星紋はおっぱいの裏に宿る
――黒いベビースライムを拾う、前日の朝。
朝の5時半、プリムは学院の外周コースを走っていた。
探索者を目指す者にとって、朝の走り込みは義務のようなものだ。体力がなければ、ダンジョンでは簡単に死ぬ。前衛だろうと後衛だろうと、体力がなければ逃げることさえできない。
入学初日に教官から言われた言葉を、プリムは今でも覚えている。
「サボった奴から順に死ぬぞ」
脅しではなく、ただの事実として、淡々とそう告げられた。
だから学院生はみんな鍛える。真面目にコツコツ積み重ねていけば、1年も経つ頃には、みんな揃って引き締まった体つきになる。プリムもそのひとりだ。
(今日は、1年間の成果が出る日だ)
白い息を吐きながら前を見据える。景色が後ろへ流れていき、喉に刺さる朝の冷気がいつもより鋭く感じられた。
1年間、毎日ここを走ってきた。入学後の1年間は基礎課程だ。体力訓練、座学、基礎戦闘――全員が同じ授業を受ける。
それを修了すると、正式な星紋検査を受ける。その日が、今日だった。
コースの終わりに差しかかったとき、ギルドの受付制服を着た、茶色いショートボブの女性とすれ違った。
小さな段ボール箱を小脇に抱え、早足で学院の門をくぐっていく。すれ違いざまにふと目が合った。
「あ……おはようございます」
「おはようございます、プリムさん。毎朝頑張っていますね。私はいつも応援していますよ」
女性はにこりと笑って、そのまま校舎へ消えていった。
ギルドから派遣されている座学講師のミナ先生だ。探索者制度やライセンスの授業で、何度か質問に答えてもらったことがある。
こんな朝早くに、何の用だったんだろう。首をかしげながら、プリムは寮への道を戻った。
*
――そして、数時間後。
「プリム・ミルクホワイト」
名前を呼ばれて、心臓がひとつ跳ねた。
星紋検査室のカーテンで仕切られた個室。検査用の薄い下着姿のプリムは、両手をきつく握りしめていた。
2年前、姉のサクラは、40階層の境界門付近で消息を絶った。白金級まで上り詰めた、プリムにとって誰よりも強くて眩しい姉だ。
そんな姉が、なぜ帰ってこないのか。誰も教えてくれなかった。手がかりひとつ、掴めていない。
(お姉ちゃんは、絶対にどこかで生きてる!)
もともと、探索者にはなりたかった。姉の背中を追いかけて、いつか同じ場所に立ちたいと思っていた。
けれど、2年前にサクラが消えてから、その夢は目的に変わった。40階層まで潜って、お姉ちゃんを探し出す。この1年、ずっと走って、鍛えて、勉強して――ただそのためだけに過ごしてきた。
隣の個室から、はしゃいだ声が漏れてくる。
「やりましたわ、銀級です!」
「いいなあ。私、銅級だった……」
(私は、何級だろう? できれば銀級くらいは欲しいなぁ)
発現するアーティファクトの種類は千差万別だ。できれば戦闘型がいいけど、星紋の出現位置である程度決まるらしい。
学院検査では、あくまで通常確認できる範囲を調べる。検査用の薄い下着に着替えるのは恥ずかしかったが、下着の内側までは確認しない。星紋は普通、そんな場所には出ないからだ。
女性の検査官が入ってきて、小さな瓶を差し出した。
プリムは小瓶を受け取り、中身を飲み干す。
星紋活性薬。眠っているアーティファクトを一時的に刺激し、初回顕現を助けるための高価な薬だ。効果はおよそ24時間。学院でも、この正式検査の一度にしか使われない。
ここで星紋が確認できた者は、探索者養成課程へ進む。確認できなかった者は、進めない。
「では、起動語を」
「アーティア……っ」
プリムは、言われた通りに唱えた。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった気がした。けれど、検査官が確認している範囲には、どこにも光は浮かばなかった。
それから、淡々と全身を確かめ始める。腕、脚、肩、胸元、腹、背中、首筋、太もも裏。指先が、丁寧に肌をなぞっていく。
その手つきが、だんだん、遅くなっていった。
「……」
