第2話 お辞儀は四十五度でお願いいたします
翌日から、ローレン侯爵家嫡男アルベルトの生活は変わった。
正確には、午前中の予定がすべて、ナタリア・エヴァンズ侯爵令嬢によって押さえられた。
ローレン侯爵家へ正式な連絡が入り、アルベルトの執務に必要な書類は、すべてエヴァンズ侯爵家の客間へ運び込まれた。
外出には事前申請が必要となり、護衛も増えた。
名目は、謝罪会見準備のための滞在。
実態としては、かなり軟禁に近かった。
なお、ローレン侯爵――アルベルトの父から届いた手紙には、紙が少しへこむほどの筆圧で、こう書かれていた。
『現場判断をするな』
『余計なことを言うな』
『状況はすでに最悪の想定を超えている』
『ナタリア嬢の指示に従え』
『繰り返す。余計なことを言うな』
『生きて帰ってこい』
アルベルトは二度読みした。
婚約者の父親への対応というより、国家級災害時の行動指針だった。
書類を届けに来たローレン家の家令は、アルベルトの手を両手で握りしめた。
「若様」
「何だ」
「ご武運を」
「戦場へ行くのではない」
「そうであれば、どれほどよかったか」
家令はそう言って、小さな守り袋をそっと握らせてきた。
命がかかると、家同士の連携は早い。
*
前世の知識は、ナタリアに危機管理を教えた。
侯爵家の教育は、ナタリアに実行力を与えた。
その二つが合わさった結果、彼女はたいへん正しいことを、たいへんおかしな方向へ実行していた。
「謝罪会見の会場は大広間を使います」
「大広間ですか」
「はい。昨日の発言を聞いた親族、家の者、関係者各位をお招きします」
「招くのですか」
「謝罪は、聞かれた範囲以上に届ける必要があります」
ナタリアはさらさらと紙に書き込んでいく。
「すでに出欠確認の書状は出しております。遠方の方には、必要に応じて前泊の手配もいたします」
「前泊」
「食べられない料理、苦手な香り、持病の有無も確認が必要です」
「……それは謝罪会見なのですか」
「謝罪会見です」
ナタリアは一切揺るがない。
「受付は私の親友に頼んでおります。必要でしたら、アルベルト様側のご友人にもお声がけいたしましょうか」
「友人を呼ぶのですか」
「支える方がいた方が安心でしょう」
「私は何を支えられるのですか」
「主に精神と、場合によってはお命を」
アルベルトは黙った。
謝罪会見の準備をしているはずだった。
だが、話だけ聞いていると、破談寸前の婚約披露を、なぜか全力で前倒ししているようにしか思えない。
「席順も重要です。お父様は正面。親族は左右。昨日隣室にいた者は前方へ。聞いていない者は後方です」
「聞いていない者も来るのですか」
「噂で聞いた者も、ほぼ当事者です」
「範囲が広い」
「炎上とはそういうものです」
さらに、ナタリアは別の紙を出した。
「料理は重すぎず、軽すぎず。謝罪後に歓談がある場合を想定し、手を汚さず食べられるものを中心に」
「歓談があるのですか」
「謝罪後の空気が良ければ」
「悪ければ」
「料理は下げます」
「なるほど」
「花は白を基調に。派手な赤は避けます。反省の場ですので」
「反省に花の色まで関係するのですか」
「あります。赤は燃えます」
「また燃えるのですか」
「燃えます」
ナタリアは真顔だった。
「それから、お帰りの際にお渡しする小さな菓子も用意します」
「持ち帰りの菓子まであるのですか」
「ございます」
「謝罪に?」
「はい。謝罪後の印象は、最後に手に残るもので変わります」
「……」
「甘すぎるものは避けます。媚びに見えますので」
「謝罪の菓子にも作法があるのですか」
「あります」
ナタリアは手元の進行表に、迷いなく追記した。
「お詫びとは、最後の包み紙までお詫びです」
アルベルトは少し黙った。
やはり披露宴ではないか、と思った。
ただし、新郎が許されるか処理されるかの披露宴である。
*
案内されたのは、エヴァンズ侯爵家の書斎だった。
普段は静かに本を読むための部屋なのだろう。
今は、どう見ても訓練場だった。
机の上には紙束、羽根ペン、懐中時計。
壁際には、どこから運び込んだのか分からない黒板。
そして、用途不明の巨大な分度器。
さらに隅には、罪人を拘束する際に使いそうな縄と、妙にしっかりした木の棒が数本、きれいにまとめられていた。
アルベルトはそれを見た。
そして、見なかったことにした。
命がかかっていると、人は用途不明の縄にも寛容になる。
「では、本日より謝罪の流儀をお教えいたします」
ナタリアは机の前に立ち、真剣な顔で言った。
顔も真剣。
声も真剣。
空気も真剣。
