魔王、少女の谷間を玉座とする
目を覚ますと、視界がまた白かった。
右も左も、ふわふわとした白い壁に挟み込まれている。核の正面には、虹色の光がうっすらと漏れていた。鼻先をくすぐるのは、甘くて気高い、あの香りだ。
プリムの谷間だった。
1000年、世界の半分を統べてきた暗黒竜エルガディス・レクス・スレイプニルが、人間の小娘の胸の谷間で、2日目の朝を迎えている。
(……我ながら、笑える状況だな)
ヴェルゼアは今ごろ、余が異世界の片隅で野垂れ死んだとでも思っていることだろう。だが、余はこうして生きている。それどころか、この谷間には、眠っているだけでも微かな魔力が絶えず滲んでいる。
そっと谷間から這い出して、眠るプリムの胸元を見やった。衣服の隙間から覗く胸の下。そこに刻まれた虹金級の星紋が、暗がりの中でもくっきりと見て取れる。
(……改めて、このアーティファクトの見極めを行う)
1000年の間、余は世界中のありとあらゆる魔力を見てきた。神々の遺物と言われる宝具、人間どものアーティファクト。
だが、このアーティファクトだけは分からない。この魔王の知識と経験をもってしても、正体が掴めない。
まず、右の紋様から流れ出す力。昨日、死に際に飲んだ、あのミルクの源だ。
あれは、回復の力だった。
ポーションはおろか、伝説級の秘薬エリクサーと比べても、この娘の乳の方が上だと断言できる。
羊に3度はね飛ばされ、核に罅が入り、器そのものが崩れかけていた余の体が、たった一口で満たされた。傷も、魔力も、器までも根こそぎ癒えた。
死んでさえいなければ、どんな傷でも戻せるのではないか。そう思わせるほどの、桁違いの力だった。
街で売っている回復薬など、せいぜい切り傷を塞ぐ程度のものだ。上等な品でも、致命傷を治すにはほど遠い。
(……これが、右の力か)
次に、左の紋様へ目を移す。
こちらは、質がまるで違った。回復ではない。もっと澄んだ、清らかな気配だ。
昨夜、プリムが料理へ数滴垂らしただけでも、部屋の空気に満ちていた微かな淀みが薄れた。
(穢れを祓う――浄化に近い力か)
(右で癒やし、左で祓う、か)
核を、ゆっくりと光らせる。
これがどれほどのものか、言葉にするのは難しい。ただひとつだけ、確かなことがあった。
(……1000年見てきたが、これに並ぶものを余は知らん)
あの《原初婚姻宮》とて、神話級の秘宝だったはずだ。それすら、この娘の力の前では見劣りする。それほどの代物だ。しかも、右と左、2つの力が別々に在る。
なぜ、この娘にこんな形で?
(……分からん。今はまだ、何も)
そこで、思考を止めた。手がかりが、足りなすぎる。
確かなのは、ただ一点だけだ。
(この女の力は、余にとって、とてつもなく有用な「資源」だ)
グレゴールへの復讐のため。再び魔王だった頃に匹敵するほどの力を取り戻すためにも、ここで朽ち果てるわけには、断じていかない。
「きゅるるっ……(……見ているがいいグレゴール……余が真の力を取り戻した時が、貴様の最後だ……)」
――そう、結論づけた。ギラリと、虚空を睨みつける。
「ん……むにゃ……黒ちゃん、おなか、すいた……?」
寝言だ。プリムが眠ったまま手を伸ばし、這い出して感傷に浸っていた余を探り当てて掴むと、また自分の谷間へ埋め戻した。
「ふにゃあ……おやすみ……」
「きゅるる……(……まあ、いい)」
とても温かく、やわらかかった。極上の羽毛に包まれても、ここまでではない。やはり至高の玉座だと確信して、余はされるがままになっていた。
その朝。プリムが起きたのは、6時前だった。
ランニングウェアに着替えながら、谷間の余をちらりと覗き込む。
「黒ちゃん、起きてる?」
「きゅるっ(……起きておる)」
「元気そうでよかった。じゃあ、今日も一緒に走ろうね」
余が返事をしたのか、ただ鳴いただけなのか――この女に区別がつくはずもない。ベビーの鳴き声に感情を乗せたところで、人間の耳には届かないのだ。
それでもプリムは、「元気そう」と勝手に解釈した。まあ――たまたま、合ってはいたが。
プリムは余を谷間に収めたまま、朝の街へ走り出した。ランニングから戻ると、汗を拭きながら台所に立った。
「問題はさ……ダンジョンで、どうするかなんだよね……」
余は谷間から、半分だけ顔を出して聞く。
「あのアーティファクト、配信中は使えないじゃん。みんなに見られてるのに、おっぱい出すわけにいかないし……」
(……何が問題なのだ?)
余には、その悩みの意味がよく分からなかった。乳を晒すことの何がそんなに困るというのか。人間の世界の決まりごとは、どうにも面倒くさい。
「でも昨日みたいに怪我した時、治療薬がないと困るし……どうしよう……」
プリムはしばらく眉根を寄せていたが、ふと何か思いついたように棚から小瓶を数本取り出した。元々は傷薬の入っていた空き瓶を洗い始める。
「ねえ黒ちゃん。昨日、瓶に入れといたやつって役に立ったでしょ?」
「きゅるっ(……役に立った。それは認める)」
「だからさ、また作っとこうかなって。持ち運べるし。ポーション買わなくて済むもんね」
洗い終えた空き瓶をいくつかテーブルに並べる。それから、豪快にTシャツを脱ぐと、小声で「アーティア」と唱えた。
虹色の光がわずかに滲む。先端から、一滴、また一滴と、右胸の黄金に輝くミルクが小瓶を満たしていく。左胸からは、銀色に輝くとろりとした液体が小瓶に溜まる。
プリムは右と左の液体を50mLの小瓶にそれぞれ2本ずつ採り、きっちりと蓋を閉めてポーチへしまった。
「よし。これで何本かは確保」
(……ポーション代わり、と言ったか?)
