黄金豊穣の神乳《アムリタ》
ダンジョンから帰ってきた午後だった。
アパートの扉が、けたたましいノックに揺れた。
「プリム! いるんでしょ、プリム! 私がダンジョンで研修受けてる間に退学になったって聞いて、すっ飛んできたんだから!」
「わわっ、カレン!?」
慌てて鍵を外すと、背の高い女が立っていた。深い赤の髪に、少しつり目の藍色の瞳。どうやらプリムの知り合いのようだ。
玄関に入り、彼女はプリムの顔を見るなり、肩を掴んで激しく揺さぶった。
「星紋が出なかったからって、私に何の相談もなしに……。あ」
その手が、ぴたりと止まる。
部屋着のだぼだぼのTシャツの内側で、尋常ではない質量を誇る、2つの巨大な霊峰が存在感を放っていた。
そしてその谷間に――突起のある不思議な黒い球体が、我が物顔で収まっていた。
「きゅるる」
余だ。ちょうど昼寝の佳境だった。気安く覗き込むとは、いい度胸だ。人間の小娘め。
「……ちょっと、プリム……」
カレンが、ジト目になった。
「星紋が出なくてショックなのは分かるけどさ。寂しさを紛らわせるために、エロスライムを胸で飼い始めたわけ?」
「エっ、エロスライム!? 違うのカレン、この子は昨日ダンジョンで死にかけてたベビースライムなの。その……放っておけなくなっちゃって……」
「きゅるるっ!!(だ、誰がエロスライムだ、貴様ァァァ!!)」
余は内心で猛り狂った。世界を統べた魔王だぞ。この谷間にいるのは戦略的な拠点確保であって、断じて――。
「でも、そのスライム。プリムの胸の柔らかさを堪能してる目(?)をしてるわよ」
「そんなことないと思うけどなぁ……」
「してる。絶対してる。アンタは昔からすぐ子猫や子犬を拾っては胸に放り込んで連れて帰ってきてたからね……ベビー属性だし、分からなくもないか……」
ずかずかと部屋に上がると、カレンは腕を組んだまま、真剣な顔で室内を見回した。
「引っ越したって連絡が来たから来てみれば……酷いわね。こんな部屋なの?」
「家賃3万円なんだけど、悪くないよ? ユニットバスも付いてるし……」
「悪い」
即答だった。
「窓は南向きじゃないし、壁は薄そうだし、階段はぎしぎし鳴ってたし。商店街の裏って、夜うるさくないの?」
「あ、あんまり気にならない、かな……」
「プリムが気にならないのは知ってる。アンタは無防備なんだから、こっちが気になるの!」
藍色の目が、部屋をぐるりと一周して、最後に余のところで止まった。
「で?……星紋は見つかったの?」
「うん。退学になった日の夜に、お風呂場で見つけたよ」
「ふーん……どこに?」
「……その、おっぱいの」
「……おっぱいの?」
「おっぱいの裏に、2つあったよ……」
沈黙が落ちた。
カレンは3秒、プリムの胸を見てからもう3秒考え、一言だけ言った。
「それは、見つからないわ……」
「でしょ! 魔力適性はすごく高いって言われてたのに、まさかこんな場所にあるなんて思わなくて……」
「まあ、検査は年に1回きりだしね。しかも見るのは、大体決まった範囲だけ。おっぱいの裏なんて、調べようがないわよ」
「そう、なの……?」
「そうよ。っていうか、これ検査官が見えたとしても直視できないでしょ。プリムの胸、規格外すぎるもの」
「それはそれで傷つくよ……」
「で、実際どのへんにあるの?」
「えっと……」
プリムがTシャツの裾を少しめくって、アンダーバストのあたりを指さした。
「ここ。右と左に、1個ずつ」
カレンが、覗き込む。
「……あ、本当だ。右にも左にも――」
言葉が、止まった。
目が、すっと細くなる。
「……プリム」
「なに?」
「この星紋の色、なんか変じゃない?」
「え? そう?」
「金色じゃない。銀でも、銅でもない。これって――」
顔を上げたカレンの眉が、跳ね上がっていた。
「虹色じゃないっ!?」
「……うん。そうみたい」
「虹色って、どういうことよ!?」
がばっと立ち上がると、カレンはスマホを取り出した。確認するまでもないはずなのに、それでも確かめずにはいられない、という顔だった。
「虹色――虹金級! 海外だとオリハルコン級って呼ばれてる、最高格付けの星紋よ! 学院では今まで一度も発見されていない伝説扱いで――!」
「授業でちらっと出てきたよね。世界に数人しかいないんだっけ? 日本ではまだ確認された記録はないって習ったような?」
「そう、それ! プリム、それだよ!」
「……みたいだね」
「なんでそんなに落ち着いてるのよ!」
次の瞬間、カレンはプリムの両胸を、がしっと鷲掴みにしていた。
「ちょ、カレン!?」
「きゅるっ!?(ぐおっ、余を挟むな!)」
「公式に確認されてる虹金級は、今まで世界に3人しかいないの! 分かってる!? なんでそんな顔してられるの!」
「揉まないで、揉まないでカレン! 黒ちゃんも挟まってるから!」
「あんた本当に分かってる!? あの世界ランク1位のエリシア様――光剣クラウ・ソラスで、巨大なアークデーモンを真っ二つにした神動画が全世界に出回ってる、あのエリシア様と! 同じ格の星紋なのよ!? それが、プリムの! おっぱいの裏に!」
