最強の魔王、おっぱいから逃げ出す
目を覚ますと、視界が白かった。
温かくやわらかいものが、左右から余を挟んでいる。核の真ん前に、虹色の紋様がうっすらと光っていた。そこから、甘いような、気高いような、嗅いだことのない匂いが漂ってくる。
……ここは、どこだ。
「ん……むにゃ……黒ちゃん、もうお腹いっぱいかなぁ……?」
頭の上から、寝ぼけた声が落ちてきた。その声に合わせて、やわらかい壁がゆっくりと上下する。これは――人間の女の胸だ。その谷間に、余はすっぽりと埋まっている状態だ。
(……世界を統べ、魔王と呼ばれた暗黒竜が、なぜ人間の女の胸の谷間で寝ておるのだ……)
そこまで考えて、ようやく頭が回り始めた。そうだ。余は、この女に拾われたのだ。
それも、よりにもよって――乳を与えられて。
いや、今はそれよりも――あの日、余は囚われたのだ。最も信頼していた臣下――ヴェルゼアの歪んだ愛によって。
*
また、勇者を1人追い返した。何人目だったかは、数えるのもやめて久しい。……今回の赤髪の勇者は、当たりだったな。強力なアーティファクトを持っていたし、多少は楽しめたぞ。
余の名はエルガディス・レクス・スレイプニル。この世界の半分を手中に収め、敵の負の感情すら喰らう暗黒竜である。
もっとも、玉座で日々を過ごす時は、竜人の姿を好んで纏っていた。二本の脚で立ち、黒い鱗が肌に走り、背には畳んだ翼、頭には二本の角。人の形に竜の証を纏わせた、いわば普段着だ。全長数十メートルの真の竜体へ戻ることも造作もないが、あちらは何かと窮屈なのでこの姿でくつろいでいる。
本気を出せば、世界を丸ごと呑み込むこともできるが、そんなものはつまらん。弱者を嬲る趣味もないから半分で許してやっているのだ。
四天王を従え、攻め寄せる人間の軍勢を退け、勇者を叩きのめしてきた。気づけば、余の前に立てる者は一人もいなくなっていた。
つまり――暇なのだ。
「つまらん……」
その日に限って謁見の間はやけに静かで、玉座の脇に控える幹部や衛兵もいない。四天王も、それぞれ遠方の領地へ出払っている。あとから思えば、不自然なほど整った静けさだった。だがそのときの余は退屈しきっていて、静かでよい、くらいにしか思っていなかった。
――あの足音が、聞こえてくるまでは。
ゆったりとした、聞き慣れた歩調。四天王筆頭、ヴェルゼア。紫がかった黒髪を腰まで伸ばし、伏せられた紅紫の瞳は、いつも何を考えているのか読めない。歩みに合わせて、腰元の鍵飾りが小さく音を立てた。
(……今日は辺境の砦を一つ潰してくると言っていたが、もう終わらせて帰ってきたのか? まあコイツならそれくらいはできるか……)
ヴェルゼアはその手に、見慣れぬ小箱を捧げ持っていた。半歩後ろには、影のように気配の薄い男、副官のカリスが無言で控えている。
「陛下。少しだけ、お時間をいただけますか?」
声が、ほんの少しだけ硬い。だが、それを気に留めるほど、余は注意深くなかった。何しろ退屈していたのだから。ヴェルゼアの頼み事など、珍しいくらいのものだと思っていた。
「ほう、お前が頼み事とは珍しいな……いいだろう。申してみよ」
ヴェルゼアが、静かに歩み寄ってくる。いつもの折り目正しい足取りで、余は欠片も警戒していなかった。
「陛下は、わたくしをどうお思いでしょうか?」
「……何だ、藪から棒に……」
「忠臣、と。ただそれだけでございましょう……」
図星だった。答えに迷った余の沈黙を、ヴェルゼアは静かに受け止めた。
「存じております。……ですが、わたくしは違います」
紅紫の瞳が、初めて、余をまっすぐに見た。伏せられていた分だけ、その光は強かった。
「わたくしは、陛下をお慕いしております。何百年もの間、ずっと……」
(……知っていた)
薄々、気づいてはいた。だが、深く考えたことはない。忠誠の延長で臣下が主君へ向ける感情の、少し濃いだけの一種だろう、と。
「陛下がわたくしをお選びくださらないのなら――せめて、陛下との証を、残させてくださいませ」
ヴェルゼアの手の中で、小箱が独りでに開いた。
「これは、古代の秘宝――《原初婚姻宮》。二人の魂と生命を結び、新たな命を生み出すという、失われた術式でございます」
「……それを、どこで手に入れた」
