魔王、おっぱいに拾われる
あの裂け目から放り出された余は、見知らぬダンジョンの床へ叩きつけられ、しばらく動けなかった。
ぷるぷると震える体を、なんとか起こす。冷たい岩肌。見知らぬ燐光。ここがどこかも分からぬまま、余はしばらく、当てもなく通路をさまよった。
(……ヴェルゼア)
考えるほどに、分からなくなる。ヴェルゼアは、いつから壊れていたのか。数百年、傍にいて、何一つ気づけなかったというのか。
いや――違う。薄々、気づいてはいたのだ。忠誠にしては、少し重すぎる視線があったことも。それを、見ないふりをしていたのは、余自身だ。
(……グレゴール)
あの男の名を思い出した瞬間、腹の底で何かが冷たく凝った。
宰相グレゴール・ザハーク。ヴェルゼアへ《原初婚姻宮》を渡し、余との願いを叶える品だと吹き込んだ男。
有能だが腹黒く、権力に固執する小物だとばかり思っていた。だが、なぜあの男が、失われたはずの古代秘宝を持っていた。なぜ、それをヴェルゼアへ渡した。
(……そういえば)
あの男が最近、古代の遺跡から大量の秘宝を手に入れていた、という報告を受けた覚えがある。あの時は、些事として聞き流していた。
(……あれか)
(……あの男が、ヴェルゼアの想いに目をつけたのか。数百年分の忠誠と恋情を煽り、秘宝を使わせた――そう考えれば辻褄は合う)
(……唆したのか、貴様)
「きゅるる……(……余を狙うなら、余に来ればよいものを。ヴェルゼアの想いを利用するなど……許さん。必ずこの手で、報いを受けさせてやる……)」
誓いを立てたところで、今の余には牙も爪も、ろくに動かぬこの体しかない。それでも、口にせずにはいられなかった。
そこまで考えたところで、腹の奥から、鈍い痛みが込み上げてきた。
「きゅるっ……きゅるるっ……(はぁ、はぁ……っ。なんなのだ、この凄まじい飢餓感は……!)」
これが、ベビーという属性の地獄だった。数時間も経てば、内臓を握り潰されるような飢えが来る。肉も野菜も受け付けず、乳でなければこの体は満たされない。
愚痴っている場合ではない。ここに満ちる魔力の濃度からして、ダンジョンの浅層だろう。
そう判断した矢先、視界の端で何かが草を食んでいた。
羊型の魔物。ミルキーシープという、浅層にいるおとなしい種だ。体高は今の余の10倍はあるが、見方を変えれば――歩く食料だ。あの羊の乳を奪えれば、生き延びられる。
「きゅる、きゅるっ!(覚悟せよ羊! その乳、余が頂戴する!)」
余は、真正面から突っ込んだ。我ながら、雄々しい突撃だったと思う。
「メェ?」
羊は、足元で跳ねる黒い何かを不思議そうに見下ろした。
そして前足で、ひょいと蹴り上げた。
「きゅるっ!?」
天と地がひっくり返り、余は岩陰まで転がっていった。
(……正面からは、無謀だったか。ならば次は、横から回り込む!)
起き上がり、左へ回り込む。脚の付け根に食いつければ――そう考えて、低く飛び込んだ。まだ成竜になりたての頃、巨人種を相手にした時の要領だ。懐に潜り込めさえすれば、図体の差は関係なくなる。
はずだった。
羊の後ろ足が、横に振れた。狙ったわけではないらしい。羊にとっては、ただの身じろぎだろう。しかし、たったそれだけで、余は宙を舞った。
「きゅる……」
壁にぶつかり、再び転がる。
(……たかが羊の身じろぎ如きに、2度も弾かれるとは。……ありえん)
それでも、諦めるという選択肢は余の中になかった。今度は岩の上へ這い上がり、羊の頭の真上を取る。
目だ。攻撃力がカスでも、目さえ突ければ悶絶させられる。その隙に、乳を頂く。完璧な作戦だ。
「きゅるるっ……!(いくぞ!)」
飛んだ。
羊の目を狙い、体を杭のように変形させて突きを繰り出す。
(貰ったぞ!)
