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第5話 気づけば沼に落ちていました sideアルベルト

 机上での訓練をひと通り終えると、感情を自然に表へ出すための実地訓練が数回重ねられた。


 美術館では、絵画を前にした時の感嘆を学んだ。


 ただし、アルベルトが眺めていたのは絵ではなく、絵を見上げるナタリアの横顔だった。


 演奏会では、感動した時の余韻を学んだ。


 最後の音が消えたあと、ナタリアはしばらく黙っていた。

 睫毛の先が少し濡れていて、アルベルトは声をかけそびれた。


 小劇場では、笑いの自然さを学んだ。


 舞台上の老執事が転ぶ場面で、ナタリアは思いのほか素直に笑った。

 普段あれほど謝罪の角度に厳しい令嬢が、肩を小さく揺らしている。


 アルベルトは、舞台よりそちらを見ていた。


 図書館では、感動した時の涙を学んだ。


 ナタリアが読んでいたのは、離れ離れになった兄妹が、長い年月の末に再会する物語だった。


 読み終えたあと、ナタリアは本を閉じたまま、しばらく動かなかった。


 頬に、涙が一筋落ちる。


 それは、胸の奥から静かにこみ上げたもののようだった。


 その横顔が、ひどく綺麗だと思った。


 アルベルトは何も言わず、ハンカチを差し出した。


「……ありがとうございます」


 ナタリアは小さな声で礼を言い、目元を押さえた。


 この手で涙を拭ってやりたい。


 そう思った瞬間、自分の指が危ないものに思えた。 


 市場では、怒りの表情を学んだ。


 果物の屋台で、小さな女の子が銅貨を握りしめていた。


「おじさん、これで足りますか」


「ああ、足りる足りる」


 店主は果物を袋に入れたが、お釣りを返さなかった。


 女の子は気づかず、嬉しそうに袋を受け取ろうとする。


「お釣りは?」


 ナタリアが言った。


 声は静かだった。


 けれど、明らかに怒っていた。


「え?」


「お釣りがあるはずです」


 店主は笑って肩をすくめた。


「いやいや、大した額ではありませんし、その分、少し大きいのを入れておきましたよ」


「それは、この子が選んだことではありません」


 ナタリアは女の子の手元を見た。


「この子は、自分のお金で買い物をしようとしています。分からないだろうと思って、お釣りを曖昧にしてはいけません」


 店主は気まずそうにお釣りを返した。


 女の子は不思議そうにナタリアを見る。


「ありがとう、お姉ちゃん」


「どういたしまして。お買い物は立派でした」


 女の子はぱっと笑った。


 屋台を離れてからも、ナタリアはまだ少しだけ怒っていた。


 きゅっと口元を結び、頬がわずかに膨れている。

 本人は真剣なのに、どこか子どもみたいだった。


 アルベルトは、それをかわいいと思った。


 まずい。


 本人は本気で怒っているのに。


 かなり、まずい。


 茶店では、会話中の間を学んだ。


 ナタリアは紅茶に添えられた小さな菓子を見て、ほんの一瞬だけ嬉しそうにした。


 花がほころぶような、というのは大げさだろうか。


 だが、そう見えた。


 小さな菓子ひとつでそんな顔をするのなら、いくらでも差し出したくなる。


 甘やかしたい。


 ふと浮かんだ言葉に、アルベルトは内心で黙った。


 甘やかす。


 今、自分はそう思ったのか。


 なぜ。


 最近、自分の感情が言うことを聞かない。


 感情を動かす場へ行く。

 そこで、自然に反応する。

 声を出す。

 人と話す。


 実地訓練としては、たしかに間違っていない。


 ナタリアはよく笑い、よく驚き、よく考え、時々泣きそうになる。


 だから自分も、それにつられて心が動くのだろう。


 アルベルトはそう考えた。


 かなり無理がある気もしたが、そういうことにした。


    *


 実地訓練の日、エヴァンズ家の使用人たちは妙に張り切るようになった。


「本日は、こちらのお召し物がよろしいかと」


「着るものも関係ありますか」


「ございます」


 侍女は即答した。


「実地訓練ですので」


 最近、エヴァンズ家の使用人たちは、「実地訓練」という言葉を万能の免罪符にしている。


「お嬢様には淡い青を」


「アルベルト様には紺を」


「並んだ時の調和が」


「大変よろしいので」


 ナタリアは首を傾げた。


「調和が必要なのですか」


「あります。実地訓練ですので」


「なるほど」


 アルベルトは黙った。


 何がなるほどなのかは、分からない。


 けれど、胸元に淡い青のリボンを結ばれたナタリアがこちらを向いた瞬間、侍女たちの判断は正しいと思ってしまった。


 危険だ。


 かなり、危険だ。


    *


 屋敷を出る頃には、使用人たちが玄関先に並んでいた。


「いってらっしゃいませ」


「本日も良い実地訓練を」


「お二人とも、どうか素敵な一日を」


 なぜか全員、胸いっぱいという顔をしている。


 侍女の一人など、両手を胸元に寄せ、今にもため息をこぼしそうだった。

 送り出しているというより、何か尊いものを見守っている。


 ナタリアは不思議そうにする。


「最近、皆様やけに温かいですね」


「そうだな」


「謝罪会見への期待でしょうか」


「たぶん違う」


「違うのですか」


「おそらく」


 ナタリアは首を傾げた。


 アルベルトは説明しなかった。


 下手に説明すれば、ナタリアは「では、実地訓練の目的を改めて整理しましょう」と言い出す気がした。


 そうなれば、回数が減るかもしれない。


 それは困る。


 かなり困る。


 ……困る?


