜り込んでいた。
――カツン。
ジャンの左手が動いた。
握られていたのは短剣ではない。家具の歪みを直す硬質鋼の「小型の楔」だ。
それをボリスの右肘関節の隙間へ、掌底で鋭く打ち込む。
「ぐ、あッ!?」
右腕の筋が強制的に弛緩し、手から大鉈がすっぽ抜けて泥水へ落ちる。
だが、ボリスは並のゴロツキではなかった。激痛に怯むどころか、即座に獣のような咆哮を上げ、無事な左腕の裏拳でジャンの側頭部を狙って強引に振り抜いた。巨躯に似合わぬ凶暴な反応速度。
ジャンは頭をわずかに引いて裏拳を紙一重でかわすと、ボリスの軸足を外側から蹴り崩し、全体重をかけて泥の床へと叩き伏せた。
ドサリと重い肉の塊が泥水を跳ね上げる。
暴れ狂う巨漢の背中に膝を突き立て、右腕を背後で完全に極めて関節を固める。
「離せッ! クソ野郎、テメエなんぞに……!」
泥まみれになりながらボリスは筋肉を隆起させ、ジャンを背負い投げのように跳ね除けようと暴れた。その頑強さは熊のようだ。生半可な脅しや痛みでは、この手の筋金入りの悪党は絶対に口を割らない。
ジャンは無表情のまま、作業用の革袋から一本の道具を取り出した。
刃物ではない。
細工用の硬い真鍮板に穴を開けるための、極細の「千枚通し(目打ち針)」だ。
「……ッ、ジャン!?」
壁際でうずくまっていたニコが、息を呑んで目を見張る。
ジャンはボリスの首根っこを泥に押し付けたまま、男の左手の親指を掴み上げた。
「おい、ボリス。道具屋の手仕事ってのはな、大掛かりな力はいらないんだ」
ジャンの声は、まるで工房で客にヤスリの目を説明している時と同じ、淡々とした低音だった。
「ほんのわずかな隙間に、正しい角度で針を通すだけでいい」
「な、何を――」
ツッ、と千枚通しの尖端が、ボリスの親指の爪と皮膚の間の肉へと、静かに、だが確実に滑り込んだ。
「ぎゃああああああああっ!!」
倉庫の天井を突き破るような絶叫が木霊した。
筋肉や骨への打撲とは次元の違う、神経を直接針で抉られるような激痛。ボリスの巨体が弓なりに跳ね上がるが、ジャンの膝がその背骨を冷酷に押さえつけて逃さない。
「アイゼンシュランゲの背後にいるのは、誰だ」
「し、知るかッ……! テメエなんぞに吐くかよ、死に損ないの――ぎゃあああっ!?」
ジャンは無言で針をもう一ミリ深く押し込んだ。
ボリスの顔面から脂汗と鼻水が吹き出し、泥と混ざり合って見るも無残に歪む。
「爪の下の神経は、脳へ直結している。……昔の仲間が言っていたよ。どんな頑強な騎士でも、三本目の針には耐えられないと」
ジャンの指先は人差し指へと移動した。
感情の微塵もない、無機質な作業の手つき。その氷のような冷徹さに、ボリスの奥底にあった凶暴な矜持が、音を立てて砕け散った。
「言……言う! 言うから抜けッ! 頼む、抜いてくれええッ!」
ボリスは泥水をすすりながら、泡を吹いて狂ったように叫んだ。
「カスパル伯爵だ……! 上層のカスパル伯爵の別邸だ……! 組長のグレゴールも、雇われ魔術師の『灰炎のロルフ』も、今夜そこに集まってる……! 下町の地上げ完了を祝う宴を開いてるんだ……! 明日の朝には、正規の騎士団を使って残りの店を全部焼き払う手はずになってる……!」
「そうか」
「た、助けてくれ……! 全部喋った! 言われた通り全部喋ったぞ……!」
ジャンは親指から千枚通しをすっと引き抜いた。
ボリスは安堵の息を漏らし、泥の中に顔を沈めた。
――だが、ジャンの右手が止まることはなかった。
引き抜いた千枚通しの切っ先を、そのままボリスのうなじの付け根――頚椎の隙間へと、寸分の狂いもなく垂直に押し込んだ。
「が、……ッ」
声にすらならない短い呼気。
ボリスの巨体が一瞬だけ痙攣し、次の瞬間には完全に力を失って泥水の中に沈黙した。
静寂が戻った倉庫に、天井を叩く激しい雨音だけが響き渡る。
ジャンは千枚通しの先端についた血をボリスの服で丁寧に拭い、革ホルダーへと収めた。
立ち上がり、作業台から持ってきた林檎タルトを壁際で震えるニコの膝の上へ置く。
少年の瞳には、底知れぬ恐怖が焼き付いていた。
「……食堂へ行け、ニコ。エレナがいる」
ジャンは少年に背を向け、土砂降りの夜の闇へと静かに歩き出した。




