第3話 森で出会った人
第3話 森で出会った人
見上げるほど大きな木々が、空を覆っていた。
柔らかな木漏れ日が地面を照らし、どこからか鳥のさえずりが聞こえてくる。
「ここが……異世界。」
マリカは小さく呟き、ゆっくりと辺りを見回した。
神様から送り出されたことは覚えている。
けれど、森の真ん中に一人きりだとは思っていなかった。
「とりあえず、人がいる場所を探さないと……。」
不安を押し込め、一歩踏み出す。
舗装された道などなく、足元には草や木の根が広がっていた。
歩き慣れない森は思った以上に大変で、枝が服に引っかかり、何度も転びそうになる。
「はぁ……。」
少し歩いただけなのに息が上がる。
水も食べ物も持っていない。
どちらへ向かえばいいのかもわからなかった。
それでも立ち止まるわけにはいかない。
歩き続けていると、茂みの奥からガサリ、と何かが動く音がした。
マリカの足が止まる。
「……誰?」
返事はない。
代わりに、低いうなり声が聞こえた。
「グルルル……。」
ゆっくりと姿を現したのは、大型犬ほどの大きさをした灰色の獣だった。
鋭い牙。
黄色い瞳。
全身を覆う硬そうな毛並み。
「え……。」
身体が動かない。
本能が危険だと叫んでいた。
獣は低く身を沈めると、一気に飛びかかってきた。
「きゃっ!」
反射的に目を閉じる。
もう駄目だと思った、その瞬間だった。
ヒュンッ――。
風を切る音が響き、獣が大きく吹き飛ばされる。
地面を何度も転がり、やがて動かなくなった。
「……大丈夫ですか。」
落ち着いた低い声だった。
恐る恐る目を開ける。
そこには、一人の青年が立っていた。
濃い茶色の髪が風に揺れ、深い青灰色の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。
年は二十代後半くらいだろうか。
長身で、黒を基調とした上質な服の上から深緑のローブを羽織っている。
手には見慣れない杖が握られていた。
「立てますか?」
青年は静かに手を差し伸べる。
マリカは少し迷ってから、その手を取った。
「あ……ありがとうございます。」
温かい手だった。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です。」
声が震えてしまう。
青年は安心したように小さく息を吐いた。
「それなら良かった。」
その表情は穏やかだった。
先ほど魔物を一瞬で倒した人とは思えないほど優しい。
青年は周囲を見渡すと、不思議そうに首を傾げた。
「この森で一人とは珍しいですね。」
「えっと……。」
どう説明すればいいのかわからない。
異世界から来ました、なんて信じてもらえるだろうか。
「迷ったのですか?」
「……はい。」
嘘ではない。
世界そのものに迷っているのだから。
青年は少し考え込むように目を細めた。
「この辺りは魔物が多い場所です。一人で歩くには危険すぎます。」
「そう……なんですね。」
「家は?」
その質問に、マリカは答えられなかった。
家はない。
帰る場所もない。
黙り込むマリカを見て、青年は何かを察したようだった。
「事情は聞きません。」
優しい声だった。
「話したくなった時で構いません。」
その一言だけで、胸が少し軽くなる。
無理に聞かれないことが、こんなにも安心するなんて思わなかった。
「もし行く当てがないのでしたら、私の屋敷へ来ませんか。」
「え……?」
「このまま森に残すわけにはいきません。」
あまりにも自然に言われて、マリカは目を瞬かせた。
「知らない人を家に招いてしまって、大丈夫なんですか?」
「困っている人を放っておくほうが、後味が悪いので。」
そう言って、青年は少しだけ笑う。
その笑顔は派手ではない。
けれど、春の日差しのように穏やかだった。
マリカは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
こんなふうに、見返りを求めず手を差し伸べてもらったことが、今まであっただろうか。
「……お願いします。」
「ええ。」
青年は頷き、歩き始める。
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。」
少し振り返り、穏やかな笑みを浮かべる。
「私の名前は、エリアスです。」
その名前を聞いた瞬間。
マリカの胸の奥で、何かが小さく温かな光を灯したような気がした。
それが、新しい人生で初めて結ばれる大切な縁になることを、まだ二人は知らなかった。