ただし、置いてある縄だけは、やはりおかしかった。
*
「謝罪とは、負けを認めることではありません」
ナタリアは言った。
「関係修復のための危機管理です」
「危機管理」
「はい。火消しです」
「昨日の私は」
「火種です」
「……そうですか」
「しかも乾いた藁の上に落ちました」
「乾いた藁」
「隣室の親族です」
さらにナタリアは続ける。
「しかも現在、その火は一か月後、お父様という巨大火薬庫へ向かって導火線を進んでおります」
「私は爆発に巻き込まれるのですか」
「高確率で」
「……」
「ですが今回は運が良かったです」
「良かった?」
「はい。一か月の執行猶予があります」
執行猶予。
この国にその制度があるのかは知らないが、少なくとも婚約者に使う言葉ではない。
「その一か月を無事に過ごし、謝罪会見という刑期を終えれば、生還の可能性は高まります」
「……今、刑期という言葉が聞こえましたが」
「言葉の綾です」
「綾が重い」
アルベルトは、だんだん分かってきた。
この婚約者は、かなりおかしい。
しかし、おかしいだけではない。
おそらく、有能なのだ。
おかしい方向に。
「では、実技へ入ります」
「もうですか」
「はい。知識は実践してこそ意味があります」
「まず、お辞儀には種類があります」
ナタリアは黒板に三つの角度を書いた。
「十五度。会釈です。日常の挨拶や軽い礼に使います」
「ふむ」
「三十度。敬礼です。通常の感謝や謝意に使います」
「なるほど」
「四十五度。最敬礼です。深い謝罪、重大な場面で使います」
「今回ですか」
「今回です」
ナタリアはきっぱり言った。
「なお、さらに深いものとして東洋の土下座というものもございます」
「羊の方か」
「はい。ただし今回は採用しません」
「なぜです」
「この国の正式作法ではないことと、お父様の前で床に頭をつけ首を晒すと、そのまま別の意味で処理が進む可能性がございます」
「やめましょう」
「賢明です」
ナタリアは分度器を持った。
「謝罪において最も重要なのは、反省が視覚的に伝わることです」
「視覚的に」
「はい。人は角度に弱いのです」
「本当に?」
「かなり」
ナタリアは断言した。
「では、下げてください」
アルベルトは立ち上がり、頭を下げた。
「浅いです」
「今ので?」
「三十五度です」
「見ただけで分かるのですか」
「だいたいは」
「だいたい」
「今から正確に測ります」
そしてナタリアは、当然のように大きな分度器を取り出し、アルベルトの腰の横へ当てた。
侯爵家の書斎で。
婚約者に。
昨日「あなたを愛することはできない」と言った相手に。
下半身へ、分度器を。
アルベルトは思った。
――私は何をしているのだろう。
「三十四度です」
「……足りないか」
言ってから、アルベルトは気づいた。
敬語が消えていた。
命の危機と、巨大な分度器の前では、礼節にも限界があるらしい。
アルベルトは、礼節を手放し、生存を優先することにした。
ナタリアはまったく気にしなかった。
「はい。誠意が十一度不足しています」
「誠意とは角度なのか」
「見える誠意は角度です」
ナタリアは揺るがなかった。
*
数十分後。
ナタリアは小さく息を吐いた。
「動きますね」
「人間だからな」
「羽虫ではなく?」
「……今は、人間のつもりでいる」
「分かりました。では、人間として扱います」
「助かる」
「ただし、動きは固定します」
「結局そうなるのか」
ナタリアは縄を手に取った。
「これは補助具です」
「縄では」
「補助具です」
「縄に見える」
「補助具です」
押し切られた。
ナタリアは真剣な顔で近づく。
「謝罪中、肩がぶれると誠意が逃げます」
「誠意は逃げるのか」
「逃げます」
断言だった。
「上着をお脱ぎください」
「……必要か」
「必要です。布があると肩の位置が見えません」
アルベルトは黙って上着を脱いだ。
「少し締めます」
「少し、なのだな?」
「固定します。身体に覚えていただきます」
問いかけは無視された。
ナタリアは迷いなく縄を回した。
肩。
腕。
背中。
さらに背中へ棒を一本差し込む。
「これで背筋が安定します」
「……なるほど」
確かに楽だった。
嫌ではある。
状況はたいへん嫌ではある。
だが、妙に楽だった。
支えられている、という意味では。
「アルベルト様、いかがですか」
「とてもいい」
言ってから、アルベルトは気づいた。
上着は脱がされている。
身体は縄できつく固定されている。
背中には棒が入っている。
この状況で素直な感想を口にしてしまうほど、彼は追い詰められていた。
