第7話 愛がなくてもいい、とは言えません sideアルベルト
謝罪会見まで、残り七日となった。
進行表はほぼ仕上がっていた。
席順も、花も、料理も、帰りに渡す菓子も決まっている。
アルベルトの四十五度も安定していた。
禁句である「だが」も、最近はかなり抑えられている。
ただし、表情筋だけは別である。
成果は出ている。
出ているが、出すぎている。
やはり布が必要かもしれない。
そこだけを除けば、順調だった。
少なくとも、ナタリアはそう見ていた。
「アルベルト様」
「何だ」
「少し、今後のことについて確認してもよろしいでしょうか」
「ああ」
ナタリアは机の上の書類をそろえた。
「謝罪会見が無事に終わり、お父様のお許しをいただけた場合の話です」
アルベルトは息を止めた。
謝罪会見の後。
父親の許しを得た後。
その先の、自分たちの話。
ナタリアがそれを考えてくれている。
それだけで、胸の奥が浮き立つようだった。
「……ああ」
「危機管理では、鎮火後の対応も大切です」
「そうか」
「はい。火を消したあとに、焼け跡をそのままにしてはなりませんので」
ナタリアは至極真面目だった。
言い方はかなり物騒だったが。
「私は、アルベルト様となら、良い夫婦関係を築けると思っています」
アルベルトの指先が止まった。
胸の奥が、一気に熱くなる。
良い夫婦関係。
その言葉だけで、未来の扉が開いた。
開いた扉の先には、明るい未来が広がっているように見えた。
ナタリアが隣にいる。
同じ家で、同じ食卓につく。
彼女が嬉しい時、その顔を一番近くで見られる。
悲しい時には、涙を拭える距離にいられる。
怒っている時には、何が彼女を傷つけたのかを聞ける。
疲れている時には、椅子を引ける。
寒い時には、上着をかけられる。
夜、眠る前に、彼女の瞳に最後に映るのが自分になる。
彼女の安らかな寝顔を隣で見ながら、一日を終えられる。
朝、目を開けた彼女の瞳に、最初に映るのも自分になる。
そして、彼女が好きなものを、ひとつずつ覚える。
彼女が安心して気を抜く場所に、自分がなる。
そういう日々を、一瞬で思い浮かべてしまった。
ナタリアが自分との未来を口にした。
それだけで、胸が勝手に明るい方へ向いてしまう。
「……そうか」
どうにか、それだけを返した。
口角が上がりかけている。
自分でも分かった。
喜ぶなと言われても無理だった。
嬉しいものは、嬉しい。
表情筋が暴れ出し、布をかけられる前に、どうにか押さえ込む。
しかし、アルベルトの心はすでに浮き足立っていた。
今しがた開いたナタリアとの未来の扉は、あまりにも希望に満ちていた。
「はい。ただ、ご安心ください」
ナタリアは真面目に続けた。
「もちろん、アルベルト様が最初に『愛することはできない』とおっしゃった通り、私はアルベルト様に恋愛感情を求めるつもりはありません」
ばたん。
開いた未来の扉が、ものすごい勢いで閉まった。
「愛してほしいとも申しません」
がちゃり。
閉まった扉に、念入りに鍵をかけられた。
「ですから、アルベルト様も、私を愛そうとご無理なさらないでくださいね」
ざくり。
鍵穴に、さらに刃物を差し込まれた。
ナタリアは気づかない。
「人は生まれついて同じ温度で誰かを愛せるわけではありません。愛していると簡単に口にできる方もいれば、そうでない方もいます」
「…………」
「できないものを、できるふりをする必要はないと思うのです」
それは、ナタリアなりの思いやりだった。
アルベルトにも分かった。
分かってしまった。
「アルベルト様は、私を欺きたくなかったのでしょう」
アルベルトは、すぐには返事ができなかった。
そうだ。
欺きたくなかった。
少なくとも、あの時はそう思っていた。
「……あの時は、確かにそう思っていた」
「ならば、そのお気持ちは尊重したいと思っています」
ナタリアは静かに続けた。
「たとえ私たち二人の間に愛がなくても、お互いに敬意は持てます。誠実に話し合うこともできます。困った時に助け合うことも、相手の立場を考えることもできます」
ぐさり。
今度は、刺さった刃が柄まで押し込まれた。
「恋愛感情だけを夫婦の土台にすると、かえって相手を追い詰めてしまうこともあると思うのです。愛しているならこうしてくれるはずだ、とか。好きなら分かってくれるはずだ、とか」
ナタリアの声が、少しだけ静かになった。
「そういう期待は、時々、言葉を間違えさせます」
アルベルトは彼女を見た。
