神乳シチューに涙する親友と、諦めない少女
夕方になって、部屋の空気が、ようやく落ち着いてきた。
カレンはプリムの台所を勝手に開けて、「冷蔵庫の中がひどい」と一言こぼしてから、近くのスーパーで食材を買い込んできてくれた。
「私が食べたいだけ」とは言っていたが、どう見ても2人分の量だった。もっとも、今の余は乳以外を栄養にできぬため、数には入っていないらしい。
「カレン。アムリタとソーマ、料理に使ってみるね」
「……料理?」
「牛乳と、料理酒の代わりに使えるって気づいて。昨日試したら美味しかったから」
「……それ、自分のおっぱいから出したやつ?」
「うん」
「しれっとした顔で言うんじゃないの」
カレンはぶつくさ言いながらも、結局は台所を覗き込んでいた。
プリムは鼻歌まじりに、鍋を2つ火にかけた。
ひとつ目は、クリームシチュー。鶏肉、玉ねぎ、じゃがいも、にんじん。仕上げに、小瓶からアムリタミルクをほんの少し加える。その瞬間、鍋の中がふわりと光って、甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
ふたつ目は、カレイの煮付け。醤油、みりん、砂糖。料理酒の代わりに、小瓶からソーマ酒を少し垂らす。じゅっ、という音とともに、深く芳醇な匂いが立ちのぼった。
「……ねえ、香りだけで、なんかおかしくない?」
カレンが、台所の入口から顔を出した。
「いい意味で?」
「いい意味で……明らかにおかしい」
プリムは、にこにこしながら綺麗にお皿に盛りつけた。
カレンは、まずクリームシチューを一口すすった。
動かなくなった。
スプーンを持ったまま、固まっている。
「カレン?」
返事がない。
もう一口。
カレンの目が、じわじわと潤み始めた。
「……カレン!? どうしたの!?」
「……なんでもない」
「泣いてるよ!」
「泣いてない……」
「泣いてるじゃん!」
「……美味しすぎるのがいけないのよ!」
カレンは袖で目元を押さえると、今度はカレイの煮付けに箸を伸ばした。一口。
「――っ」
また固まった。
「こっちも……ありえない……何これ……」
「美味しい?」
「美味しいとか、そういう次元じゃないわよ。食べた瞬間から、体の中がすうっと軽くなってく感じがする」
カレンは箸を置いて、真剣な顔になった。
「プリム。私いま、なんか急に体が楽になったんだけど……」
「回復の効果があるみたい。傷とか、疲れとか」
「それだけじゃないわ。なんか……体の中の、淀んでたものが全部抜けたみたいな……すっきりして、力が湧いてくる感じ」
「左のほうが浄化の力、なんだって」
カレンは少し考えてから、口を開いた。
「……ダンジョンに潜る前にね、筋力や体力を一時的に高めるバフアイテムってのがあるの。体の状態を無理やり引き上げるやつ。私も1回、奮発して使ったことあるんだけど……」
「うん」
「正直、あれは――使っても、ちょっとマシになったかな……くらいだった。無いよりはいいレベル」
カレンは、シチューの残りを見つめた。
「でも、これは違う。食べた瞬間に体が別物みたいに動く感じがする。さっき立ち上がっただけで分かった。ギルドの売店で売ってるバフアイテムとは、比べものにならないわよ」
「そうなの?」
「そうなの。っていうか、おかしいの。これを毎日食べてるってこと?」
「うん、昨日から」
カレンは額に手を当てた。
「プリム、聞いて」
「うん」
「鉄級ライセンスしかなくても、全然諦める必要はないと思う」
「え?」
「本気で言ってる。傷の回復と浄化、体力の底上げが毎食入ってくるなら、かなりのアドバンテージになる。潜れる階層は制限されていても、実力だけなら十分に通用する」
プリムはカレンの目を見た。カレンは目を逸らさなかった。
「それなら良かった……お姉ちゃんを探すためにもっと頑張れるね」
「当然でしょ」
カレンはシチューの残りを口に運びながら、もう一度だけそっと目元を押さえた。
食事を終えて、食器を洗いながらカレンが静かに切り出した。
「……お姉さんのこと、当然諦めてないよね」
「うん」
「鉄級で諦めるには、早すぎるわよ」
「もちろん諦める気なんてないよ」
プリムは、振り返らずに答えた。声は穏やかだったが、迷いはなかった。
「お姉ちゃんが行方不明と聞かされた時、私、1回だけ泣いて――次の日から、もう泣かないって決めたから」
「……」
「お姉ちゃんが生きてるって、信じてるから。泣いてたら、会いに行けないもんね」
「……知ってる」
「カレンは知ってたね」
「最初から知ってたわよ」
「ありがとう」
「礼を言うな。こっちが言いたいくらいなんだから」
カレンの声が、少しだけ低くなった。
「お姉さんが失踪した時、私も悲しかった。昔からプリムの家に遊びに行った時は私もお世話になってたからね。プリムが傷ついてるのも、ちゃんと分かってた。……でも、何もできなかった……」
「私が学院で馬鹿にされてた時も、カレンはいてくれたじゃない。ずっと隣に」
「肝心な時にいなかったけどね……それにそれだけじゃ、足りなかったわ……」