勝利を確信したその時、羊が頭をぶるりと振った。
たったそれだけのこと。耳に止まった虫を払うような、何気ない仕草。
それだけで余の体は弾かれ、また地面に落ちた。
「きゅるっ……」
仰向けのまま、余は天井を睨んだ。だが、どうにもならない。
かつては、こんな羊など、視界に入れるだけで消し炭にできた。それが今は、3度はね飛ばされて、起き上がることすらできずにいる。
怒りより先に、目の前がぐらぐらと揺れ始めた。
まだ幼竜だった頃に、何度か感じた死の気配。それが、色濃くなってゆく。
(……まだだ。こんなところで、終われるものか)
体は、もう言うことを聞かなかった。それでも、意識だけは手放すまいと、余は歯を食いしばるように核を灼いた。グレゴールに一矢報いるまで、死ぬわけにはいかぬ。
まぶたが重い。もがいても、もはや立ち上がる力は残っていなかった。
「危ないっ!」
声が、聞こえた。
高い、女の声。鈴のような、と言えば聞こえはいいが、少し幼く聞こえる声だった。
羊が前足を振り上げているのが、ぼんやりと見える。その前足と余のあいだに、誰かが割り込んできた。
小さな影が、余をかばうように、背を向けて立つ。
羊の前足が、その肩を掠めた。
「っ」
短く息を呑み、影がよろめく。
(……かばった、だと)
見も知らぬ人間が、見も知らぬ余のために、勝手に体を張っている。なぜだ。理由が、まるで思い当たらない。
影は、倒れなかった。肩を押さえながら、それでも前を向き、腰から短剣を1本抜いて構えた。
「弱い者いじめ、めっ! だよ!」
(……めっ、とは何だ)
手は震え、膝も笑っている。
それでも、構えた。
「これ以上、この子に近づかないで!」
羊が鼻を鳴らし、こんな小娘、と言わんばかりに頭を低くして突っ込んでいく。
影が左へ跳び、すれ違いざまに側面へ斬りつけた。手応えはあったようだが、羊の厚い皮を突破できずに終わる。
羊が向き直り、再び突進してくる。今度は、避けきれなかった。角の先が影の脇腹をかすめ、その小さな体が、壁まで弾き飛ばされる。
(……無茶を)
それでも、影はすぐに腰のポーチを探った。小瓶を取り出した、その刹那――追撃の体当たりを受け、床へ転がる。手からこぼれ落ちた小瓶が、床に叩きつけられて砕けた。
瓶の中の液体が、飛び散る。
その瞬間だった。突進しようとしていた羊が、ぴたりと足を止めた。
鼻をひくつかせた大きな目が、地面に飛び散った液体のほうを見る。
そして――後ずさった。
100キロを優に超える羊型の魔物が、床に散った液体の匂いを嗅いだだけで、明らかに怯えていた。一歩、また一歩と退き、やがて踵を返すと、ダンジョンの奥へ去っていく。
(……何だ、今のは)
余には、まるで意味が分からなかった。ただ、飛び散った液体から立ちのぼる魔力の気配に、余の核がわずかに疼いた。
枯れた命すら強引に満たしてしまいそうな、濃密すぎる生命の気配。たかが浅層の魔物には、到底受け止めきれないほど格の違う魔力だった。羊が怯えて逃げたのも、それが原因かもしれない。
だが、考えはそこで途切れた。あの液体が何なのか、問う相手も、見極める力も、今の余には残っていない。
影が、大きく息を吐いた。
「痛い……ああ、よかったぁ」
へなへなと、その場にしゃがみ込む。そこで余は初めて、その顔を正面から見た。
その目が、余を心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫? すごく弱ってる……」
両手で、そっと余を包み込むように抱き上げた。
その肩には、さっき羊にやられた傷があった。布が裂け、赤い色が滲んでいる。
自分が血を流しておいて、こいつは、余の心配をしているのか。
(……何だ、こいつは)
見た目こそ小柄だが、装備の扱いからして、正式な探索者なのは分かる。短剣に、腰のポーチ。年齢は、人間でいう10代の後半あたりか。
身体は小さいが、それなりに鍛えているらしく、あれだけ派手に吹き飛ばされたのに軽症で済んでいる。
その小娘が、傷を負ってまで、余の前に立って庇ったのだ。
「よしよし、もう大丈夫だからね」
少女は余を抱えたまま、しばらく全身を観察した。小さな角や耳、背中の未成熟な翼を見て、不思議そうに首をかしげている。
余を抱きかかえるその腕のすぐ下で、少女の胸元は、小柄な体躯からは信じがたいほど豊かに盛り上がっていた。
……いや、それはどうでもよい。どうでもよいのだが、何やら妙に温かいのだ。この位置は。
そのとき、銀色の尻尾のような機械が視界の端をよぎった。赤い光を目のように灯し、ふよふよと宙を泳いで、少女の周りを付かず離れず漂っている。
(……何だ、あの目のようなものは?)
