魔王、胸に居座りうちの子になる
翌朝も、5時半に目が覚めた。
プリムはランニングシューズの紐を結び直し、いつもの外周コースではなく、河川敷の方へ走り出した。昨日、学院を出ることになったため、外周コースやトレーニングルームはもう使えない。
だからといって、走るのをやめる理由にはならない。
探索者は、体が資本だ。1日休めば、その分だけ命が削れる。たとえ気持ちが沈んでいても、体だけは常に動かし続けるしかない。
街の空気は白く、足音だけが響いていた。走りながら、これから先のことを考える。
走り終える頃には、今日やることだけは決まっていた。
生活費を稼ぐために、ダンジョンへ潜る。まずは、そこからだ。
ダンジョンの入口で、鉄級ライセンスを見せて手続きを済ませ、受付からテールドローンを受け取った。
「ミスティック社の『ミストチューブ』に、リアルタイムで配信されます。プライベートモードを使えば5分間だけ配信を停止できます。ただし、使用後30分間は再使用できません」
学院で習った通りだ。テールドローンによる常時配信。ダンジョン黎明期にダンジョン犯罪が横行したための制度だという。
ほとんど監視社会みたいになったおかげで、今ではダンジョン犯罪はかなり減ったらしい。
(ずっと配信され続けるの、辛いなぁ……)
胸を晒さなければ使えないアーティファクトを持つ自分には、致命的すぎる仕様だった。けれど、いまはそれを気にしている場合ではない。
貯金は残り少ない。稼がなければ、明日の食事にも困る。
テールドローンが、尻尾みたいにひょこひょこと揺れながら、カメラをこちらへ向けてくる。同接数を確かめると、ゼロだった。今日は、誰も見ていない。
(よかった。練習日だと思おう)
プリムはダンジョンへ足を踏み入れた。
1階層から3階層までは、できるだけ魔物を避けて進んだ。魔石の買取価格は、深い階層ほど高い。浅いところの魔物は、倒したところで二束三文だ。体力を温存して、稼げる階層で稼ぐ――学院に叩き込まれたセオリーだった。
ホーンラットが通路を横切れば、壁際に張りついてやり過ごす。ウルフが前方にいれば、別の道を選ぶ。時間はかかるが、消耗はしない。
(3階層の薬草なら、ギルドが買い取ってくれる。ミルキーシープの魔石も、鉄級が狙える範囲では買取額が高い)
ミルキーシープは、3階層の固有種だ。「初心者には厳しい相手」と教わっていた。あの体重と突進を受け止めるには、それなりの覚悟がいる。
(できれば討伐したい。でも、無理はしないように)
3階層への階段を降りると、空気が少し変わった。薬草の青くさい匂いが、ふわりと広がる。
しゃがんで薬草を摘み始めて、しばらく経った頃だった。
「メェー……」
鈍い鳴き声が、通路の奥から聞こえた。
顔を上げる。ミルキーシープが1匹、のんびりと草を食んでいた。その足元に、もう一匹――いや、違う。
(……なに、あれ)
小さかった。プリムの手のひらにも収まってしまうほどの、黒い塊だ。それが、ミルキーシープの足元で、ぷるぷると震えながら立ち上がろうとしていた。
立ち上がろうと、必死にもがいていた。すでにぼろぼろで、体の核にひびが入って、いまにも消えそうで――それでも、諦めていない。
(ベビースライム……?)
息を呑んだ。
ベビースライムなんて、めったに見ない。確か、学院でそう習った。スライムに限らず、ベビー属性の魔物は親に守られているか、さもなくば自然に淘汰される。それが、ダンジョンの掟だと教わった。
なのに、この子は――たった1匹で、自分の何倍もあるミルキーシープに、突撃を繰り返している。
(どうして、そんな……)
ミルキーシープが鼻を鳴らし、また前足を振り上げた。
「危ないっ!」
気づいたときには、走り出していた。
二匹の間に滑り込んで、小さな黒い塊を背中に庇う。振り上げられていた前足が、庇った肩を掠めた。
「っ」
布が裂け、じわりと熱い。それでもプリムは倒れなかった。肩を押さえながら前を向き、腰から短剣を引き抜く。
「弱い者いじめ、めっ! だよ!」
手は震えていた。膝も、たぶん笑っている。それでも構えた。
「これ以上、この子に近づかないで!」
(戦う。倒せるか分からないけど、私がこの子を守ってみせる。やるしかない!)