ナタリアは手元の書類に視線を落としていた。
「ですから、愛を条件にしない方が、穏やかでいられることもあると思います」
「……穏やか」
「はい」
ナタリアは顔を上げた。
「愛がなくても、尊敬し合える夫婦になりましょう」
とどめだった。
閉まった扉の向こうから、さらに閂を落とされたような音がした。
アルベルトは、しばらく言葉を返せなかった。
ナタリアの言っていることは、間違っていない。
家同士の婚姻。
互いへの敬意。
誠実な話し合い。
穏やかな関係。
どれも大切だ。
だが違う。
今は違う。
自分はもう、そこにはいない。
愛がなくても、ではない。
ある。
あるのだ。
むしろ多すぎて、扱いに困っている。
名を呼ばれるだけで胸が動く。
ふっと微笑まれるだけで、膝から力が抜けそうになる。
触れたいのを堪えるたびに、素数が必要になる。
椅子から立てなくなる程度では済まない。
本当は、抱きしめたい。
近くにいたい。
自分の言葉で笑ってほしい。
それを毎日、どうにか押し戻している。
言いたい。
違う、と。
もう違うのだ、と。
けれど、どの口で。
あなたを愛することはできない。
そう言ったのは、自分だ。
その言葉を真面目に受け取って、ナタリアは愛を求めない夫婦の形を探している。
傷つかないように。
相手に無理をさせないように。
それでも隣に立てるように。
その未来を差し出したのは、他でもない自分だった。
アルベルトは、机の上の進行表を見た。
謝罪会見まで、残り七日。
まだ謝ってもいない。
まだ許されてもいない。
その前に、愛しているなどと。
言えない。
けれど。
愛がないままでいいなどとは、到底思えなかった。
*
その夜、アルベルトはあまり眠れなかった。
目を閉じると、閉じたはずの未来の扉が浮かぶ。
その向こうには、ナタリアがいる。
同じ食卓。
隣の席。
眠る前に最後に見る顔。
朝、最初に見る顔。
そこまで思い浮かべてしまってから、すぐにナタリアの声が戻ってくる。
私はアルベルト様に恋愛感情を求めるつもりはありません。
愛してほしいとも申しません。
ご無理なさらないでくださいね。
善意だった。
分かっている。
ナタリアは自分を責めているのではない。
責任を押しつけているのでもない。
むしろ、自分を楽にしようとしてくれている。
それが余計に刺さった。
アルベルトは寝返りを打った。
天井を見ても、壁を見ても、ナタリアの言葉は消えない。
愛がなくても、尊敬し合える夫婦。
その未来を、ナタリアなら本当に選べてしまう。
穏やかに。
誠実に。
少しも恨まず。
それが、ひどく怖かった。
*
その翌日。
ナタリアは、古書店へ寄った。
謝罪会見の進行に使う古い式典記録を確認するためである。
少なくとも、ナタリアはそう説明した。
「これも危機管理か」
「はい。過去の事例確認です」
「そうか」
アルベルトの声は、いつもより少し低かった。
ナタリアは一度、彼の顔を見た。
「……昨夜、あまり眠れませんでしたか?」
「なぜ分かる」
「目元が少し硬いです」
恋情には気づかない。
だが、体調には気づく。
「今日は、用事が済みましたら早めに帰りましょう」
「……ああ」
気遣われている。
大切に見られている。
それなのに、肝心なところだけは届いていない。
それがまた、アルベルトには堪えた。
二人は古書店へ入った。
扉についた小さな鈴が、ちりんと鳴る。
店内は狭く、古い紙と革表紙の匂いがした。
ナタリアは奥の棚の前で足を止める。
そこにいた若い店員が、彼女に気づいて顔を上げた。
整った顔立ちの青年だった。
物腰もやわらかい。
常連に向ける親しさと、書物を扱う者らしい落ち着きがある。
「ああ、ナタリア様。ご依頼の式典記録、ご用意しています」
「助かります」
ナタリアの声が、ぱっと明るくなった。
アルベルトは、その声だけで足を止めた。
「こちらです。傷みはありますが、当時の言い回しが残っています」
「ありがとうございます」
「それから……ご依頼の件とは別に、こちらも入りました」
店員は、もう一冊を大切そうに差し出した。
「以前お話しされていた童話の初版本です。探していらっしゃいましたよね」
ナタリアの目が、明らかに輝いた。
「こ……これ……ずっと探していたんです」
「ようやく入りました。少し傷みはありますが、挿絵も残っています。当時の色もきれいですよ」
「覚えていてくださったんですか」
