第4話 これはデートではありません。実地訓練です
次に向かったのは、ナタリアが馴染みにしている菓子店だった。
劇場から少し歩いた通りにある店で、表に大きな看板は出していない。けれど奥に工房を持ち、貴族家の茶会や祝い事に出す焼き菓子も請け負っている。
扉の前まで来ると、甘い香りが漂ってきた。
「こちら、私のお気に入りのお店なのです」
「お気に入り」
「はい。謝罪会見用の焼き菓子をお願いしているお店です」
当日出す料理や茶菓子は屋敷の厨房で用意する。
けれど持ち帰り用の焼き菓子は数が多く、包みも揃えなければならないため、この店へ頼んでいた。
最後に渡すものまで、謝罪会見の一部である。
「それに、こちらの果実タルトがとても美味しいのです」
ナタリアは少しだけ声をやわらげた。
「以前、お食事の席で、アルベルト様は甘いものがお好きだとおっしゃっていたでしょう。ですから、ぜひ一度こちらのタルトを召し上がっていただきたかったのです」
アルベルトは瞬きをした。
「覚えていたのか」
「はい。重要情報です」
「そうなのか」
「はい。喜びの表情を引き出すには、対象者の好みを把握する必要があります」
「訓練か」
「訓練です」
ナタリアは頷いた。
何気なく話したことを、彼女は覚えていた。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
扉を開けると、焼き菓子の香りがさらに濃くなった。
「あら、ナタリアお嬢様。お待ちしておりました」
店主の女性が顔を上げ、すぐに笑った。
それから、隣に立つアルベルトを見る。
「ああ……こちらが」
ほんの少しだけ、笑みが固くなった。
例の方。
言葉にはしなかったが、少し顔に出ていた。
「はい。アルベルト様です」
ナタリアは、いつもの調子で紹介した。
「本日は、謝罪会見用の焼き菓子の件と、果実タルトを二皿お願いいたします」
「かしこまりました。まずは焼き菓子のご試食からお持ちいたしますね」
店主はそう言って、奥へ下がった。
席へ案内されると、ほどなくして小さな皿が運ばれてくる。
焼き色のついた、果実入りの焼き菓子だった。
細長く焼いた生地を、食べやすい大きさに切り分けてある。
中には干し葡萄と、琥珀色の果実の砂糖漬けが混ぜ込まれていた。
表面には薄く粉砂糖がかかり、近づくとかすかに柑橘の香りがした。
「こちらが候補でございます」
店主が言った。
「洋酒で香りをつけた果実を使っておりますが、火を通しておりますので、お酒が苦手な方や小さなお子様にも召し上がりやすいかと」
「ありがとうございます」
ナタリアは小さなフォークで一切れ取り、アルベルトの皿へ置いた。
「こちらです」
アルベルトは受け取って、口へ運んだ。
しっとりしている。
甘すぎない。
だが噛むたび、果実の香りが少しずつ広がった。
「……うまいな」
ナタリアの目元が明るくなる。
「私も、これがよいと思っておりました」
「食べ終わったあと、気持ちが落ち着く」
「はい」
「怒っていたとしても、いったん茶を飲むか、くらいにはなる気がする」
「大切です」
「……許してもいいか、くらいにはなるな」
「理想的です」
ナタリアは即答した。
アルベルトは焼き菓子を見下ろしたまま、小さく頷く。
「……生還率が上がった」
「では、この焼き菓子にしましょう」
「即決だな」
「命に関わりますので」
二人とも真顔だった。
店主はこらえきれず、ふっと笑った。
「まあまあ。焼き菓子ひとつで、そこまで大事になるとは」
「私にとっては重要です」
アルベルトは言った。
「これで、朝日を拝める日が少し増えるかもしれない」
「アルベルト様」
ナタリアも頷く。
「その可能性を少しでも上げましょう」
「頼む」
「はい」
店主は、今度こそ声を立てて笑った。
入ってきた時には、少しだけ警戒していた。
ナタリアお嬢様に、あのようなことを言った方。
そう思っていた。
けれど、アルベルトは焼き菓子を丁寧に味わい、ナタリアの言葉にも一つ一つきちんと返していた。
ナタリアも、彼の言葉を当然のように受け止めている。
それに、席につく時、彼は何も言わずにナタリアの椅子を引いていた。
皿が運ばれた時も、彼女の前に置かれた皿が少し傾いているのに気づいて、そっと向きを直していた。
大げさなことではない。
けれど、そういう小さな所作に、雑さはなかった。
悪い方では、ないのかもしれない。
