第3話 表情筋がお亡くなりですか?
数日後。
アルベルト・ローレン侯爵家次男の謝罪技術は、かなり仕上がってきていた。
言葉は整っている。
姿勢も整っている。
お辞儀の角度も、タイミングも、ほぼ完璧。
「この度は、私の配慮を欠いた発言により、ナタリア嬢ならびにご関係の皆様へご不快な思いをさせましたこと、深くお詫び申し上げます」
言い終えたあと、アルベルトはぴったり四十五度で静止した。
五秒。
戻る。
流れるような、美しい所作だった。
ナタリアは手元の採点表へ丸をつける。
「よろしいです」
「合格か」
「セリフと角度は」
「……表情か」
「はい。表情です」
ナタリアは正面からアルベルトを見た。
「アルベルト様、申し訳なさそうな顔をしてみてください」
アルベルトは、申し訳なさそうな顔をした。
……つもりだった。
ナタリアはじっと見つめる。
「……アルベルト様?」
「している」
「言われてみれば、目元がほんのわずかに動いたような気はしました」
「動いたのだろう」
「足りません」
「……謝罪に、そこまで表情は必要だろうか」
アルベルトは、珍しく疑問を口にした。
「言葉と角度だけでは、足りないだろうか」
「お父様は、誠実な若者の芽を摘む方ではありません」
「それは聞いた」
「ただし、羽虫は駆除なさいます」
「それも聞いた」
その時だった。
ナタリアの目の前に、ふわりと何かが飛んだ。
「あ、羽虫」
ぱちん。
軽い音がした。
ナタリアは指先についた小さな羽を紙で丁寧に拭き取り、くず入れへ捨てた。
「失礼いたしました」
アルベルトは決意した。
「……表情筋をやろう」
「はい」
「全力でやろう」
「よろしいです」
「今、私は若者として生き残りたい」
「その意気です」
ナタリアは満足そうに頷いた。
「では、申し訳なさそうな顔から始めましょう」
「分かった」
アルベルトは、申し訳なさそうな顔をした。
「……眉ひとつ動いておりません。どんなことでもいいので、申し訳ない気持ちを思い出してみてください」
「今の私は、ぶさいくな野良猫だと思っていた猫が、貴婦人の愛猫だったと知った時の気持ちを思い出している」
「それは大変申し訳ないですね」
「そうだ。危うく、貴婦人に、ぶさいくな猫ですね、と言いかけた」
「それを顔に出してください」
「出している」
「出ていません」
「では、次は悲しそうな顔を」
アルベルトは悲しそうな顔をした。
「……肖像画の方が、まだ感情豊かです」
「今の私は、長年仕えた老馬が、引退の日に甘えるように鼻先を寄せてきた時の気持ちを思い出している」
「それは悲しいですね」
「思い出すと少し泣けてくる」
「それを顔に出してください」
「出している」
「出ていません」
「では、反省している顔を」
アルベルトは反省している顔をした。
「……石像です」
「今の私は、泣いている子どもに飴を渡したら、母親から『虫歯が痛くて泣いているのです』と告げられた時の気持ちを思い出している」
「それは反省してください」
「している。飴ではなく、歯痛に効く薬草丸を用意すべきだった」
「だから顔に出してください」
「出している」
「出ていません」
ナタリアは、ふと気づいた。
顔は石像である。
けれど、この人の申し訳なさも、悲しみも、反省も、例えだけ聞くと妙に優しい。
顔は石像。
中身は優しい。
顔と中身の寒暖差で風邪を引く。
「くしゅん」
「風邪か?」
アルベルトは石像のような顔のまま、ナタリアの肩にそっとショールを掛けた。
「……ありがとうございます」
ナタリアは、アルベルトの顔をじっと見つめた。
「アルベルト様」
「何だ」
「表情筋が、お亡くなりですか?」
「生きてはいると思う」
「では、仮死状態です」
「動かす必要がなかった」
「今、必要です」