 何が。


 アルベルトは、一旦考えるのを止めた。


 どこかで、ずぶ、と小さな音がした気がした。


    *


 街でも、二人はよく声をかけられた。


「あら、ナタリア様」


「今日も実地訓練ですか」


「アルベルト様もご一緒で」


「お似合いですなあ」


 ナタリアは真面目に礼を返した。


「ありがとうございます」


 お似合い、についての訂正はなかった。


 訂正されなかっただけで、少し嬉しい。


 よくない。


 本当によくない。


 ずぶ。


 また、どこかで小さな音がした。


 通りの小物屋の前で、ナタリアが足を止めた。


 店先には、リボンや髪飾りが並んでいる。


 淡い青の小さな髪飾りの前で、ナタリアの視線が少しだけ長く止まった。


 手には取らない。


 けれど、目は離れていない。


 アルベルトはそれを見逃さなかった。


「ひとつ、もらおう」


「アルベルト様?」


 店主が笑って髪飾りを差し出す。


「まあまあ。お嬢様によくお似合いですよ」


「実地訓練だ」


 アルベルトは言った。


「装飾を贈られた時の自然な反応を見る必要がある」


 ナタリアは何か言いたそうな顔をした。


 だが、実地訓練と言われると弱い。


「……なるほど」


 納得した。


 してしまった。


 アルベルトは髪飾りを手に取る。


「着けても?」


 ナタリアが一瞬だけ目を瞬いた。


「……はい」


 短い返事だった。


 アルベルトは、青い髪飾りをナタリアの髪に添えた。


 指先が髪に触れる。


 ナタリアの睫毛が、ほんの少し揺れた。


「よく似合う」


「……ありがとうございます」


 その声は、いつもより少し小さかった。


 ずぶ。


 アルベルトはさっと手を離した。


 今のは危ない。


 非常に危ない。


 何が危ないのかは、まだ言葉にしたくなかった。


    *


 そして本日は、花屋である。


 謝罪会見の会場に置く花を最終確認するためだった。


 花屋の店先には、季節の花が色ごとに分けられて並んでいた。


 赤。

 黄。

 白。

 淡い青。

 薄紫。


 ナタリアはその前に立ち、腕を組んだ。


「謝罪会見の花は、どうあるべきだと思われますか」


「白」


 アルベルトは答えた。


 ナタリアが顔を上げる。


「即答でしたね」


「赤は避けるのだったな」


「はい。燃えますので」


「なら、白だ」


 ナタリアの目元が明るくなった。


「よく覚えておいででしたね」


「……そうか」


「はい。謝罪会見において、色の印象は重要です。大変よい判断です」


 褒められた。


 ただ花の色を覚えていただけだ。


 それなのに、胸の奥が妙にくすぐったい。


 孤児院で、子どもたちがナタリアに優しい笑顔で字を褒められていた時の顔を思い出す。


 嬉しそうだった。


 あの時、少しだけ思ったのだ。


 いいな、と。


 すぐに打ち消した。


 子どもではないのだから。


 だが今、自分がその笑顔で褒められてみると分かる。


 嬉しい。


 かなり、嬉しい。


 まずい。


「ただ、白だけでは少し冷えますね」


 ナタリアは花の列を見た。


「淡い青を少し入れてみてはどうだ」


 アルベルトが言うと、ナタリアが目を上げた。


「青、ですか」


「前に、淡い青色が好きだと言っていただろう」


「覚えておいででしたか」


「ああ」


 ナタリアは淡い青の花へ視線を戻した。


「夜が明ける前の空の色に似ていますね」


「夜明け前の空の色か。いいな。花の組み合わせは、君が良いと思うものにしたい」


 ナタリアは、嬉しそうな顔をした。


「ありがとうございます」