1頭だけなら、ぎりぎり戦える相手だ。学院の実戦訓練で、何度も頭の中で組み立てた。突進の瞬間に横へ逃げて、側面から刃を入れる。
来た。
ミルキーシープが体当たりを仕掛けてくる。間一髪、プリムは左へ跳んで避けた。ギリギリ間に合い、側面に短剣で斬りつける。
手応えはあった。だが、ミルキーシープは怯みもしなかった。
(硬い……!)
皮と脂の層が、分厚い。授業で聞いた通り、仕留めるには頭か首の付け根を狙うしかない。
ミルキーシープが向き直り、今度は頭を低く下げて突っ込んできた。
「っ――」
右へ跳ぶ。が、今度は躱しきれず、角の先が脇腹をかすめた。小さな体が、壁まで弾き飛ばされる。息が詰まった。
(痛い……でも、まだ動ける)
背後で、ベビースライムが震えていた。逃げてと言いたいが、あの様子では、それも無理だ。
(私が負けたら、あの子も死んでしまう……それだけは、譲れない!)
立ち上がろうとして、脇腹に鈍い痛みが走る。
(まずい。このままじゃ――)
プリムはポーチを探った。念のため昨夜の右胸のミルクを小瓶に詰めて持ってきていた。傷口に塗れば、多少は効くかもしれない。
小瓶を取り出した、その瞬間。ミルキーシープが、また突進してきた。
避けようとしたが、間に合わない。
体当たりを受けて、プリムは床に転がされた。短剣だけは、なんとか握りしめる。手からこぼれた小瓶が、床に叩きつけられ、砕け散った。
床に飛び散った黄金色のミルクから、濃密な魔力の匂いが立ち上った。
その瞬間――ミルキーシープの動きが、止まった。
鼻をひくつかせる。一度、二度。大きな瞳が、床に飛び散った黄金色のミルクのほうへ向いた。
恐れていた。
100キロを超える羊型の魔物が、床に広がったその匂いに、確かに怯えていた。
一歩、大きく下がる。さらにもう一歩。鼻を大きく鳴らすと、ミルキーシープは踵を返し、のそのそと通路の奥へ消えていった。
「……え?」
プリムは呆然と、その背中を見送った。
砕けた小瓶に目をやる。あの液体が何をしたのか、まるで見当がつかなかったが、どうやら助かったらしい。
脇腹を押さえながら、プリムはベビースライムに歩み寄った。
ぼろぼろだった。ひびの入った核と黒いゲル状の体が、地面に転がったまま、まだ小刻みに震えている。
「大丈夫?」
しゃがんで、両手でそっと抱き上げる。温かかった。
(小瓶は、全部割れちゃった。でも――)
そこで、自分のアーティファクトのことを思い出した。
壁際にしゃがみ直して、ベビースライムを改めて見つめる。
形はしずく型だろうか。下がぷにっと丸くて、上が少し尖っている。漆黒の体は深い色合いで、光の角度によって、かすかな艶が見えた。
頭のてっぺんに、小さな角がちょこんと生えている。まだ柔らかそうな、子どもの角だ。背中には、未成熟な小さな翼が張りついていて、短い尻尾が、ぴくぴくと揺れていた。
(スライムって、こんな見た目だっけ……?)
首をかしげる。学院で習ったスライムとは、何かが違う。角がある。翼がある。尻尾もある。これを、スライムと呼んでいいのだろうか。
そして一番引っかかったのは、体の中で揺れている、赤黒い核だった。透き通った漆黒の体ごしに、宝石のようなものが、ぼんやり光っている。いまは暗い赤に近いが、見ているうちに、何かに反応してわずかに色を変えているような気がした。
(……可愛い……)
その核を、じっと見つめる。
傷だらけで、いまにも消えてしまいそうなのに、それでも諦めなかった。赤黒い核が、まだ必死にこちらを見つめているように思えた。
ふと、テールドローンのカメラが、こちらを向いているのに気づいた。
(誰か、見てるかな)
同接数を確かめる。3人。
『新人?』
『ん?ベビースライム……?』
『風の通り道:黒い……角や翼? 変異種のベビースライム?』
(3人か)
少ない。でも、ゼロじゃない。
プリムは少し迷ってから、ベビースライムを抱えたまま、辺りを見回して安全を確かめると、岩陰に入った。
追ってくるテールドローンを手で遮る。
「テールドローン、プライベートモード。お願い」
『探索者プリム・ミルクホワイト――プライベートモードを開始します。残り5分』
カメラの赤いランプが、ふつりと消えた。
(ベビー属性の子は、ミルクじゃないと栄養にできない。このまま街へ戻っていたら、間に合わないかもしれない)
