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第1話 炎上発言です。謝罪会見いたしましょう

 エヴァンズ侯爵家の応接室は、春の午後らしく穏やかだった。


 磨かれた床。

 香りすぎない花。

 適温の紅茶。

 上品な沈黙。


 どれも完璧だった。


 少なくとも、ローレン侯爵家の嫡男、アルベルトが口を開くまでは。


「あなたを愛することはできない」


 静かな声だった。


 怒鳴ったわけではない。

 侮辱したわけでもない。

 感情の起伏が乏しい男らしく、ただ事実を事実として差し出す声だった。


 だからこそ、その一言はよく通った。


 ――隣の控えの間まで、たいへん気持ちよく。


 ナタリア・エヴァンズ侯爵令嬢は、ゆっくりとまばたきをした。


 驚きはなかった。


 目の前の男は、最初からそういう顔をしていた。

 整いすぎているせいで冷たく見える顔。

 誠実ではある。

 嘘もなさそうである。


 ただし、言葉を置く場所を選ぶ能力は、今のところ確認できない。


「……アルベルト様」


「はい」


「気は確かですか?」


 アルベルトは、表情を変えないまま答えた。


「何がでしょう」


 その瞬間だった。


 隣室の方から、ゴトン、ばしゃん、と派手な音がした。


 花瓶が倒れ、水が跳ねたのだろう。

 誰かが足を滑らせる音。

 椅子が床を引っかく音。

 何か小さなものが、からからと転がる音。


 そして、押し殺しきれない小さな悲鳴がいくつも重なった。


 それはもう、音だけで分かる。


 ――この方、やばいことを言った。


 という音だった。


 さらに、その直後。


 廊下の向こうで、誰かが走り出した。


 速い。

 迷いがない。


 よく訓練された使用人の、「これは今すぐ当主へ伝える緊急案件です」という走り方だった。


 ナタリアは悟った。


 ――出てしまった。


 我が家の伝令である。


「……何がどうしたのです」


 アルベルトが、ゆっくりと扉の方を見る。


 ナタリアは一度だけ目を閉じた。


「……あちらに、大勢控えております」


 アルベルトは扉の向こうへ視線を向けた。


 ナタリアは、頭痛を堪えるような声で告げる。


「本日このあと、我が家の者と親族に、アルベルト様とのお披露目を行う予定でした」


 そのまま言うには、少しだけ現実が重かった。


「ローレン侯爵家へは、顔合わせのあとで軽くご挨拶いただく程度だとお伝えしてあったはずなのですが……こちらの者が張り切りすぎて、軽くない人数になっております」


「その予定は、こちらには届いておりません」


「では、連絡の行き違いがあったのですね」


 ナタリアの声は静かだった。

 だがその目は、すでに隣室の人数と、走っていった伝令の速度を数えていた。


「それにしても、非常にまずいことになりました」


「そこまでの話なのですか」


「今の発言は、もうここだけの話では済みません」


 ナタリアは一瞬だけ廊下を見る。


「お父様の耳に入ります」


「あなたの父君は、本日は急用でご不在と聞いております」


「はい。急遽、領地で堤と水路の対応に当たっております。春先の増水で傷みが出たため、戻られるまで一月ほどかかる見込みです」


「ならば」


「距離は問題ではありません」


 ナタリアは短く切った。


「私に関することは、逐一お父様に知らせることになっております。先ほど伝令が走りましたでしょう。あれが、その証拠です」


 アルベルトは黙った。


 表情はほとんど変わらない。

 ただ、アルベルトの周囲だけ、紅茶の湯気まで重くなったように見えた。


「……アルベルト様は、お父様をご存じでしょう」


「もちろんです。軍人としても領主としても、立派なお方だと聞いています」


「ええ。お父様は大変立派な方です」


「両親からも、エヴァンズ侯爵家にはくれぐれも失礼のないよう、誠実であれと言われております。今回、私の考えを隠さず伝えようとしたのも、そのためです」


「……お考えは分かりました。ですが、言い方と場所が最悪です」


 ナタリアは声を落とした。


「お父様は大変立派な方ですが、私にはこの上なく甘い方です」


 アルベルトの声が、わずかに和らぐ。


「それは……よかった」


「なぜ安心なさったのですか?」


「あなたに甘いのであれば、私が誠実に説明すれば、理解していただける余地も」


「ございません」


 にべもなかった。


「お父様が私に甘いということは、私を傷つけた相手には甘くないということです」


「……傷つけてしまったのなら、謝罪します」


「私個人の心情は、今は問題ではありません」


 ナタリアは静かに続けた。


「それに私は別に傷ついておりません。侯爵家同士の結婚です。その程度のことは、最初から織り込み済みです。ただし、私がどう思うかと、お父様がどう受け取るかは別問題です」


 アルベルトは口を閉じた。


「お父様は、亡くなったお母様に似ている私に妙な虫がつくことを、たいへん嫌がられます」


「妙な虫」


「若者ならまだしも、虫には容赦がありません」


 ナタリアはさらに声を落とした。


「実際にあったことを申し上げます」


「……実際に」


 ナタリアは、まるで古い怪談を語るように話し始めた。


「……あれは、じっとりと汗ばむ季節のことでした」


「季節から入るのですか」


「こういう話は、季節から入るものです」


「少なくとも、前世では」


「前世?」


「お気になさらず」


 ナタリアは、何事もなかったように話を戻した。


「以前、私に少し熱心だった殿方がいらっしゃいました」


「距離の詰め方が少々早く、私としては少し困っておりました」


 ナタリアは涼しい顔で、怪談の続きを語った。


「その方はある日、我が家にいらして、なぜか玄関先で床に頭をこすりつけながら命乞いをされていました」


「……命乞い」


「はい。いわゆる土下座です」


「土下座?」


「東方に伝わる、最上級の謝罪姿勢です」


 さらりと言って、ナタリアは続けた。


「『どうかお命だけは』と泣きながら仰っていたのを覚えております」


「その方は、その後どうなったのです」


「遠方で羊の品種改良をなさっているそうです」


「羊」


「はい」


 ナタリアは少し考えた。


「季節ごとに毛質がよくなっている、とだけ聞いております」


「……本人の希望で?」


「そこまでは」


 これは過去の求愛話ではない。


 紛れもなく怪談だった。


「また、夜会で私に酒を勧め、足元がおぼつかなくなったところを別室へ連れて行こうとなさった侯爵家の殿方もいらっしゃいました」


 アルベルトの目から、わずかに温度が消えた。


「それは」


「もちろん、すぐ助けられました」


「その方は」


「その後、行方を聞きません」


「……聞かない」


「はい。その方のご両親が我が家へ深くお詫びにいらして、なぜかその家では次男の方が跡継ぎになりました。家の者もあまり話題にいたしません」


 アルベルトは無表情のままだった。


 ただ、膝の上に置いた指先だけが、ほんのわずかに強張る。


 背中に、じっとりとした汗がにじんだ。


 深淵の縁を覗いたような気持ちになる。


 深淵の向こう側には、おそらく羊がいる。


 ナタリアは困ったように、ほんの少し眉を下げた。


 まるで「本日の焼き菓子は少し甘めですね」くらいの顔だった。


「しかし、お父様は、誠実な若者の芽を摘むような方ではありません」


「……それは、よかった」


「ただし、羽虫は駆除なさいます」


「羽虫」


「はい」


 ナタリアは、茶葉の産地を告げるような平静さで言った。


「ですので、アルベルト様が若者なのか羽虫なのか。そこが問題です」


 婚約者との顔合わせに来たはずが、なぜか今、自分は虫か人間かの分類にかけられている。


「……先ほどの発言は、侮辱のつもりではありません」


「それは存じております」


「私はただ、あなたを欺きたくなかった」


 アルベルトは静かに言った。


「あなたを軽んじるつもりもありません。夫となるなら、家を守り、あなたを守り、不自由のないよう努めるつもりです。ただ、人を愛したことがない。少なくとも、愛していると口にできるほどの感情を、誰かに抱いたことがない。だから、愛だけは約束できないと思ったのです」


「承知いたしました。そのご説明自体は理解できます」


 アルベルトが、無表情のままごくわずかに息をつく。


 だが、ナタリアはすぐに続けた。


「ですが、それとこれとは別です」


 ナタリアは、まっすぐアルベルトを見た。


「お父様が、溺愛する娘に愛せないと言った男をどうお受け取りになるかです」


 アルベルトは、言葉の続きを待った。


「率直に申し上げて、かなりよろしくありません」


「……よろしくないというと?」


「アルベルト様の今後です」


 ナタリアは少し考え、言い直す。


「もっと分かりやすく申し上げましょうか」


「お願いします」


「アルベルト様のお命が危ういのです」


 アルベルトは、さすがに返す言葉を失った。


 ちょうどその時、扉が静かに叩かれた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは家令だった。


 姿勢は正しい。

 声も丁寧である。

 だが顔色は非常に悪く、額には脂汗が浮いていた。


 よほど何かを恐れている顔だった。


「お嬢様。本日予定されておりましたお披露目ですが――」


 家令はそこで一度、視線を伏せた。


「見合わせとさせていただきたく」


「妥当ですね」


 ナタリアはすぐに答えた。


 家令は深く一礼し、今度はアルベルトへ向き直る。


「アルベルト様には、客間をご用意いたします」


「……帰ってはならないのですか」


「お引き止めする形となり、恐縮でございます」


 家令は非常に丁寧に微笑んだ。


 ただし、目がまったく笑っていない。


「ご安心ください。こちらは拘束ではございません」


「拘束」


「はい。あくまで、安全確保を兼ねたご滞在の延長でございます」


 言い方は完全に捕縛側のものだった。


「今後の対応が決まるまで、その方がよろしいかと」


 ナタリアも同意した。


「ええ。このままこちらにいてください」


「……今後の対応?」


「延命措置を取ります」


 あまりにも当然のように言われたせいで、逆に怖かった。


「早ければ明け方には、お父様から何らかの指示が届くかもしれません」


「明け方?」


 アルベルトが思わず聞き返す。


「領地までは、馬で二日はかかるのでは」


「急報ですので」


「急報で縮まる距離ではないのでは」


 ナタリアは少し考えた。


「通常です」


 絶対に通常ではない。


 だが、通常が通常でないことが、エヴァンズ侯爵家の通常なのかもしれなかった。


    *


 翌朝。


 朝食の席に着く前に、執事が封書を差し出してきた。


「旦那様より、お返事でございます」


「……早すぎないですか」


「通常です」


 ナタリアが言った。


 やはり、通常ではない。


 封を切り、文面に目を通したナタリアは、短く読み上げる。


「ローレン家の子息を留め置け。一月後、私が戻る。その場で説明を聞く。退席は許さない――だそうです」


「……お怒り、ということでしょうか」


「ええ。やはり、簡単なお詫びでは足りません」


 ナタリアは顔を上げる。


「きちんとした場を設けましょう」


「謝罪の場です」


 少しの沈黙のあと、ナタリアは宣言した。


「謝罪会見いたしましょう」


 アルベルトには、言葉の意味がすぐには入ってこなかった。


「……会見?」


「はい。大勢の方に昨日のアルベルト様のご発言が聞かれております。口止めはいたしましたが、聞いた方が多すぎます。噂とは、止めたところで隙間から漏れるものです。まして今回は、お父様の耳に入ることが確定しております。お披露目も中止になりました。すでに家と家の問題です」


「謝罪会見とは……私は謝ればよいだけですか」


「いいえ」


 ナタリアはすぐに否定した。


「正しく謝る必要があります」


「謝るにも、正しい順序があるのですか」


「あります」


 ナタリアの目に、妙な確信が宿る。


「謝罪には、流儀がございます」


 ナタリアには、前世の記憶が一部あった。


 名前も顔も、家族も、どんな人生を送ったのかも分からない。


 けれど、自分が何をしていたのかだけは、妙にはっきり分かる。


 前世の自分は、危機管理コンサルタントだった。


 簡単に言えば、炎上する前に頭を下げ、火が広がる前に消す専門家。

 謝罪のプロである。


「炎上する前に、火を消しましょう」


「炎上?」


「評判に火がつくことです」


「評判は燃えるのですか」


「燃えます。しかも早いです」


 ナタリアは淡々と言った。


「アルベルト様の場合、すでに大勢に失言を聞かれ、伝令が走っております。小火です」


「一月後には大火になりかねません」


「消せるのですか」


「消します」


 ナタリアは当たり前のように続けた。


「場合によっては、揉み消します」


「揉み消す」


「失礼しました。適切に鎮火いたします」


 アルベルトは黙った。


 巻き込まれている。


 自分は今、明らかに何かに巻き込まれている。


 自分の発した火種に、エヴァンズ侯爵家という大風が吹きつけ、燃え広がろうとしている。


 だが、命がかかっている以上、降りるという選択肢はなかった。


 自分はまだ若い。

 羊の品種改良に携わるくらいなら、まだ何とかなるかもしれない。


 だが、死にたくはない。


 非常に。


 ナタリアはそっと息を吸う。


「アルベルト様。まず確認いたします。ご自分の発言が、場と聞き手への配慮を欠いたものだったと認識しておられますか」


「……場を誤り、配慮を欠いたことは申し訳なく思っています」


「結構です」


「だが、内容は事実です」


「そこです」


 ナタリアの声が少しだけ強くなった。


「その『だが』が、お父様には最も危険です」


「反省の場で、自分の正しさを前に出してはいけません」


 アルベルトは黙った。


「お父様は、反省しようとする若者を頭ごなしに踏み潰す方ではありません」


「ただし、羽虫は駆除なさいます」


 アルベルトの脳裏に、羊と、跡継ぎが替わった家の話がよぎった。


「私はどちらですか」


「そこを、今からこちら側で対処いたしましょう」


 ナタリアは言い切った。


「羽虫のアルベルト様を、人間にしてみせます」


 あまりにも失礼なことを言われている。


 だが、不思議と真っ当なことを言われているようにも聞こえた。


「アルベルト様の反省と誠意が、お父様に正しく伝わるように」


 アルベルトは無表情のまま、彼女を見た。


 そして彼はまだ知らない。


 これからの一月で、自分の人生が謝罪を中心に組み替えられることを。


 言葉の順番に怯え、

「だが」を禁句とされ、

腰に分度器を当てられ、

四十五度の角度を身体に叩き込まれ、

表情筋ひとつで失格を告げられることを。


 そして、そのすべてを命綱として受け入れる日が来ることを。

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