「痛い、痛い! ちょっと強く揉みすぎだから離してよ!」
「おっぱいの裏にッ!」
ようやく手を離して、カレンは頭を抱えた。
「しかも公表されたら、世界で4人目よ。1位がフランスのエリシア・ミストウォーカー様、2位がロシアのアナスタシア・ヴォルコヴァ、3位がアメリカのライアン・クロス――その伝説の3人と肩を並べて、4人目がアンタなの!?」
「……そうみたい」
「そうみたいって!」
カレンは、もう一度頭を抱えた。
「なによそれ。世界で4人目の虹金級が、よりにもよっておっぱいの裏に星紋があったせいで検査をすり抜けて、退学になり、今こうして黒いスライムを胸に飼いながら、鉄級のライセンスでダンジョンに潜ってるってこと?」
「……うん、要約するとそうなるかも……」
「……なにそれ」
ぐったりと、椅子に腰を落とす。
(……余も、最初からそう思っているのだがな)
余は谷間の奥で、ぷるりと震えた。
カレンはしばらく頭を抱えていたが、やがて気を取り直すように腕を組んだ。
「アーティファクトの名前、もう確認した?」
「え、できるの?」
「星紋検査で星紋が見つかった子には、全員に教えるのよ。プリムは養成課程へ進めなかったから、説明を受けてないのね……」
カレンが説明する。
「星紋に触れながらアーティアって唱えて、そのまま触れた状態で、情報を表示するように念じるの。頭の中で呼びかければいい。名前とか属性とか、分かる範囲で返ってくるから」
「なにそれ、知らなかった……」
「やってみて」
プリムがTシャツの裾をめくって、アンダーバストに指を当てた。
「アーティア……えっと、名前は……?」
数秒の沈黙。
「……出た」
「どう?」
プリムが、ゆっくりと顔を上げた。
「右が……黄金豊穣の神乳。回復の力、だって」
「神乳って、何よ。確かに神のおっぱいだと思うけど……」
「左が……銀光聖浄の乳酒。こっちは、浄化の力って出てる」
「神乳の次は乳酒って、何よ。紛れもなく神聖なおっぱいだと思うけど……」
言いながら、カレンの動きが、また止まった。
「……待って。アムリタ?」
「うん」
「アムリタって……まさか、あのアムリタじゃないでしょうね。神話に出てくる、不老不死の――」
「えっ、そうなの?」
「神話の霊薬よ! 神様が不老不死を得るために飲んだっていう、伝説の中の伝説! それが……あんたのおっぱいから出るの!?」
「……出るね」
「出るねって……」
(――ッ!)
その瞬間、余の思考が、止まった。
(アムリタ……だと。――神話にのみ名を残す、あの霊薬か)
昨日の回復力と、完全に符合する。
(ならばソーマも、浄化の霊酒……)
余は静かに、しかし確かに、認識を改めた。
「……なにそれ、チートじゃない!」
カレンが、呆然と言った。
「回復と浄化が両方って、それだけでもありえないのに――虹金級。探索者として、最強の組み合わせじゃないの」
「そうなのかな……まあ、おっぱいを晒さないと使えないんだけどね……」
「まあ……それはそれとして、ね……」
プリムが少し迷ってから立ち上がって、棚から小瓶をいくつか取り出した。
「あのさカレン。今朝、瓶に詰めといたんだけど――」
「何を?」
「これ……」
手渡された小瓶の中で、黄金色に輝くミルクが揺れている。
「今朝、搾って詰めといたやつ。カレンもいる? ポーション代わりに使えると思うよ、たぶん……」
カレンは小瓶を光にかざして、じっと見つめた。
「……ポーションどころじゃないでしょうけどね」
「そうなのかな?」
「神話の霊薬を瓶詰めしたものを、ポーション代わりって……正気?」
「ポーション買わなくて済むじゃん」
「……まあ、いざという時の切り札用にいただくけど」
カレンは小瓶をポーチにしまった。その顔は、なんとも複雑だった。
(……ポーション代わり、か)
余は谷間の奥で、しみじみと呆れた。
(神話に記された霊薬を、そのへんで売ってるポーションと同列に扱うとは……ある意味大したものだ)
一息ついてから、カレンがコップを手に余をまじまじと見た。
「黒いスライムで、ベビー属性で、ミルクを飲んで生きてると?」
「うん」
「で、このおっぱいの谷間に住んでる?」
「うん」
「で……名前は、つけたの?」
「黒ちゃんって呼んでるんだけど」
カレンのつり目が、余を向いた。
余は黙っていた。黙ってはいたが、「黒ちゃん」と呼ばれている事実は純粋に屈辱だったので、ぷるぷると震えていた。
「なんかプルプルしてる……」
「不満そうなんだよね。でも、他にいい名前が思いつかなくて」
カレンは本気で考え込む顔をした。
「エロスはどう?」
「え?」
「エロスライム、略してエロス。エロいスライムだから」
「カレンっ! この子の前で、そういうこと言わないの!」
(エロスライムとまた言いおった……!? 余に向かって、エロスだと!?)