少なくとも、ナタリアお嬢様が今こうして落ち着いて座っている理由は、少し分かる気がした。
「では、こちらでご用意いたしますね。お包みは、ご指定の白い上質な包み紙に、濃紺色の細紐でよろしいでしょうか」
「はい。お願いいたします」
「派手すぎず、けれど地味すぎず。お持ち帰りいただいた時に、きちんとした印象が残るかと」
「理想的です」
ナタリアは満足そうに頷いた。
店主は、先ほどより親しげに笑った。
「それから、果実タルトをお二つと、それに合う紅茶をご用意いたしますね」
ナタリアの声が、ほんの少し弾んだ。
「はい。お願いします」
アルベルトはそれに気づいた。
「楽しみなのだな」
「表情訓練です」
「そうか」
「はい」
ナタリアはすました顔で答えた。
けれど、その目はもう、果実タルトを待っていた。
*
運ばれてきた皿を見た瞬間、ナタリアの表情が変わった。
「……美しいですね」
吐息に近い声だった。
薄く焼いたタルト生地の上に、乳脂のクリームがなめらかに敷かれている。
その上には、蜂蜜で艶を出した春の果実が並んでいた。
扇のように並べた苺の薄切り。
薄く透ける柑橘の半月切り。
杏の蜜煮。
すみれの砂糖漬け。
果実と花は、春の花束のように重ねられていた。
端には細かく砕いた焼き菓子が散らされ、焼き色のついた生地からは、バターの香りがした。
ナタリアはしばらく眺めてから、丁寧にフォークを入れた。
一口。
ナタリアの表情がぱっとほどけた。
「……おいしい」
思わず声が弾む。
「外側は香ばしいのに、中は重くありません。果実の酸味を残しているのに、全体はちゃんと甘い。最後に少し塩味が来ます。これが良いです。甘いだけで終わらないから、もう一口食べたくなります」
「詳しいな」
「おいしいものには理由があります」
ナタリアはきっぱり言った。
「謝罪と同じです」
「菓子と謝罪を並べるのか」
「どちらも後味が大切です」
店主が笑った。
「お嬢様は、いつも本当にまっすぐでいらっしゃいますね」
「まっすぐでしょうか」
「ええ。うちの菓子を、ここまで大事に食べてくださる方はなかなかいません」
「おいしいものには敬意を払うべきです」
「ありがとうございます」
店主は嬉しそうに目を細めた。
「あ!申し訳ありません。先ほど、謝罪と並べてしまいました」
「そこも含めて、お嬢様らしいです」
「見事な即時謝罪だな」
アルベルトが言うと、ナタリアは頷いた。
「失言には速やかな謝罪です」
店主がまた笑った。
ナタリアは本気だった。
店主は、また始まった、というように笑った。
アルベルトは、黙って彼女を見ていた。
ナタリアは二口目を食べる。
目元がゆるむ。
三口目を待つ間、少し期待するような顔になる。
食べたあと、嬉しそうに息を吐いた。
ただ、おいしいものをおいしいと思っている。
そんな笑顔だった。
こういうものでも、こんな顔をするのか。
アルベルトはそう思った。
派手な宝石でもない。
高価な贈り物でもない。
ただ、馴染みの菓子店で、好きな菓子を食べているだけだ。
それなのに、彼女は本当に嬉しそうだった。
胸の奥が、また少し温かくなる。
この顔をもう少し見ていたい。
そう思った。
「アルベルト様?」
ナタリアが顔を上げる。
「召し上がらないのですか」
「ああ」
アルベルトはフォークを取った。
「食べる」
「ぜひ。表情筋のためにも」
「そうだな」
アルベルトが一口食べる。
ナタリアもまた一口食べる。
その目がまた明るくなる。
それを見たアルベルトの口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
ナタリアは見逃さなかった。
「今のです」
「何が」
「自然です。とても良いです。威圧感がありません」
「それはよかった」
「やはり、美味しいものを食べて喜びを感じるのは効果がありますね」
「ああ」
アルベルトは、タルトではなくナタリアを見て言った。
「とてもおいしい」
ナタリアは一瞬だけ瞬きをした。
「……はい。教材として適切でした」
頷くその顔が、少しだけ赤い。
ナタリアはもう一口、果実タルトを口へ運んだ。
その瞬間、端に乗っていた乳脂のクリームが、ほんの少しだけ口元についた。
「……子どものようだな」
「え?」
アルベルトが、ふっと笑った。
ほんの一瞬だった。
けれど、たしかに笑っていた。
どきん。
?