 その顔を見て、アルベルトは思った。


 白を覚えていて褒められるのも悪くない。


 だが、青い花で彼女が嬉しそうにするのは、もっと悪くなかった。


    *


 その時だった。


 店の端で、小さな声がした。


「あ……」


 振り向くと、男の子が青ざめた顔で立っていた。


 足元には、小さな花束が落ちている。


 白い花と黄色い花を束ねた、子どもの手にも収まるほどの花束だった。


 落とした拍子に、自分の足で踏んでしまったらしい。

 茎が何本か折れ、花びらが石畳に散っている。


 近くにいた店員が、今にも泣きそうな男の子と足元の花束を見て、どう声をかけるべきか迷っていた。


「お母さんに、買ってあげようと思ったのに……」


 アルベルトが足を止めるより先に、ナタリアがしゃがみ込んでいた。


「大丈夫です」


「こわれちゃった……」


「はい。壊れてしまいましたね」


 ナタリアは否定しなかった。


 責めもしなかった。


「こういう時は、ちゃんと謝りましょう」


「……うん」


 男の子は涙をこらえながら頷いた。


 ナタリアは崩れた花束をそっと手のひらに乗せる。


「まず、そちらのお店の方に謝りましょう。まだ買う前のお花ですから」


「おみせのひとに……?」


「はい。そのあとで、お母様に、ごめんなさいと、本当は渡したかったのだと伝えましょう」


 男の子は花束を抱えたまま、店員へ向き直った。


「こわしちゃってごめんなさい」


 店員は少しかがみ、男の子の言葉をきちんと聞いた。


「はい。分かりました」


 それから、やわらかく笑う。


「大丈夫ですよ。ちゃんと言えましたね」


 そして、折れた茎を短く切り、残った花を小さく結び直してくれた。


 ちょうどその時、店の奥から母親らしい女性が戻ってきた。


「すみません、目を離してしまって」


 男の子が母親を見上げる。


 小さく結び直された花束を抱えたまま、ぎゅっと唇を結んだ。


「ごめんなさい。わざとじゃないの。お母さんに買ってあげたかったの」


 母親は一瞬驚いたあと、しゃがんで男の子を抱きしめた。


「ありがとう。嬉しいわ」


「こわれちゃった」


「でも、きれいよ」


 男の子は泣きながら笑った。


 ナタリアも、ほっとしたように笑った。


 アルベルトは、その横顔を見ていた。


 謝罪とは、許されるための手順ではない。


 間違えたことを、なかったことにするための言葉でもない。


 壊れた場の前で一度立ち止まり、

 自分が何をしたのかを認め、

 もう一度、相手や周囲と向き合うためのもの。


 そして時には、

 その人がこれ以上悪い方へ転がらないよう、引き止めるためのものなのだと。


 彼女は、たぶん本気でそう思っている。


 だから、自分が口にしたあの言葉にも、ただ怒って終わりにしなかった。


 傷ついてはいない、と彼女は言った。


 本心は分からない。


 けれど、あの言葉が場を壊したことは確かだった。


 彼女は、それを放っておかなかった。


 このままでは命が危ないのだと、大真面目に言った。

 延命措置を取るのだと、当然のように言った。


 謝罪会見をしろと言った。

 角度を教えた。

 間を直した。

 表情筋を鍛えた。

 焼き菓子まで選んだ。


 奇妙だ。


 かなり奇妙だ。


 しかし、その奇妙さの奥に、彼女なりの筋があった。


 許されるためではなく。

 責めるためでもなく。

 壊したものの前で立ち止まり、

 周囲の前で、もう一度立てるように。


 そして、これ以上悪い方へ転がらないように。


 そう考える人なのだ。


 ずぶずぶ。


 少しずつ沈みかけていた足元が、気づけば膝のあたりまで沈んでいた。


    *