なお、人生で開く予定のなかった扉が、少しだけ開きかけていた。
閉めたい。
ちょうどその瞬間だった。
扉の向こうで、若い侍女が息を呑んだ。
彼女は見てしまったのである。
扉の隙間から。
お嬢様が。
アルベルト様の上着を脱がせ。
縄で体をがんじがらめにして。
背中に太くてまっすぐな棒を入れている。
しかもアルベルト様は、どことなく安堵したようなお顔で、
「とてもいい」
と仰った。
若い侍女は固まった。
情報量が多すぎた。
しかも、お嬢様の顔があまりにも真剣だった。
それが余計によくなかった。
あの縄の縛り方。
背中の棒。
下半身に当てた半円の謎の器具。
侍女の脳裏に、先日、先輩侍女が「大人の教養です」と言って見せてきた、昼間に開くものではない絵姿がよぎった。
あれだ。
あれなのだ。
お嬢様は今、大人の教養を実践していらっしゃる。
侍女の顔が一瞬で赤くなった。
見てはいけないものを、見てしまった。
それでも、扉の隙間からもう一度だけ見た。
…やはり見てはいけないものだった。
侍女は限界を迎え、顔を真っ赤にしたままそっと扉を閉めた。
そして、音を立てぬよう必死に後退し、そのまま小走りに去っていった。
**
しかし、書斎の中では、極めて真面目な声が響いていた。
「謝罪は、四秒でも六秒でもありません。五秒です」
「そこまで決まっているのか」
「短すぎれば軽く、長すぎれば演出過多に見えます」
「難しいな」
ナタリアは懐中時計を取り出した。
「では、やってみましょう。四十五度で止まり、私が五つ数えたら戻ってください」
「分かった」
「一、二、三、四、五。戻ってください」
アルベルトはさっと顔を上げた。
「戻りが早いです。もっとゆっくり戻ってください」
「五秒経っただろう」
「今のは、ライオンの気配に気づいた瞬間に逃げ出すガゼルの初動でした」
「実際、逃げたい」
「逃げてはいけません。たとえ食い殺されようとも」
「自然界の掟は厳しい」
「謝罪とはそういうものです」
「厳しいついでに、もうひとつ」
「まだあるのか」
「あります。アルベルト様、表情筋も全身もガチガチで、威圧感があります。謝罪ですので、もう少しやわらかく、優しく、申し訳ございませんでしたを」
「……申し訳ございませんでした」
「表情が壊滅的です。角度ももっと深く」
謝罪。
そう、謝罪である。
あくまで謝罪である。
*
次に扉の外へ立った護衛は、声だけを聞いていた。
彼は見ていない。
だからこそ、想像が自由だった。
「アルベルト様、硬すぎます。ガチガチです。」
「そう言われても、どうにもできない」
「もっと柔らかくなりませんか」
「この状況でできるはずがない」
「それに、少し深すぎます」
「深い方がよいと言ったのは君だろう」
「深ければよいというものではありません」
「難しいな」
「もっと浅く」
「こうか」
「いい角度です」
「今度はもっとゆっくり優しく」
護衛は静かに目を閉じた。
想像してはいけない。
絶対にしてはいけない。
だが、人は想像するなと言われるほど想像する生き物である。
「そんなに動かないでください。棒が抜けます」
ナタリアお嬢様のお口から、棒。
護衛の肩が揺れた。
耐えた。
耐えなければならない。
「今度はもう少し深く」
「はい」
「いいです。そこです。そのまま我慢してください」
「……くっ。耐え難い」
「あと少し耐えてください」
護衛は、職務上、どんな危険にも動じない訓練を受けている。
賊が来ても動じない。
刃物を向けられても動じない。
夜道で怪しい影を見ても動じない。
だが、扉の向こうから聞こえる二人の会話は、事情を知らなければ完全に別件だった。
護衛は耐えられなかった。
ほんの少しだけ前かがみになった。
そして、静かに持ち場を離れた。
逃げたのではない。
戦略的撤退である。
入れ替わりに来た二人目の護衛も、しばらくして同じように前かがみで去っていった。
その日の午後、エヴァンズ侯爵家の護衛たちは、なぜか全員、ほんの少しだけ前傾姿勢だった。
なお、その途中で、走り出そうとした伝令は、事情を知る家令によって全力で止められた。
そして、聞いたままではなく、正しい報告に直されたうえで、その報告は三度確認されてから送られた。
一方、書斎の中では、たいへん真面目な謝罪訓練が続いていた。
「今のは四十四度です」
「惜しいのでは」
「惜しい謝罪は、謝罪ではありません」
「厳しい」
「四十四度の羽虫と、四十五度の若者です」
「続けよう」
命は、四十五度にかかっていた。