少女はそれを気にも留めない――というふうを装いながら、何かを呟き、時折ちらりと銀色の尻尾のような機械に視線をやっていた。何かに見られていることを、意識しているような素振りだった。
少女は辺りをすばやく見回すと、余を抱えたまま岩陰へと駆け込む。追ってきたその機械を、あいた片手でやんわりと押しとどめながら。
「わ……きみ、ボロボロだね……。ねえ、生きてる? 生きてるよね?」
少女が余を目の高さに持ち上げ、心配そうに覗き込んでくる。
「きゅ……」
「よかった、生きてた!」
ぱあっ、と緑の瞳が輝いた。感情がそのまま顔に出る娘である。
「えっと、きみ、スライムさん……だよね? 真っ黒のスライムなんて、初めて見た。……あれ、もしかして」
少女は改めて小さな角と、背中の未成熟な翼を見つめ、はっと息を呑んだ。
「ベビー属性の子だ! 授業でやったやつ……ベビー属性の魔物さんは、ミルクじゃないと栄養にできないんだよね。それで、こんなに萎んじゃって……」
察しの良いことである。
「ミルク、ミルクは……あるわけないじゃん! どうしよう、街まで戻ってたら、この子もたないかもしれないし……」
おろおろと視線を彷徨わせた少女は、やがて――ぴたり、と動きを止めた。
その視線が、ゆっくりと、自分の胸元に落ちる。
見る見るうちに、白い頬が朱に染まった。
「……し、仕方ない、よね。緊急事態だもんね。うん。人助け……じゃなくて、スライム助けだもん」
ひそひそと囁いてから、少女ははっと銀色の機械を見た。
「テールドローン、プライベートモード。お願い」
『探索者プリム・ミルクホワイト――プライベートモードを開始します。残り5分』
赤い光が、ふつりと消える。
それを3度も確認してから、少女は胸当てを外し、胸元をはだけた。
小柄な身体とは不釣り合いな、豊かな双丘。その胸の下に、指を当てる。
虹色の光が、滲んでいた。
「アーティア……っ」
少女が、人間種に発現するアーティファクトを呼び起こすための起動語を唱えると、虹色の光が弾けた。
その瞬間のことを、余はうまく言葉にできない。
光が弾けると同時に、少女の胸が内側から押し上げられるように膨らんだ。もともと豊かだった双丘が、さらに二回りほど大きくなる。
だが、問題はそこではない。そこから漏れてくる、濃密な魔力だ。
息が、止まった。
余は竜だ。本物の古代秘宝も、人間種に発現するアーティファクトも、この目で幾度となく見てきた。目は肥えているつもりだ。そんな余の目から見ても――比べることすら馬鹿らしいほどに、格が違う。
右からは、黄金色の温かな雫が流れ出している。傷を、芯から癒してしまいそうな気配。
左は、もっと尖っていた。清らかで、全てを浄化するような――いや、それだけではない気もしたが、うまく言い表せない。
1000年、余は魔力という魔力を見尽くしてきたはずなのに、これが何なのか、見当もつかない。
(……何だというのだ、これは)
たかが小娘1人の胸に宿るものの正体が、世界を統べた暗黒竜にも見抜けない。冗談のような話だった。
「ほうら、よちよち。たんと、お飲み?」
少女が、余を胸元へ抱き寄せる。あろうことか、赤子をあやすような声で。
乳の先から、黄金の雫がひとつ、にじみ出てくる。
抗うべきだった。仮にも世界を統べた暗黒竜のプライドがある。見知らぬ小娘の乳に吸いつくなど、末代までの恥だ。……そう、思ったのだ。