??
???
ナタリアは、口元のクリームにも気づかないまま、アルベルトを見つめた。
「……今のは、確かに笑いました」
「そうか」
「自然でした。今のもとても自然です。とてもよい表情でした。」
「それはよかった」
アルベルトはそう言って、懐からハンカチを取り出した。
「ここ、クリーム」
自分の口元を指で軽く示してから、畳んだままのハンカチを差し出す。
「……ここ?」
ナタリアはようやく気づいたらしい。
差し出されたハンカチを受け取り、そっと口元に触れる。
白い布に、ほんの少しクリームがついた。
「失礼いたしました」
「いや」
「講師として、少々」
「問題ない」
短い返事だったが、不思議と冷たくなかった。
ナタリアは頷こうとして、なぜか胸のあたりが落ち着かないことに気づいた。
今のは、何でしょう。
喜びではありません。
驚き、でしょうか。
いえ、驚きにしては、少し変です。
訓練中に講師側が乱れるのは、あまりよろしくない。
「ナタリア嬢?」
「問題ありません」
「何も聞いていない」
「問題ありません」
アルベルトは首を傾げた。
その顔はもう、いつもの静かな表情に戻っている。
それなのに、さっきの笑みだけが、なぜかナタリアの胸の奥に引っかかっていた。
一方で、アルベルトもまた、口元にクリームをつけたまま、まっすぐこちらを見ていたナタリアを思い出していた。
自然でした。
とても良い表情です。
あの妙に丁寧な褒め言葉まで思い出すと、また口元が緩みそうになる。
アルベルトは、それを隠すように紅茶を口へ運んだ。
*
店を出る支度をしていると、店主が生成り色の大きめの包みを差し出した。
「アルベルト様、ナタリアお嬢様、こちらはお会計いただいた果実入りの焼き菓子でございます。多めにお入れしてあります」
「ありがとうございます。助かります」
ナタリアが包みを受け取ろうとすると、アルベルトが横から手を添えた。
「持とう。」
「……では、お願いいたします」
アルベルトは包みを受け取った。
「ところでこの菓子は?」
アルベルトが尋ねると、ナタリアは目線を包みへ落とした。
「このあと、少し寄るところがありまして」
「どこへ」
「孤児院です」
「孤児院」
「はい。ここの焼き菓子を持っていくと、子どもたちがとても喜びます」
「さっきの謝罪会見用の焼き菓子を?」
「はい。最も正直な審査員たちです」
「審査員なのか」
「味に関しては」
ナタリアは当然のように言った。
「おいしくない時は、顔に出ます」
「それは確かに正直だな」
「ですので、大変参考になります」
店主はくすりと笑った。
入ってきた時の警戒は、もう顔に残っていない。
「それでは、引き続きデートをお楽しみくださいませ」
「デートではありません。実地訓練です」
ナタリアはすぐに訂正した。
店主はにこにこと笑った。
「はい。実地訓練をお楽しみくださいませ」
「ありがとうございます」
アルベルトは包みを抱え直した。
「では、次は審査員たちのところへ実地訓練に行こう」
ナタリアは少し目を丸くしたあと、ニコッと笑った。
「はい!参りましょう」
*
孤児院は、大通りから少し入った場所にあった。
古いが、手入れはされている。
門の横には小さな花壇があり、背の低い花がいくつも揺れていた。
ナタリアが門をくぐると、中庭で遊んでいた子どもたちが一斉に顔を上げた。
「ナタリア様!」
「来た!」