余は谷間の奥で、静かに呆れた。
ポーションといえば、せいぜい軽い切り傷や擦り傷を塞ぐだけの安物だ。こっちの世界がどの程度か知らぬが、街で売っているものなど、気休めにもならないだろう。
それと、あのふざけた効果のミルクを――同列に語っている。
(……ポーションどころの話ではない。伝説級の秘薬エリクサーですら、あれの足元にも及ばん……)
神々の霊薬を「ポーション代わり」と言ってのける娘の谷間が、いまは余の玉座である。
出かける前、プリムはリュックを背負いながら、窓の外を眺めた。
「よし。今日も、がんばろ」
商店街に出ると、もう人の波ができていた。パン屋の焼きたての匂い。露店が並ぶ路地から、威勢のいい呼び声が飛んでくる。
「さあさあ、見ていきな! 探し人が必ず見つかる、魔導ペンデュラム! 本物の魔力結晶を使った、一点限りの代物だよ!」
プリムの足が、止まった。
谷間から半身を乗り出した余は、声のした方を見た。石畳の隅に張り出された、小さな露店。
薄汚れた帽子を目深に被った男が、木製のスタンドに下げた振り子を、にやにやしながら揺らしている。
「行方不明の家族、消えた恋人、迷子のペット――ご入用の方はいませんかね。このペンデュラムを、一度でも持ち主の縁者に向ければ、それはもう磁石みてえに引き寄せられる。探索者の方には、とびきりのお守りになりますよ~」
振り子の先端には、薄く赤みがかった石が揺れていた。それなりに大きく、形も整っていて、一見それらしく見える。
プリムが、じりじりと露店に近づいていく。
「……お姉ちゃんを探すための手がかりとして、使えないかな?」
その声は、商店街の喧騒に紛れるほど小さかった。けれど、余には聞こえた。
「きゅる……(……姉、か)」
余は一瞬だけ、動きを止めた。
余は谷間の中から飛び出し、プリムの肩に乗って、件の振り子を観察した。
(……なんだ、あれは)
1秒かからなかった。
(……術式がない)
魔力の偽装ですらない。偽物を本物に見せる努力さえしていない、ただの詐欺だった。石そのものには、自然の魔素がごく微量に含まれている。だが、それだけだ。波長を読み取る機能も、方向を示す仕組みもない。ただの天然石だろう。
(飾りとしても、二束三文の品だな)
「いらっしゃいませ、お嬢さん! おっ、かわいい黒い生き物を連れてるね。もしかして使い魔ですか? お目が高い、こちらの品はですね――」
「きゅるるるっ(……馬鹿者が)」
「あ、黒ちゃん、なんで怒ってるの? ちょっと見てみたいんだけど」
余は体の一部を小さな触手のように伸ばし、プリムの頬をぺちぺちと叩いた。
「いたっ、なに?」
「きゅるっ、きゅるるっ(……止まれ。その石はただの飾りだ)」
伝わらないのは分かっていた。それでも余は、念を込めて、もう一度叩いた。
「……黒ちゃんが嫌がってる?」
プリムが、首を傾ける。
露天商の方を向き、威嚇するように鳴いた。
「きゅるぅきゅるる……(……偽物だ。近づくな、この娘に……)」
「あー……うん、なんか、黒ちゃんが気に入らないみたいだから……」
「はっはっは、動物は敏感ですからね! でも大丈夫、この石は純正の――」
「きゅるっ!(……余が1000年、玉座に君臨していたのは伊達ではないぞ)」
余は露天商の顔を、まっすぐ睨みつけた。
右胸のミルクにより満たされた強大な魔力をわずかに解放して威圧する。
男の表情が、わずかに引きつる。
「……あー、えっと。ちょっと他も見てみようかな……」
プリムが、ぽつりと言って引き返し始めた。
「お、おい、お嬢さん! 今なら特別に半額で――」
「きゅるっ(……黙れ)」
余は肩の上で、ぴしゃりと一鳴きした。そのまま男は口をつぐんだ。
路地を抜けると、プリムが苦笑いを浮かべながら余を見た。
「黒ちゃん、あれ、ダメだった?」
「きゅる(……そういうことだ)」
「はぁ……偽物、だったのかな」
余は答えない。だが、プリムは少し間を置いてから、ふっと笑った。
「ま、黒ちゃんが嫌がるなら、やめとく。なんか信用できる気がするし」
(……利口になってきたではないか)
余は肩の上で、核を小さく光らせた。
褒めてやったわけではない。ただ――馬鹿な買い物をせずに済んで、資源の無駄遣いが防げた。それだけのことだ。
そういうことにしておく。
余は肩から滑り降り、定位置となりつつある谷間の奥へ戻った。
プリムの足音が、商店街の朝の喧騒に溶けていく。
谷間の奥で赤黒い核が、静かに、けれど確かに燃えていた。