沈黙が、やけに長い。
「珍しいですね。魔力反応はありますが――通常確認できる範囲には、星紋がありませんね」
「……え?」
「残念ですが、養成課程への進級は認められません。基礎課程の修了は認定しますが、探索者ライセンスは鉄級のみとなります。寮についても、養成課程の生徒のための施設ですので、今月末までに退去をお願いします」
その一言で、すべてが終わった。
「……はい」
「学院側で、退去後の住居についていくつかご案内を用意しています。毎年こういった事例がありますので、学院提携の物件をいくつか押さえてあります。ご希望であれば、紹介します」
「……お願いします」
1枚の紙を差し出された。物件のリストだ。一番上に「即入居可」と書いてある。プリムは、それを選んだ。
手続きを終え、プリムは長い廊下をとぼとぼと歩いた。足音を、なぜか数えていた。そうでもしていないと、別のことを考えてしまいそうだったから。
(10階層じゃ……全然届かない)
姉が消息を絶ったのは、40階層の境界門だ。10階層までしか潜れない鉄級ライセンスでは、一生かかっても辿り着けない。1年間、このためだけに頑張ってきたのに――いったい何のために。
「見たか? ミルクホワイトのやつ、せっかく姫にしてやると言ったのに。姫候補だったら例え無印でも俺は見捨てなかったのだがな。やはり、姫の器ではなかったか」
曲がり角から、聞き覚えのある声がした。
アルノー・ヴァリエール。金髪に赤い目の商家の御曹司だ。1年前に廊下でぶつかったときに「俺の姫にしてやる」と言ってきた、あの先輩だった。
「まあ、所詮はそういう女だったってことだろ」
取り巻きの笑い声が、廊下に響く。
プリムは、足を止めなかった。止めたら、たぶん泣いてしまいそうだったから。
寮は今月末まで使えたが、プリムはその日のうちに退去した。あの場所に残っていたら、足が止まってしまいそうだったから。
「即入居可」の引っ越し先は、街外れの商店街の裏通りの安アパートだった。家賃は3万円で壁は薄く、築年数はいろいろと察してしまうほど古い部屋だった。
少ない荷物を床に下ろして、プリムはしばらく、ぼんやりと立っていた。
……めげちゃ、だめだ。両頬をパシッと叩いて、気合を入れ直す。
「よしっ!」
声に出してみると、ほんの少しだけ前を向けた気がした。
鉄級でも、10階層までは潜れる。生活費くらいは稼げるし、鍛えればもっと強くなれる。走るのも、筋トレも続けて、いつか必ず姉を見つけ出すだけだ。何ひとつ、諦める必要なんてない。
夕方の筋トレを終えてから、プリムは狭いユニットバスで、その日の汗を流した。
「ん……?」
視界の隅で、何かが光った気がした。
湯気で曇った鏡を、手のひらで拭う。腕。肩。腹。太もも。どこにも、光るものなんてない。
(気のせいだったかな? 鏡に光が映った気がしたんだけど……)
電球が切れかけて薄暗いせいだろうか。そう思いかけて――ふと、気づいた。胸の裏側は、自分では確認できない。
なんとなく、両手で胸を下から持ち上げてみる。
「――えっ!?」
鏡の中で、何かが光っていた。
膨らみの真裏、アンダーバストの隠れた境目。右胸の裏にも、左胸の裏にも、それぞれ別の紋様が、きらきらと明滅している。
しかも、左右で紋様の形が違う。星紋が二つある人間など、授業でも聞いたことがなかった。
「こんなところに……あの検査方法で見つかるわけないじゃん……!」
風呂を飛び出して、バスタオルを羽織り、手鏡を手に取る。もう一度、おそるおそる胸を持ち上げ、覗き込んだ。
金でもない。銀でもない。まして、銅や鉄でもない。
虹色だった。
「……虹色?」
目を見開いた。虹色のランク。確か授業で、ちらっと聞いた覚えがある。鉄、銅、銀、金、と段階があって、その最上位に――虹金級というのが、あったはずだ。
幻のランク。実物を見たことがあるという教師は、一人もいなかった。
「……もしかして私、とんでもないやつ持ってる?」
じわじわと、実感が滲み出してくる。
「すごい! 私、すごいの持ってたんじゃん!」