「今日はお菓子ありますか?」
「字、見てください!」
「絵も見てください!」
あっという間に、ナタリアは子どもたちに囲まれた。
袖を引かれる。
名前を呼ばれる。
小さな手が、あちらこちらから伸びてくる。
子どもたちの勢いに、アルベルトはわずかに目を見開いた。
その中心で、ナタリアは子どもたちの顔を一人ずつ見ながら、名前を呼んでいた。
「順番です。私は逃げません」
「ほんとですか?」
「本当です」
「絶対ですか?」
「絶対です。焼き菓子も逃げません」
「焼き菓子!」
「ありますか?」
「あります」
子どもたちの顔が一斉に明るくなった。
ナタリアもつられるように笑った。
「ただし、押すと落ちます」
「落ちたらだめです!」
「だめです!」
「では、順番です」
子どもたちは慌てて並び始めた。
「手伝おう」
「ありがとうございます」
ナタリアはアルベルトから一つずつ焼き菓子を受け取り、子どもたちへ手渡していく。
「今日は果実入りです」
「ほんとですか!?」
「本当です」
「やったぁ……! あ、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
「ナタリア様、ぼくもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ。皆さんの分ちゃんとありますよ」
「ありがとうございます! ぼく、これ好きです!」
「前に干し葡萄のところを最後まで残していましたね」
「覚えてたんですか?」
「覚えています。大事なことですから」
子どもはぱっと笑った。
ナタリアも笑った。
「ナタリア様、わたしも!」
「はい。どうぞ」
「ありがとうございます!」
「ゆっくり食べてくださいね」
子どもたちは、まるで宝物のように焼き菓子を受け取る。
小さな手の中に菓子が渡るたび、顔がぱっと明るくなる。
子どもたちが笑うたび、ナタリアも嬉しそうに笑っていた。
菓子店でタルトを食べた時とは違う。
劇場で怒っていた時とも違う。
アルベルトは、その顔をすぐ隣で見ていた。
また、胸の奥がくすぐったくなる。
まただ。
そう思った。
「ナタリア様、見てください!」
小さな女の子が紙を差し出した。
そこには、少し歪んだ字が並んでいる。
ナタリアはその場にしゃがみ込んだ。
ドレスの裾が石畳に触れそうになる。
「まあ。前よりずっと上手です」
「ほんとですか?」
「本当です。ここ、最後まで線がつながっています。たくさん練習しましたね」
「はい!」
「すばらしいです」
女の子はぱっと笑った。
ナタリアも笑った。
アルベルトは、その顔を見ていた。
小さな子どもに向ける、明るく、やさしい笑み。
誰かを安心させるための笑み。
自分に向けられたものではない。
それなのに、目が離せなかった。
「アルベルト様?」
ナタリアが振り向いた。
「どうかなさいましたか」
「いや」
アルベルトは少し間を置いた。
「君は、よく表情が変わるのだな」
ナタリアは目を瞬いた。
「……そうでしょうか」
「ああ」
「講師として、喜怒哀楽の教材になれているなら何よりです」
「そういう意味ではない」
「違うのですか」
「たぶん、違う」
ナタリアは首を傾げた。
アルベルトも、それ以上は説明できなかった。
自分でも、まだうまく分かっていない。
ただ、今日見た彼女の顔を、しばらく忘れない気がした。