「足りてたよ。十分すぎるくらい」
プリムが振り返って、にこっと笑った。
カレンは、ふん、と小さく鼻を鳴らして目を逸らした。けれど口元が、わずかに緩んでいた。
余は、そのやり取りを谷間の中で聞いていた。
プリムはずっと笑っていた。悲しいはずなのに、そんなことは微塵も感じさせずに、それでも笑っていた。
余は、この女を「資源」だと決めた。そう結論づけたはずだった。アーティファクトの規格は本物だ。ミルクの回復力やソーマの浄化能力も、魔力の純度も。
だが――。
「……学院の誰かを見返したい、とかじゃないんだよね……私は」
プリムが余を目の高さに持ち上げて言った。
「アルノー先輩をぎゃふんと言わせたい気持ちが、全くないかって言ったら、嘘になるけど」
その目が、まっすぐに余を見ていた。
「それよりもお姉ちゃんを見つけたい。ただ、それだけなんだ」
「お姉ちゃんはね、私が探索者になりたいって言った時、反対しなかったの。他の大人はみんな、女の子なんだから危ないとか、星紋が覚醒するとも限らないのにとか言ったのに――お姉ちゃんだけ、『プリムがやりたいなら、やればいいよ』って言ってくれたんだ」
「……うん」
「だから、諦めたくない。お姉ちゃんが信じてくれたから」
泣きそうで、泣かない顔だった。歯を食いしばって、前を向こうとしている顔だ。
(……余は、ずっと何かのために戦ってきた……)
領土のため。配下のため。退屈を紛らわすため。だが、ただ誰かに会いたい、という理由だけで動いたことは――一度も、なかった。
(……そういう思いを、余は知らぬ……)
「じゃあ、そろそろ帰るわね。明日も実習があるから」
カレンが立ち上がって、コートを手に取った。
プリムが玄関まで見送りに出る。余はプリムの谷間に戻っていたが、カレンはドアを開ける前に、ちらりと余を見た。
「エロスちゃん」
「きゅるっ?」
「プリムのこと頼んだよ」
余は、一拍、黙った。
(……余に頼むのか……)
おかしな話だ。余はこの女を利用しているだけだ。守ってやる義理などありはしない。
「きゅるる(……余の意思で決める。貴様に頼まれたからではない)」
「プルプルしてる。承諾ってことにしとくわね」
「カレン、エロスちゃんはちゃんと分かってくれてるから!」
「分かってる。だから頼んだのよ」
カレンはドアを開けた。出ていく直前に、もう一度だけ振り返る。
「プリム、ひとつだけ言っておくね」
「何?」
「お姉さんは、絶対に生きてる。私も信じてるから」
プリムは、何も言わなかった。ただ、こくりと頷いた。
カレンがドアを閉める。
廊下の足音が遠ざかって、やがて静かになった。
プリムはしばらく、玄関の前に立ったままドアをじっと見つめていた。
「……エロスちゃん」
「きゅるっ?」
「頑張ろうね」
声は、さっきよりほんの少し、やわらかかった。
プリムが谷間に手を当てる。余の核の上に、その手がそっと重なった。
「私、強くなるから。ちゃんとお姉ちゃんを探せるくらいに。だから――一緒にいてくれると嬉しいな」
「きゅるる(……余はおまえが有用だから傍にいる。それだけだ)」
「ふふ、そういうことにしておくね」
プリムは笑いながら、台所の後片付けに戻っていった。
夜。余は谷間の中で、今日のことを整理していた。
プリムの姉。白金級の探索者。ダンジョンの40階層の境界門付近で行方不明。
(……白金級の実力者が、忽然と消えたか。単なる事故とは思えんがな)
余の思考は、その一点に引っかかっていた。
(もしや、異空間の歪みか……?)
世界と世界の境目に生じる裂け目。余の世界にも、それに似た現象はあった。
だが、それはまた別の話だ。
プリムの寝息が聞こえてきた。今日も疲れたのだろう。あっという間に眠りに落ちた。
「おやすみ、エロスちゃん……」
電気が消える直前、そう聞こえた気がした。
「きゅるる(……うむ。精進せよ)」
余は谷間の奥に潜り込んで、目を閉じた。
一緒にいてくれると、嬉しい。
(……感傷的なことを言う娘だ)
そう思ったのに、なぜか今夜は、すんなり眠れそうな気がした。
安アパートの薄い壁の向こうで、商店街の喧騒がかすかに響いていた。
*
――その頃、遠く離れた異世界では。
ダンジョンの薄暗い石造りの廊下を、一人の女性が歩いていた。
ミルク色の髪。けれどその瞳は、プリムの翠とは違う、深い紫だった。白金級探索者に相応しい装備を身につけ、肩に使い込まれた剣を背負っている。
ひどく疲弊していた。それでも、足を止めなかった。
「……待っていて、プリム」
誰にも届かない声で、そう呟く。
その時、廊下の曲がり角に、人影が現れた。
若い男だった。燃えるような赤い髪。学院の軽鎧に似た装束。手には、光り輝く長剣を握っている。
女性が、立ち止まった。
男も、立ち止まった。
2人は、しばらく黙って見つめ合った。
「……あなたは?」
女性が、静かに問う。
「俺は――」
男が、口を開いた。
「――この世界の、勇者だ」
廊下の光苔が、2人の輪郭を静かに照らし出していた。