「ちょっとだけ、待っててね」
小声で囁いて、胸当てを外す。続いて胸元のボタンを外し、下着をずらして胸をはだけさせた。それから、胸の下に指先を当てた。
「アーティア……っ」
虹色の光が、弾けた。
顕現した輝く双丘の先端から、一滴、また一滴と、黄金色のミルクが滲み出してくる。
羞恥で顔が熱い。でも、いまはそんなことより、腕の中の命のほうが大事だった。
「ほうら、よちよち。たんと、お飲み?」
赤ん坊をあやすような声が、自然と口をついて出た。
その瞬間、ベビースライムの体が、びくんと震えた。
うっすらと、目が開く。赤黒い核が、ぼんやりと光った。
何か激しいものが伝わってきた気がした。プライドや葛藤と、抗いきれない本能とが、ほんの一瞬せめぎ合って――そして、スライムは我を忘れたように、プリムの先端へ吸いついた。
「ん……っ、ふふ……やだ、可愛い……」
先端に吸いついたまま、子猫みたいに夢中でミルクを飲んでいる。その感触が、胸に伝わってくる。ぷるぷるの体が必死に飲む様子を見ていると、胸の奥から、言葉にならない愛おしさが込み上げてきた。
そのとき、肩の傷がずきりと痛んだ。プリムはベビースライムがこぼした黄金の雫を指ですくい、傷口へそっと塗り込む。すると、焼けるようだった痛みがすっと引いた。
やがて、ベビースライムは満腹になると、そのまま張り付いた状態で、すやすやと眠り込んだ。
「ふふっ。お腹いっぱいになったね」
小さな頭を、人差し指でそっと撫でる。角の感触が、柔らかかった。
眠り込んだスライムを谷間の奥へそっと収め、下着と服を元に戻す。ちょうどそのとき、プライベートモードの終了を告げる音が鳴った。
薬草はそこそこ採れたし、ミルキーシープは討伐できなかったが、それでも今日はこれでいいと思えた。プリムは谷間の小さな温もりを気にしながら、帰路についた。
アパートに戻ってから、プリムはベビースライムを手のひらに乗せて、もう一度しげしげと眺めた。
漆黒の、しずく型の体。小さな角。小さな翼。短い尻尾。体の中で、かすかに光る赤黒い核。
「うーん、名前、どうしようかな」
その言葉を聞いた途端、眠っていたスライムが、むにゃりと動いた。核がぱっと明るくなって、ぷるぷる震えている。
(なんか、言いたそうだけど?)
気配だけは、なんとなく伝わってきた。
「とりあえず、黒ちゃんって呼んでいい?」
スライムが、また大きく震えた。核が激しく明滅する。
「照れてる?」
くすっと笑う。
「よし、黒ちゃんね。……でもさ」
プリムは、スライムの全身をじっくり見回した。角。翼。尻尾。体の中の核。
「あなた、本当にスライムなの? なんか、全然スライムっぽくないんだけど」
スライムが、ぴたりと止まった。
小さな角に、指先で触れてみる。
「これ、角だよね? スライムに角なんて、あったっけ……」
スライムは、動かない。核の色が、赤黒からほんの少しだけ、紫がかった気がした。怒っているのか、照れているのかは、分からない。
「まあ、いいか」
プリムは笑った。
「なに者でも、うちの子だしね」
その夜も、台所に立った。
今日採ってきた形の悪い薬草と、冷蔵庫の残り物、それに固くなったご飯。そこに、昨夜と同じように右胸の黄金に光るミルクを少しと、左胸の銀色に輝く液体を料理酒代わりに数滴。
できたのは、シンプルな薬草粥――のはずだった。
「……また、なんでこんなに美味しいんだろ? 料理を美味しくする効果でもあるのかな?」
一口すすって、思わず呟く。昨日と同じく、材料の質と料理の出来上がりの味が、まるで噛み合っていない。体に染み渡る温かさと、旨み。
黒ちゃんには、抱っこして直接ミルクを飲ませる。おっぱいにくっつけると、相変わらず何やら葛藤した後、結局ミルクを嬉しそうに飲み干すのが可愛い。
お腹がいっぱいになると、核をじんわりと光らせ、また眠りに落ちた。
「よかった……」
その夜、プリムは不思議なくらい、よく眠れた。
翌朝。いつも通りの時間にランニングシューズを履く。胸元では、小さな黒いスライムが寝息を立てていた。
谷間の奥に収まって、核をぼんやりと光らせながら。
(今日も走ろう。薬草も採りに行こう!)
扉を開けると、朝の空気が冷たかった。
黄金色のミルクを塗っていない脇腹の傷まで、もう痛まなくなっていることに、プリムはまだ気づいていない。
今はまだ――ただの朝だった。