だが、その香りが鼻先をかすめた瞬間、抗うという選択肢が消えた。
とてつもない魅力。そして、乳に対する凄まじい飢餓感。その2つが合わさった瞬間、余の頭の中で何かがぷつりと切れた。
「きゅるるっ……!(こ、これは毒見だ! 毒見ゆえ、致し方ない!)」
誰に向けた言い訳なのか、自分でも知れたものではない。
気づけば余は、その雫に吸いついていた。
「――きゅるっ!?」
味が、脳天まで突き抜けた。
美味い、などという言葉では到底足りない。底をついていた余の魔力回路に、その甘さが隅々まで染み込み、空になった器をみるみる満たしていく。
魂まで癒されそうな、味わい。魔王のプライドも、ヴェルゼアへの怒りも、そのとき余の頭からは、きれいに抜け落ちそうになった。
夢中で吸いつき、一滴も残さぬよう、必死に飲み干す。
「ん……っ、ふふ……やだ、可愛い……」
少女はそう言いながら、溢れた黄金の雫を指で拭い取り、先ほど負った肩の傷へ軽く塗り込んだ。
張り詰めていたものがほどけていく。腹が満ち、そして――妙に、安心して、眠かった。
(……安心、だと?)
その言葉が浮かんで、自分でもぎょっとした。腹が満ちたから眠いのとは、違う。なぜか、安心していたのだ。竜の余が、人間の女の胸の中で。
(……ヴェルゼアの胸の中は、息が詰まった。だが、これは違う)
同じ「抱かれる」でも、まるで違う。あちらは檻だった。閉じ込められ、逃げ場を塞がれる息苦しさだけがあった。
この女の腕には、そういう圧がない。抱いていながら、いつでも出ていけそうな、頼りないほどの緩さがある。
腑に落ちないまま、余はいつの間にか、眠りに落ちていた。
それから先の記憶は、ところどころ曖昧だ。気づけば余は見知らぬ部屋へ運ばれ、「黒ちゃん」などという名までつけられていた。
*
――そうして、今に至るわけだ。
谷間の奥から、余は女の寝顔を見上げる。
女は寝言で、余を「黒ちゃん」と呼んでいた。黒いから、黒ちゃん。あんまりな名づけである。
よりにもよって、この余をだ。エルガディス・レクス・スレイプニル。1000年、世界を震え上がらせてきた暗黒竜が、「黒ちゃん」。
(……笑えん)
いや。
「きゅるる……(……まあ、悪くはないがな)」
決めた。元の力を取り戻すまでの当面の間、この谷間を余の玉座とする。それだけのことだ。
余は谷間の奥へ、もぞもぞと潜り込んだ。甘く気高い香り。包み込まれるようにやわらかく、ぬくぬくと温かい。最高の居心地――いや、気のせいだな。
しばらくして、ふと考える。
この女のアーティファクト。あの化け物じみた魔力は、余にとってただの資源だ。元の体を取り戻すための、都合のいい糧である。ただそれだけのことだ……。
それにしても……傷を負ってなお、余の前に立ち、震える手で剣を構えた。見ず知らずの余を庇い、今はこんな間の抜けた言葉をかけながら、余を抱いて眠っている。
……得体が、知れん。
ただのお人好しなのか。それとも、何か裏があるのか。……まだ、分からない。だが少なくとも、余の知っている人間とは、何かが違った。
まあいい。考えるのは、また後だ。
断じて、居心地がいいからではない。断じて。
余は欠伸をひとつして、目を閉じた。谷間の奥で女の鼓動が、優しく響いていた。