声が出た。さっきまでの暗い気分が、音を立てて塗り替わっていく。
「これで、もっと上の探索者になれる。お姉ちゃんにも、近づける――!」
ごくりと唾を飲み、星紋に指先で触れ、教わった起動語を口にした。
「アーティア……っ」
弾けるような光が、爆ぜた。
眩しさに細めていた目を、そっと開ける。
固まった。
「…………へ?」
現れたのは、剣でも杖でも盾でもなかった。バスタオルを押し退けて顕現していたのは――光り輝く、自分の胸そのものだった。
いつもより二回りほど膨らんで、肌の下に虹色の魔力のラインが、血管のようにうっすらと走っている。神々しいのに、まるでLEDでライトアップされてるみたいで……いかがわしかった。
「……な、なにこれ……」
しばらく、言葉が出てこなかった。
「虹色って、すごいランクだったはずじゃ……」
沈黙。
「…………光り輝くおっぱい、か」
がっくりと、うなだれた。
「これでどうやって戦えって言うのよ……もう!」
しかも、発動するたびに胸を晒すことになる。人前で使えば、敵より先に社会的に死にそうだ。
とはいえ、どんな能力なのかは気になった。そっと胸に触れ、軽く揉んでみると、先端から黄金に輝くミルクが溢れてきた。
おそるおそる、指先でミルクをすくって舐めてみる。
(……あ、甘い)
甘いというより、おかしいくらい美味しかった。それだけではない。引っ越しの疲れや筋トレの疲労が、舐めた瞬間にすっと抜けた。体の奥から、じんわりと熱が湧いてくる。
(なにこれ、すごい)
今度は、左の胸をゆっくり揉んでみる。とろりとした銀色に輝く液体が滴り、ツンと芳醇な香りが鼻をついた。
こちらも、指先で舐めてみる。
(……っ、お酒の味?)
舌がぴりっとしたけれど、それだけではない。飲み下した瞬間、体の奥に溜まっていた淀んだ重たさが、すっと抜けていく感じがした。1日の疲れとも違う、もっと内側の、こびりついた何かが洗い流されたみたいに。
「お酒……? 私、まだ飲める年齢じゃないんだけど……そもそもお酒扱いになるのかなぁ?」
少し考えて、思いつく。
「……料理酒として、料理に使えばいいか」
その夜、プリムは台所に立った。
引っ越し荷物に紛れていた乾麺と、乾燥わかめ。そこに、右胸の黄金に輝くミルクをほんの少しと、左胸の銀色に輝く液体を料理酒代わりに数滴垂らす。
できたのは、ただの貧しいインスタントラーメンのはずだった。
「……」
一口すすって、プリムの手が止まった。
美味しい。美味しいという言葉では追いつかないくらいだった。材料の貧しさと、まるで釣り合わないくらい温かくて、体の芯まで染み込んでくる。
「なにこれ……」
食べ進めるほどに体が軽くなっていく。まだ僅かに残っていた引っ越しの疲れも消えて、気づいたら鍋は空になっていた。
疲れが抜けただけではない。走り込みで張っていた脚の奥に、まだもう少し動けそうな余力が戻っている。
「……美味しかった」
ぽつりと呟いて、プリムは笑った。今日になって、初めての本物の笑顔だった。
洗い物を済ませ、狭いベッドに潜り込む。見慣れない天井を見上げながら、今日一日のことを思い返した。
朝までは、学院生だった。姉を追いかけて、いつか40階層まで潜るのだと信じていた。それが検査で星紋を見つけてもらえなかっただけで、寮を出て、こんな街外れの部屋にいる。
けれど、その胸の裏には、誰も見つけられなかった虹色の星紋が輝いている。
明日からどうするかは、まだ何も決まっていない。お金もないし、ダンジョンに潜ってどれだけ戦えるかも分からない。それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
(進める。少しずつでも、ちゃんとお姉ちゃんに近づける!)
お姉ちゃんの背中が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
それだけを胸に抱きしめて、プリムは目を閉じた。妙に満ち足りた気分のまま、すぐに眠りへ落ちていった。