ナタリアは深刻な顔で頷いた。
「これは重大な問題です」
「そこまでか」
「はい。このままでは、反省していると口では言っているが何を考えているか分からない男として、お父様に処理される可能性があります」
「処理」
「それは、できれば避けたいと思うのですが……」
「絶対に避けたい。全力で避けたい」
「その意気です」
ナタリアはしばらく考え込んだ。
そして、顔を上げる。
「喜怒哀楽を学びに行きましょう」
「どこへ」
「外です」
「外」
「はい。実地訓練です」
*
最初に向かったのは、劇場だった。
感情を学ぶには、芝居が最も分かりやすい。
そう判断したのはナタリアである。
その日の演目は『遅すぎた謝罪』。
「この劇は、王都の令嬢たちの間でも評判なのです」
「ナタリア嬢が見たかったのか」
「謝罪会見に必要な表情訓練です」
「そうか」
「はい。たいへん面白いと、友人も申しておりました」
「見たかったのだな」
「表情訓練です」
ただ、幕が上がってしばらくしてから、ナタリアは扇の柄を握りしめた。
――これは、アルベルト様には少々刺激が強いかもしれない。
舞台の上で、青年は婚約者に向かって冷たく言い放った。
『君を愛することはできない』
『私には、忘れられない少女がいる。私の命の恩人だ』
客席の空気が、冷えた。
『妻として迎える以上、家名も生活も守る。金にも不自由はさせない。だが、愛だけは期待しないでくれ』
ナタリアの扇が、ぴたりと止まった。
『それが不満なら、他に男を作っても構わない』
「最悪……言い方が最悪です……」
ナタリアは扇で口元を隠しながら、小さく呟いた。
アルベルトは、少しだけ姿勢を正した。
今のは劇の青年に向けられた言葉である。
分かっている。
分かっているが、なぜか襟元が少し苦しくなった。
「ナタリア嬢、静かに」
「静かにしております」
「声が漏れている」
「心の声です」
「心の声が漏れている」
次の場面では、青年が柱の陰から、婚約者と男が話しているところを見ていた。
婚約者は男に向かって、震える声で言う。
『それでも愛しているのです。離れたくないのです』
青年は顔を歪め、その場を去っていった。
『所詮、君も別の男を選ぶのか』
ナタリアは椅子の肘掛けを握った。
「最後まで聞きなさい……! どう見ても兄君でしょう……! 愛しているとは、あなたのことです……!」
「ナタリア嬢」
「静かにしております」
「自分は愛せないと言ったくせに……! 他に男を作っても構わないと言ったくせに……! どの口で悲劇の主人公ぶっておられるのですか……!」
アルベルトは、ほんの少しだけ肩を縮めた。
劇の青年の話である。
分かっている。
だが、どうしても、飛んできた火の粉が自分の袖にも落ちた気がした。
「声がだいぶ大きく出ている」
「出ています」
「認めたな」
さらに場面が変わった。
婚約者から届いた手紙を、青年が封も切らずに暖炉へ投げ入れる。
『今さら弁明など聞きたくない』
「読みなさい……!」
ナタリアは扇の陰で呻いた。
「せめて封を切りなさい……! 読めば分かります……! 彼女がどれだけあなたを愛しているか、そしてあの方が兄君だということが……!」
「手紙とは、それほど万能なのか」
「読めば少なくとも、燃やすよりは分かります」
「それはそうだ」
その後の場面で、青年は別の令嬢に向かって言った。
『君が、私の命を救ってくれた少女だったのか』
ナタリアは半分泣いていた。
「その方ではありません……! あなたの探している恩人は、婚約者の方です……! そのような分かりやすい口車に乗らないでください……!」
「落ち着け」
「落ち着いております」
「扇が震えている」
「怒りと涙です」
舞台の終盤で、青年はようやく真実を知った。