「もちろんです。ナタリア様は、この本のお話をとても楽しそうにされていましたから」
よく知っている。
そう言わんばかりの穏やかな声だった。
ナタリアは慎重に本を受け取った。
そっと頁を開く。
そこにあった挿絵を見て、思わず息を呑んだ。
「……綺麗」
古い紙の上に残った色が、思っていたよりずっとやわらかかった。
ナタリアは、しばらく頁から目を離せなかった。
それから、ふわりと笑った。
店員に向かって、嬉しそうに。
頬が明るくなり、声が弾む。
指先が大切そうに本の表紙をなぞる。
アルベルトは、その本を知らない。
その童話も知らない。
ナタリアがなぜその挿絵にそんなに嬉しそうにするのかも、今の彼には分からない。
だが、目の前の男は知っている。
ナタリアが探していた本を知っている。
彼女が喜ぶことを覚えている。
どんな本を差し出せば、その目が輝くのかを知っている。
それが、ひどく面白くなかった。
ただ、本の話をしているだけだ。
それなのに。
あの笑顔を、自分ではない男に向けている。
あの弾んだ声を、自分ではない男が引き出している。
無理だ。
静かに理解した。
自分は、思っていたよりずっと駄目だった。
愛がなくても尊敬し合える夫婦。
穏やかな関係。
たぶん、できる。
ナタリアなら、きっとできてしまう。
家を守り、互いを尊重し、必要な時には助け合い、穏やかに笑う。
そういう夫婦を、彼女はきちんと作れてしまう。
けれど。
その穏やかな暮らしの中で、もしナタリアが自分以外の誰かを好きになったら。
自分には向けない顔で笑い、
自分には話さないことを話し、
自分には預けない感情を、その男へ預けるようになったら。
無理だ。
愛がなくてもいい、などと言えない。
尊敬だけでいい、などと思えない。
ナタリアに、自分を愛してほしい。
自分を選んでほしい。
自分の言葉で笑い、自分のそばで安心し、自分にだけ少し気を抜いてほしい。
そんなことを望む資格があるのか。
あなたを愛することはできない。
そう言ったこの口で。
けれど、それでも。
愛がないままでいいなどとは、到底思えなかった。
「アルベルト様?」
ナタリアが振り返った。
その顔には、まだ楽しさの名残が残っている。
アルベルトは、ほんの一瞬だけ返事が遅れた。
「……すまない。少し考え事をしていた」
「そうでしたか」
ナタリアは小さく首を傾げたが、すぐに手元の本へ視線を戻した。
「こちらが式典記録です。これを読めば、当時の式典記録の言い回しが少し分かるかもしれません。お父様の前で不用意な表現を避ける参考にもなります」
「それは重要だな」
「はい」
「もう一冊は?」
「ああ、これは……」
ナタリアは、童話の本を胸に寄せるように持った。
「母が子どもの頃に好きだった童話の初版本です。私にもよく読んでくれたお話なのですが、家にある本は後から刷られたもので」
ナタリアは、表紙をそっと撫でた。
「母が時々、『私が子どもの頃に読んでいた本とは、挿絵が違うのよ』と、少し懐かしそうに言っていたんです。それがずっと気になっていました。母が懐かしんでいた絵を、私も一度見てみたかったんです」
いつもより口数が多い。
少し早口だった。
嬉しい時のナタリアは、こういう話し方をするのだと知る。
アルベルトは黙って聞いていた。
その嬉しさを、今ここで奪いたいわけではない。
彼女が好きなものを好きだと言えることは、よいことだ。
笑っているなら、それでいい。
そう思う。
そう思うのに。
その笑顔を、自分の方へ向けてほしい。
「……私も読む」
「え?」
「式典記録も読む。だが、その童話も読む」
ナタリアはぱちりと瞬いた。
それから、ぱっと笑った。
「本当ですか?」
「ああ」
「では、ぜひ。アルベルト様なら、私とは違うところに気づかれるかもしれません。あとでお話しできるのが楽しみです」
楽しみ。
その一言で、胸の奥で渦巻いていたものが、ふっとほどけた。
単純だ。
あまりにも単純だ。
だが、ナタリアが自分と話す未来を楽しみにしている。
それだけで、呼吸が楽になる。
店員が丁寧に本を包む。
「では、こちらはナタリア様へ」
「ありがとうございます」
ナタリアが受け取ろうとした瞬間、アルベルトが横から手を伸ばした。
「持とう」
「二冊だけですから、軽いですよ」
「持とう」
「……では、お願いいたします」
ナタリアは少し不思議そうにしながらも、本を渡した。
アルベルトはそれを受け取る。
二冊の本は、腕に収まるほどの重さだった。