 花屋を出たあとも、アルベルトはしばらく黙っていた。


 ナタリアは、見本として束ねてもらった花の包みを抱えている。


 白い花。

 淡い青の花。


 謝罪のための花。


「アルベルト様」


「何だ」


「先ほどから、少し静かです」


「考えていた」


「謝罪会見についてですか」


「少し違う」


 ナタリアは彼を見上げている。


 アルベルトは、ぽつりと言った。


「君は、壊れたものの前で立ち止まるのだな」


「壊れたもの、ですか」


「言葉や、人との関係のことだ」


「……謝罪のことでしょうか」


「謝罪も含めてだ。」


「最後まで、というほどではありません。ただ、壊れたまま進むと、もっと壊れることがありますので」


「そうか」


「はい。それに、謝れるうちに謝った方がいいですし、直せるところがあるなら、直した方がいいと思います」


 アルベルトは、少しだけ息を吐いた。


「君はすごいな」


 ナタリアは目を丸くした。


「すごい、でしょうか」


「ああ」


 そして、そのまま言葉がこぼれた。


「私は、よく冷たいと言われる」


「そうなのですか」


「何を考えているか分からないとも言われる」


「なるほど」


「君もそう思うか」


「いいえ」


 即答だった。


 アルベルトは足を止める。


「即答だな」


「はい。顔だけを見れば、たしかに分かりにくいです」


「そこは否定しないのだな」


「事実ですので」


 ナタリアはまっすぐ言った。


「ですが、一緒にいればすぐに分かります。アルベルト様は冷たい方ではありません」


「…………」


「困っている方がいれば、必ず気づかれます。人混みでは自然に外側を歩かれますし、疲れている方には椅子を引きます。荷物が重ければ、何も言わずに持たれます」


「それは普通だろう」


「普通ではありません」


 ナタリアはきっぱり言った。


「それは、相手を見ていなければできないことです」


 アルベルトは言葉を失った。


「アルベルト様は、相手の困りごとを先に見つけておられます。相手が口にする前に、どうすれば楽になるかを考えておられます」


「…………」


「情が薄い方は、そこまでなさいません」


 アルベルトは何も言えなかった。


「アルベルト様は、冷たいのではありません。表情に出にくいだけです。それから、言葉にするのが少し苦手なだけです」


「…………」


「もしアルベルト様を冷たいと評する方がいるなら、その方はアルベルト様をきちんと見ていないのだと思います」


 その一言は、思っていたより深く刺さった。


 慰めではない。

 気遣いでもない。


 ナタリアはただ、見たものを言っただけだった。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


 自分でも欠けていると思っていたものを、

 彼女は欠けていないと言った。


 見えないところにあったものを、見つけてもらった気がした。


「それに」


 ナタリアは続けた。


「謝罪会見は、きっと成功します」


「急にそこへ戻るのか」


「重要です」


「そうか」


「はい。アルベルト様には、伝える気持ちがあります。あとは、それを届く形にするだけです」


「届く形」


「はい。そのために、アルベルト様のことをまだよく知らない方にも、お気持ちが伝わるよう、表情や視線や声の訓練をしているのです」


 届く形。


 その言葉が、胸の中でゆっくり沈んだ。


 アルベルトは、しばらく何も言えなかった。


 ナタリアは隣で、花の包みを大切そうに抱えている。


 その横顔が、あまりにも優しかった。


 まずい。


 そう思った時には、もう遅い。

 膝まで浸かっていたところから、さらに沈んだ。

 