『あの時、命を救ってくれた少女は……彼女だったのか』
客席が静まり返る。
『彼女を傷つけた。話を聞かなかった。謝る機会を、何度も逃した』
青年は、兄とともに去っていく彼女の後ろ姿を見ながら、舞台の中央で膝をついた。
『あの時、謝っていれば……!』
『何もかも、遅すぎた……』
ナタリアは扇の陰で、ほとんど泣いていた。
「ずいぶん盛りだくさんな悲劇でしたね……」
「そうだな」
「誤解、思い込み、言葉足らず、手紙未読、恩人の取り違え、謝罪遅れ……よくここまで詰め込みました」
「感情訓練には向いていたのでは」
「刺激が強すぎます」
「見たかったのでは」
「表情訓練です」
「それにしても、ひどい男でしたね」
アルベルトが言うと、ナタリアは涙目のまま頷いた。
「はい。ですが、今ならまだ謝罪会見で間に合います」
アルベルトは、なぜか矛先が自分に向いたような気がした。
「劇の話では」
「劇の話です」
「控えめに申し上げて、紳士として三点です……」
「……何点満点で」
「百点満点です」
「かなり減点されている」
「はい。かなり控えめです」
半分泣いていた。
半分怒っていた。
やはり忙しい人だな、とアルベルトは思った。
だが、不思議と目が離せない。
ナタリアは、舞台そのものより、人の気持ちがすれ違うことに怒っていた。
ちゃんと聞けば済んだ。
ちゃんと確認すれば終わった。
謝れる時に謝れば、終わった。
そういうことに、本気で腹を立てている。
幕が下りたあとも、ナタリアは少し目を赤くしたまま怒っていた。
「確認不足です……」
「……そうだな。今のは、確認していれば避けられた」
「悲劇の半分は確認不足でできています。残り半分は、謝るタイミングを逃した人です」
「そうなのか」
「少なくとも今の演目はそうです」
劇場を出たあと、アルベルトは言った。
「思っていたのと違った」
ナタリアは目元を拭く手を止めた。
「劇が、でしょうか」
「いや。君が」
「私が?」
「ああ。もっと感情を表に出さない人だと思っていた」
ナタリアは少し黙った。
それから、困ったように笑う。
「……出ていましたか」
「かなり」
「それはいけませんね」
「なぜ」
「怒りは怒りを呼びますし、不安は周囲まで不安にします。喜びでさえ、時には誰かを傷つけます。ですから普段は、感情を表に出しすぎないよう心がけております」
ナタリアは真面目に言った。
「ですが……アルベルト様の前だと、少し気が抜けるようです」
アルベルトは返事に詰まった。
その言葉が、妙に胸に残った。
ナタリアはまだ少し涙目だったが、声だけは妙にしっかりしていた。
「だいたい、聞くなら最初から最後まで聞くべきです」
「聞く?」
「はい。途中だけ聞いて、勝手に判断して、勝手に傷ついて、勝手に怒る。これが一番危険です」
「……」
「切り取り発言は燃えます」
アルベルトは黙った。
「炎上するのか」
「します。前後を無視した言葉ほど、よく燃えます」
ナタリアは扇を閉じ、真剣に言った。
「聞き耳を立てるなら、最初から最後まで聞きなさい。そうでなければ、聞かなかったことにしなさい。中途半端な耳は危険です」
「耳が危険なのか」
「とても危険です」
アルベルトは、劇場の出口へ向かう人々を見ながら、顔合わせの日を思い出した。
倒れた花瓶。
聞き耳を立てていた親族。
走った伝令。
「顔合わせの日も、切り取られたのか」
「……あの日は」
ナタリアは少しだけ黙った。
「切り取られても燃えますし、全部聞いても、やはり燃えます」
「救いがない」
「ですので、燃え広がる前に謝罪会見です」
「そこへ戻るのか」
「戻ります。すべての道は謝罪会見へ通じます」
アルベルトは、そろそろこの令嬢の中にある道の多くが、謝罪会見へ通じているのだと理解し始めていた。