だが、思ったよりも重く感じた。
自分が知らなかった彼女の好きなもの。
彼女の母が好きだった童話。
彼女が誰かと共有していた時間。
今、それを自分が持っている。
それだけで、先ほどまで胸を荒らしていたものが、落ち着いた。
*
古書店を出ると、通りには午後の光が落ちていた。
馬車を回すよう護衛に告げ、アルベルトがほんの少しだけナタリアから目を離した時だった。
「ねえ、お嬢さん」
軽い声がした。
アルベルトが振り返る。
若い男が、ナタリアの前に立っていた。
「かわいいね。一人?」
かわいい。
そこは否定できない。
全面的に正しい。
ナタリアはかわいい。
笑うと目元がやわらぐ。
真剣になると少し眉が寄る。
好きなものを前にすると、さっきのように声が弾む。
そうだ。
ナタリアはかわいい。
だが、それをお前が言うな。
「いいえ」
ナタリアは本の包みを抱えたまま、まじめに答えている。
男は気にした様子もなく笑った。
「じゃあ、少しだけ。ね? 近くにいい茶店があるんだ。一緒にどう?」
羽虫。
その言葉が、アルベルトの頭をよぎった。
考えるより早く、足が動いていた。
「失礼」
アルベルトは、ごく自然に二人の間へ入った。
声は穏やかだった。
礼儀も崩していない。
ただ、目だけは笑っていなかった。
「彼女は私と一緒です」
男は一瞬、軽い笑みを浮かべたまま固まった。
そして、アルベルトを見上げた。
整いすぎた顔。
乱れのない声。
礼を失わない所作。
なのに、なぜか、怖い。
男は本能で理解した。
これは、関わってはいけない男だ。
「あ……」
男の顔から、すっと血の気が引いた。
「これは、その、失礼しました」
「いえ」
アルベルトは微笑んだ。
謝罪会見用に鍛えた、角度と間を間違えない、たいへん丁寧な微笑みだった。
ただし、使用用途を誤っていた。
男はさらに一歩下がった。
「本当に、失礼しました。どうぞ。どうぞ末永くお幸せに」
まだ何も言っていない。
男は勝手に何かを察し、ぎこちない礼をして、ほとんど逃げるように去っていった。
ナタリアは不思議そうにその背中を見送る。
「アルベルト様?」
振り返った彼女は、いつものように首を傾げていた。
「今の方、なぜあんなに急いで」
「用事を思い出したのだろう」
「そうでしょうか」
「ああ」
ナタリアは納得したような、していないような顔をした。
その顔が、あまりに無防備だった。
アルベルトは、自分の胸の奥から冷気が立ちのぼるのを感じた。
羽虫。
そう思った。
ナタリアへ軽々しく近づく男を、羽虫だと。
だが、その瞬間に気づく。
自分もまた、エヴァンズ侯爵に羽虫と判断されれば終わりの側なのだ。
あなたを愛することはできない。
そう言った男である。
どの口で、ナタリアに近づく男を羽虫などと思えるのか。
それでも。
ナタリアへ軽々しく近づく男を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
穏やかな夫婦。
愛がなくても成り立つ関係。
尊敬と信頼だけで続いていく未来。
そんなものを自分に言い聞かせることには、もう無理があった。
ナタリアが誰かに笑いかけるだけで、こんなにも乱れる。
見知らぬ男に声をかけられただけで、間に入らずにはいられない。
愛などいらないとは、もう言えない。
ナタリアに、自分を見てほしい。
自分を選んでほしい。
そう思ってしまった時点で、もう答えは出ていた。
「アルベルト様」
ナタリアがこちらを見上げていた。
「どうかなさいましたか」
「いや」
アルベルトは本の包みを持ち直す。
「行こう」
「はい」
歩き出すと、ナタリアが少しだけ遅れた。
人波が横から流れてくる。
アルベルトは何も言わず、ナタリアの外側へ回った。
本の包みを持つ手に、少しだけ力が入る。
「足元に気をつけて」
「ありがとうございます」
ナタリアは本の包みを見て、それからアルベルトを見上げた。
「読むの、楽しみですね。あとで、アルベルト様の感想も聞かせてください」
そう言って、ふわりと笑う。
今度は、自分に向かって。
それだけで、先ほどまで胸の奥に立っていた冷気が、嘘のように薄れていく。
情けないほど、彼女ひとりに左右されている。
単純だ。
本当に単純だ。
けれど、どうしようもない。
ナタリアが笑えば、それだけで救われる。
だからこそ、欲が出る。
もっと。
もっと、自分に向けてほしい。
愛がなくてもいいなどとは、もう言えなかった。