 ずぶ。


 まずい。


 ずぶずぶ。


 危険だ。


 ずぶずぶずぶ。


 気づいた時には、胸のあたりまで沈んでいた。


 思ったより深い。


 底が見えない。


 たぶん、沼だった。


    *


 アルベルト・ローレンには、もともと素質があった。


 父は、妻のためなら命を厭わない男だった。


 母は、夫がいなければ生きていく意味がないと豪語する女だった。


 二人とも、愛情が重かった。


 非常に重かった。


 幼いアルベルトは、よく両親の間に座らされた。


 右に父。

 左に母。


 二人が手を取り合い、肩を寄せて見つめ合うたび、なぜか間にいるアルベルトの頬が、右からも左からもむぎゅっと挟まれる。


 父は母を見ている。

 母は父を見ている。


 その間にいる幼い息子の存在は、たぶん一瞬忘れられていた。


 アルベルトは、クッキーを持ったまま静かに思う。


 食べづらい。


 非常に、食べづらい。


 そして今、自分は何を見せられているのだろう。


 愛とは、どうやら間にいる息子の存在まで一瞬忘れてしまうものらしい。


 恐ろしい。


 自分には到底まねできない。


 そう思っていた。


 母は寝物語にも、よく恋の話を聞かせた。


 引き裂かれた恋人たちが、家同士の争いを越えて互いを求める話。

 海を越えて帰らぬ恋人を待ち続ける娘の話。

 王冠を捨てて、ただ一人のために遠い国へ渡る王子の話。

 死の間際まで、相手の名だけを呼び続けた騎士の話。


 どれも美しく、重かった。


 父は言った。


「妻と決めた相手には、命をかけて守りなさい。一人の女性に誠実でありなさい」


 母は言った。


「愛することができるなら、惜しまず伝えなさい。できることは、できるうちに全部しなさい。けれど、できないことを装ってはいけません」


 アルベルトは、それを真面目に受け取った。


 誠実であること。

 偽らないこと。

 できないことを、できるふりをしないこと。


 その結果、彼の口から出たのが、


 ――あなたを愛することはできない。


 だった。


 もちろん、両親が望んだ誠実さは、それではなかった。


 なお、その報告を受けたローレン夫妻は、しばらく言葉を失った。


「あなた」


「ああ」


「私たち、誠実にとは言いましたね」


「言った」


「ですが、あの子は」


「誠実を剣にして突撃したな」


「しかも相手はエヴァンズ侯爵です」


「盾は持たせたか?」


「持たせておりません」


「では、祈るしかない」


「祈りましょう」


 その日から、ローレン夫妻の祈りは少し切実になった。


 アルベルトは長く、自分には無理だと思っていた。


 父のように命をかけて人を愛することも。

 母の物語に出てくる騎士のように、誰かの名だけを呼び続けることも。


 そんな物語の登場人物のような感情は、自分には縁がない。


 そう思っていた。


 父母の愛情は、あまりにも重かった。


 それを日々見せつけられて育った結果、アルベルトは早々に悟った。


 自分には、あれは無理だ。


 愛は大きすぎる。

 人の心を動かしすぎる。

 時に、間にいる息子の頬まで巻き込む。


 ならば感情は、ほどほどでいい。


 心は、そう簡単に大きく動かない方がいい。


 そうして、表情の動かないアルベルト・ローレンが出来上がった。


 だが。


 素質は、あったのである。


 あの父と母の子である。


 ただ、長いあいだ休眠していただけだった。

 それを目覚めさせたのは、ナタリアだった。


 謝罪会見のために表情筋を動かそうとしていたつもりで、

 ローレン家の血を引くアルベルトの奥深くに眠っていたものまで起こしてしまった。


 ナタリアは知らない。


 自分が今、何の起動装置を押したのかを。


 ナタリアは何も知らず、花の包みを大切そうに抱えて歩いている。


 白と淡い青の花を見て、

 謝罪会見の配置を考えている。


 その隣で、アルベルトは沼に落ちた。


 ナタリアに心を捕まえられてしまった。


 そう思っていた。


 けれど本当に捕まったのは、

 果たしてどちらだったのか。

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