「宰相グレゴールより、わたくしへ。陛下との願いを叶える品だと教えていただきました」
(グレゴールだと? あの男に唆されたのか。いや――だとしても、秘宝を使うと決めたのはヴェルゼア自身か……)
箱の中から立ち上ったのは、金色の光の環だった。幾重にも重なりながら、ゆっくりと膨らんでいく。
「ま、待て。それは――」
制止する間もなく、ヴェルゼアが両腕を、余の首元へ回した。
背丈も体格も、余の方がずっと大きい。それでも彼女は、しがみつくように腕を回し、決して離すまいと抱きついてきた。
「陛下……誰にも、お渡ししません。これからも、ずっと、二人だけで――」
柔らかく、温かい。この腕に、何度助けられたか分からない。余の背を預けられる、数少ない臣下だった。だからこそ――恐ろしかった。余の知るヴェルゼアが、余の言葉も聞かずに、こんなことをしている……その事実が。
だから、長年背を預けてきた相手を、力任せに振り払うことをためらってしまった。その一瞬が――油断だった。
「陛下……」
光の環が、二人の輪郭に沿って収縮していく。魂そのものへ触れるような、奇妙な感覚。
「よせ、ヴェルゼア! それは――」
「止まりません。もう、決めたのです」
穏やかな声だった。欠片も自分が間違っている、とは思ってはいない。
カリスは、動かずにただ一度だけ目を伏せ、それでもヴェルゼアの傍を離れようとはしなかった。
そのときだった。
玉座の間の天井に張りつき、普段は装飾と見分けもつかないほど大人しい黒い影が、大きく震えた。グラトニースライム――魔王城のマナの淀みを食らう、清掃役の上位スライムだ。秘宝から溢れる濃密な魔力に喰いつこうと反応し、光輪の中心へ飛び込んできた。
「……あ」
ヴェルゼアが、初めて間の抜けた声を漏らした。
グラトニースライムが触れた瞬間、その輪郭が霧のように解けて消えた。喰らおうとした魔力に、逆に喰われたのだ。
二人から新たな命を紡ぐはずだった光輪へ、三つ目の命が混じり込む。その影響で金色の術式が歪み、輪の一つが、逆向きに回り始めた。
「止めろ――!」
叫んだときには、もう遅かった。
角が縮む。翼が消える。四肢が、黒い粘液へと溶けていく。世界の半分を統べた魔王の身体が、混入したスライムの影響を受けて、誕生直後の姿へと巻き戻されていく。
「きゅ……るっ……!?」
喉から出たのは、なんとも間の抜けた高い声だった。
光が収まったとき、そこにいたのは――手のひらに乗るほどの、黒いしずく型の塊だった。頭にちょこんと小さな角が生え、その脇には萎れた竜耳が垂れている。背には、未成熟な小さな翼が張りついていて短い尻尾がピコピコと動いている。体の中心で、赤黒い核が心もとなく明滅していた。
(……秘宝は、新たな命を生み出せず、余自身をこの幼体へ生まれ直させたのか)
「……陛下?」
ヴェルゼアが、呆然とした声を漏らす。
余は、床の上で後ずさった。ぷるぷると不格好に跳ねながら、少しでも彼女から距離を取ろうとする。だが、この体では、大した距離も稼げない。
「陛下……? まあ……」
ヴェルゼアの表情が、ゆっくりと変わっていく。驚愕から、困惑へ。困惑から――蕩けるような恍惚へ。
「なんと、愛らしい……」
(……まずい)
余は、なおも後ずさった。だが、玉座の間の壁は、すぐそこまで迫っている。
ヴェルゼアが、一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。急ぐ様子はない。むしろ、逃げ場のない獲物を追い詰める余裕すら感じさせる、ゆったりとした足取りだった。恍惚とした表情のまま、両手を、そっと差し伸べてくる。
(来るな……来るな……!)
体の縁が、壁に触れた。もう、逃げ場はない。
「見つけました」
ヴェルゼアの両手が、余を包み込んだ。
もがいた。逃げようと、身をよじったのだが、抗う間もなく、彼女の指先が余の体をすくい上げる。その瞬間――彼女の腰にある大扉の鍵が余の視界に入った。
(……これは)
異界と繋ぐ、境界門の鍵。とっさに、そこへ意識を向ける。考えるより先に、体の一部を極細の触手へ変え、鍵の輪をそっと絡め取っていた。ヴェルゼアは、余に頬ずりしていて気づいていない。
奪った鍵は、すