余、おっぱいに帰る為に禁呪まで使う
カレンが帰った夜のことだった。
余は、プリムの寝息を聞きながら、一人でもがき苦しんでいた。
(ぐ、おおお……っ。なんだ、これは……!)
昼間に飲んだ、アムリタのミルク。プリムが寝静まったあと、小瓶からこっそり舐めたソーマの乳酒。回復の霊薬と、浄化の霊酒。
神話に記された2つの力が、余の内側でぶつかり合い、最弱の肉体を内から強引に作り替えようとしている。
ゲル状の体に、ぴきり、と光の筋が走った。罅割れるように、それが全身へ広がっていく。
(……進化だ)
すぐに分かった。
まずい。進化の最中は無防備になる。せめてプリムの谷間の奥へ潜り込もう――そう思ったときにはもう遅かった。
光が弾けて、罅割れていた表面が砕け落ちる。内側から、古い身体が新しい肉体へ作り変えられていく。
『個体名:エルガディス(エロス)。種族:ファフニールスライム。属性:ベビー――から【ノーマル】へ進化しました』
脳裏に、世界のシステム音が響く。
(やった……ついにベビーを脱したぞ。ノーマルは、ベビーを脱した証。この状態になれば、肉体の強度も魔力の総量も跳ね上がる。さあ、どれほどの力が――)
そこで、気づいた。
体が、膨らんでいく。
手のひらに乗るほどだった余の体が、りんご大になり、スイカ大になり、それでも止まらない。どんどん大きくなっていく。
6畳一間の狭いアパートだ。部屋の隅にプリムの古い勉強机がある。その机が――余の体に、ずぶずぶと呑み込まれていき、机ごと余がすっぽりと覆い尽くしてしまう。
(ま、待て。この大きさでは……あの玉座に……胸の谷間に入れんではないか……!)
その瞬間、余は竜生……いや、スライム生で……最大級の絶望に襲われた。
ヴェルゼアに囚われたときも。ベビーへ堕とされたときも。異世界で餓死しかけたときも。
あのときの焦りは、所詮「命がかかっていた」だけだったが、今は――それよりもはるかに重大な問題が、目の前にある。
(あの温かな谷間が。最高の居心地が。至高の玉座が、進化の代償として永遠に失われるというのか……)
ならん……断じて許さん。
余は、全力で魔力を絞り込んだ。
(縮め……縮まれ……っ!)
駄目だった。進化の奔流は止まらず、むしろ余の制御を嘲笑うように勢いを増していく。
(ならば、密度を上げて圧し込む――!)
体積を、内へ内へと締めつける。ぐぐぐ、と膨張が一瞬だけ鈍った。……が、それも束の間にすぎず、進化の波に押し負けてまた膨らみ始める。
壁まで、あと30センチ。
(くそ……並の制御では、追いつかん……!)
そのとき余の思考は、たった一つのことだけに絞られていた。
谷間に戻りたい。
ただ、それだけだった。復讐でも、怒りでも、力への渇望でもない。この体になってから毎晩眠ってきた、あの場所。温かくて、柔らかくて、甘い香りのする――あの至高の玉座へ帰りたい。
壁まで、あと10センチ。
(やむをえん……禁呪を、使う)
覚悟を決めた。
漆空断絶の縛鎖。本来は、術者が指定した一定の空間内に対象を縛り留め、その内部にあるものの膨張や変化を力ずくで封じ込める術式だ。封印されているのには、理由がある。
発動した空間内の変化を無理やり押さえつける性質上、術者自身にも相応の反動が返ってくる。現役の暗黒竜だったころでさえ、使えば3日は動けぬほどのダメージを受けた。
それを、ベビーから進化したばかりのこの貧弱な体で使えば――どうなるかは、考えたくもなかった。
(だが、背に腹は代えられん……やるしかないのだ)
(ならば、縛る空間を――元の掌ほどの大きさに指定してやればいい)
谷間のためなら、余は禁呪すら使う。
(うおおおお――縮めぇぇぇ――っ!)
1000年の修練。魔王として培った魔力制御。そのすべてを注ぎ込む。何より――「あの谷間に戻りたい」という、かつてないほど純粋で強大な欲望と、ありえないほど情けない執念を。
どん、と漆黒の空間から伸びた幾本もの歪んだ鎖が絡みつき、大気が震え軋んだ。
闇の中で黒い流体がぐるりと渦を巻く。余の体が引き絞られるような痛みとともに、ぐ、ぐ、と縮んでいった。
(ぐ……っ。縮め……縮まれ……っ!)
壁まで、あと数センチ……。
ギリギリで――止まった。そしてまるで逆再生するように、どんどん縮んでいく。
余の体に埋もれていた机が、ずるりと外へ押し出された。脚が床を擦り、ガタンと大きく傾く。天板の本が二、三冊、床へ転がり落ちた。
「んっ……?」
プリムが寝返りを打つ。
余は、息を殺して動きを止めた。
しばらくして、寝息がまた穏やかに戻る。部屋に静けさが帰ってきた。
余は、床の上で元の大きさに戻っていた。手のひら大――ほんの少しだけ前より大きい気もするが、誤差の範囲だ。
縛鎖は体積そのものを消したわけではない。掌ほどの空間へ圧縮して閉じ込めただけだ。術式を緩めれば、本来の体積へ戻すこともできる。
「きゅるっ、きゅるっ……きゅるるぅ(ぜえ、ぜえ……よし……なんとか、なった……ぞ)」
体がぷるぷると震えていた。
(……禁呪を。よりにもよって谷間のために、禁呪を使ったのか……余は)
笑えない話だった。かつて余が禁呪を解き放ったのは、大陸の封印を破ったときと、100年に一度の大戦における最終決戦――その2度だけだ。
(……その栄えあるリストに、「谷間に帰るため」が加わった)
全魔力を使い果たしたような疲労が、全身を襲う。
視界が揺れた。
このままでは、本当に死ぬ。
余は震える体でプリムのポーチへ這い寄り、小瓶に残っていたアムリタを数口吸い込んだ。全身が崩壊しそうな痛みが、瞬く間に引いていく。
続けてソーマをわずかに取り込む。枯れ果てていた魔力回路へ清らかな力が巡り、ようやく体を動かせるだけの魔力が戻ってきた。
(すまぬ、プリム……最初からアムリタとソーマを使う前提で禁呪を使用するほかなかったのだ……これらがなければ、ノーマル程度の身体では禁呪に耐えきれなかったであろう……)
余はふらつきながらベッドへ這い上がり、眠るプリムの胸元まで辿り着いた。衣服の隙間から、するりと滑り込む。
温かくて柔らかかった。鼻先をかすめるのは、甘く気高いアムリタの香り。
(……帰ってきた)
その言葉が、するりと胸に浮かんだ。
慌てて、打ち消す。こんな感傷は魔王にふさわしくない。ただ体力が尽きて、最も安全な場所に避難しただけのことだ。
「んぅ……」
プリムが眠ったまま、手探りで余を探し当て、谷間の中心へ引き寄せた。ふにゃあ、と気の抜けた寝言が漏れる。
(……利用しているだけだ)
そう言い聞かせながら――余は、あっという間に意識を手放した。
翌朝。
「あれ、本が落ちてる……? 机の引き出しも開いてるし。ポーチの場所もズレてるような? 地震、あったのかな?」
プリムが不思議そうに首をかしげながら、本を拾い集めていた。寝癖のついたミルク色の髪が、あちこちに跳ねている。
「きゅるる(……夜中に地震があったのだ。余は何も知らん)」
「エロスちゃん、なんか昨日よりちょっと大きくなった気がするし、なんか角や尻尾も少しだけ立派になったかも! もしかして進化したのかな? やっぱり、栄養が足りてきて元気になったんだね!」
プリムは余を両手で包んで、まじまじと眺めると、嬉しそうに目を細めた。
「大きくなっても、谷間にはちゃんと入れてあげるからね。安心してね」
(……余が案じているのは、最初からその一点だけだ)
「きゅるっ(……そうか。ならば、問題ない)」
「ふふ。じゃあ今日もよろしくね、エロスちゃん」
プリムは余を谷間に戻すと、朝食の支度を始めた。
余は谷間の奥で夜中の出来事を思い出していた。
(禁呪を、谷間への執念ひとつで使ったか……)
やはり、笑えない。だが、「使えた」という事実だけは残る。余の魔力は、まだ本調子からはほど遠い。それでも、確かに――戻りつつある。
朝食を終えたころ、プリムがふと首をかしげた。
「そういえば、エロスちゃん。最近、鳴き声でなんとなく言いたいことが分かってきた気がするんだよね」
余は谷間の中で、ぴくりと動いた。
「気のせいかな。でも、急かしてる時と不満そうな時、OKな時とでなんか違う感じがするの」
(……言われてみれば、余も、この女が眉を寄せている時と、素直に頷いている時の違いが、最初よりは読めるようになってきた)
「きゅるる(……まあ、否定はせん)」
「あ、今の『そうだよ』って感じがした! 合ってる?」
「きゅるっ(……おおむね、な)」
「やっぱり!」
プリムが、ぱあっと顔を輝かせた。
「ノーマルに進化したから、かな。なんか繋がりが強くなったのかも」
(……この女、勘だけは鋭い。認めたくはないが)
「きゅるる(……好きに解釈しろ)」
「エロスちゃんが認めてくれた!」
(認めておらん)
余は谷間の奥へ引っ込んだ。プリムは嬉しそうに笑いながら、食器を流しへ運んでいった。
その夜。
「うーん……どうやったら、ちゃんと戦えるようになるのかなぁ……」
プリムが、ユニットバスの湯に浸かりながら、湯船に浮かぶ余を見つめてため息をついた。湯気でミルク色の髪が、ほわほわと広がっている。
「アーティアを使うには星紋に触らなきゃだし、発動したら、その……おっぱい丸出しになるし。そんな格好でダンジョン入ったら、配信で全部映っちゃうよ。でも、お姉ちゃんは探したいし……どうしたらいいんだろ……」
また、ひとつ、ため息。
「このままじゃ、エロスちゃんにミルクをあげるだけの人になっちゃう。それじゃ、駄目なんだよなぁ」
余は湯の上から湯船の縁へ這い上がり、その横顔を見つめた。
(……この下僕を、変質者扱いで社会的に葬らせるのは、余のプライドが許さん)
いや、それだけではない。
昨夜、余はノーマルへ進化した。いまの余の体積を解き放てば、この女の体を衣のように全身で覆える。流体である余なら、必要な箇所だけを思いのままに開けることもできる。
(……余が、解決してやろう)
余は、湯船の縁から飛び降りた。
「え? エロスちゃん? なに――」
プリムの制止を聞かず、洗い場で一気に体積を解き放つ。どぷん、と漆黒の流体が床を覆い、プリムのつま先から、するすると這い上がっていく。
「ひゃっ!? つめたっ! なに、なに――!?」
プリムが湯船の縁を掴んで身を縮める。けれど、余を払いのけようとはしなかった。
余は構わず全身を薄い膜に変えながら、這い上がった。足先から、膝、腰、腹――余の流体がその体の輪郭に沿って、ぴたりと広がっていく。
胸元まで来たところで、余は動きを止めた。
そして――アンダーバストのあたりだけ、流体をすっと引いた。左右の星紋を覆わぬよう、下乳のあたりに、ぽっかりと隙間を空ける。
「あ……」
プリムが気づいた。隙間から、自分の肌が覗いている。アンダーバストの裏――虹色の紋様が、かすかに光っていた。
「きゅるる(……そこに、触れろ)」
プリムはしばらく余を見ていたが、なんとなく意図が伝わったらしい。恐る恐る両手を差し込み、指先で左右の星紋に同時に触れる。
「アーティア」
虹色の光が弾けた。アンダーバストの隙間から、温かな輝きが溢れ出す。
右の先端から黄金色のアムリタが一滴。左からは、銀色に輝くソーマが一滴、滲み出した。
余はすかさず流体の一部を左右の先端へ密着させ、滲み出した2つの力を直接吸い上げた。
「んっ……ぁ」
プリムの肩が、小さく跳ねた。くすぐったそうに肩をすくめたが、離れはしなかった。
「……なんか、エロスちゃんに直接吸われてる感じがする」
(当然だ。今は余が、アムリタとソーマを通じて、胸に直に繋がっておる)
「きゅるっ(……そうだ)」
「へえ……ちょっとくすぐったいけど、悪くない、かも」
アムリタとソーマの力が、余の流体を通じてプリムの全身へ巡り、薄い膜の隅々まで満たしていく。温かくて、甘い。「悪くない」という呟きが、2つの力を通して余の魔力回路にまで、じんと伝わってくるようだった。
(……これが、常時接続というやつか)
虹色の光と、漆黒の魔力が、混ざり合う。余の流体が形を固め始めた。
湯煙の向こうに――見たこともない戦闘形態が、ゆっくりと姿を現していった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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