余は谷間の中で憤慨した。断じて許しがたい命名だ。
だというのに。
エロス。E・R・S。
その瞬間、余の思考が、一点で止まった。
(……待て)
エルガディス・レクス・スレイプニル。E・R・S。
(……一致、しているではないか)
完全に。頭文字が、寸分たがわず一致していた。この女は、何の気なしに、余の真名の頭文字を並べてみせたのだ。「エロいから」という、ただそれだけの理由で。
(……運命か、それとも呪いか)
「エロスちゃん! 黒ちゃんより、いいかも」
「プリムまで乗っかるの!?」
「なんか、しっくりくる感じがする……エロスちゃん、どう?」
プリムが、余を覗き込んできた。
(……余はエルガディス・レクス・スレイプニルだ。世界を統べた暗黒竜だぞ。エロスなどという名は、断じて――)
プリムが期待に満ちたうるうるとした目で余を見つめてきた。
「……きゅるる(……仮だ。あくまでも仮だぞ。覚えておけ)」
「やった! じゃあ、エロスちゃんね!」
「プルプルしてるけど、まあいっか」
カレンが満足げにコップを傾ける。余は谷間の中で、1000年の威厳が音を立てて崩れていくのを感じていた。
しばらくして、カレンの表情が変わった。笑みが消えたというより、何かを言おうか迷っている顔だった。
「プリム。アルノーのことなんだけど」
プリムの手が、コップの上で止まる。
「退学の日に廊下で言ったこと、けっこう人に聞かれてたみたい。わざとかどうかは知らないけど、完全に公衆の面前だった」
「……うん」
「腹、立たない?」
プリムは少し考えてから、首を横に振った。
「怒ってはいるよ。でも、今はあの人に時間を使いたくないの。お姉ちゃんを探す方が大事だから」
カレンは、それ以上は言わなかった。ただ余に視線を向けた。
余はそのやり取りを谷間の中から聞いていた。
アルノー・ヴァリエール。廊下での一言は、プリムの退学が決まった直後のことだったらしい。弱った相手を、人前で踏みにじったようだ。
(……薄っぺらい男だ)
強者が弱者を嘲る。その手の愚か者を、余は本能的に嫌う。弱者には手を出さない――それが余の流儀だ。
だがそれだけではなかった。
この女の価値を、余は誰よりも知っている。神話の霊薬と霊酒が、この娘の胸の裏に宿っているのだ。それを、「無印女」の一言で切り捨てた。
(……笑わせるな。貴様が「無印」と呼んだ女の価値を、誰よりもよく知っているのは、この余だぞ)
余はぷるりと、わずかに震えた。
「……エロスちゃん、温かいね」
プリムが、谷間に手を当てる。
(……余は流体だ。体温などない。貴様の熱を反射しているだけだ)
「きゅるる(……黙れ)」
プリムが小さく笑った。
「でも」
と、口を開く。
「……私を、見てた人がいたんだなって」
カレンが、眉を上げた。
「アルノー先輩って、不器用な人なんじゃないかな。なんだか無理してる感じがするし、少し子供っぽいというか」
「プリム……」
「怒ってるよ、ちゃんと。でも、それとは別に、ちょっと不思議だなって……」
カレンはしばらく黙ってから、呆れたような顔をした。
「……お人好しにも、ほどがあるわね。その場にいたら私が叩きのめしてたところよ!」
「そうかな?」
「そう。本当におめでたいわね……」
プリムが、ふふっと笑う。カレンも口の端だけ、わずかに上げた。
余は谷間の奥で、その会話を静かに聞いていた。
黄金豊穣の神乳と、銀光聖浄の乳酒。神話の中にしか在らぬはずの力が、この娘の胸の裏に宿っている。
1000年、世界中の力を見てきた余にすら、目の前の「この娘」の答えが出てこない。
(……この女は、いったい何者なのだ?)
答えは出なかった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。この娘のそばにいれば、いずれ余はその答えに辿り着く。
(利用するだけだ。それだけだ)
そう言い聞かせながら、余は谷間の奥へと深く潜り込んだ。
プリムの心臓の音が、すぐそこで聞こえた。ゆっくりと規則正しく。それはまるで、余の知らない何かを刻んでいるようだった。
余は、その音を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。




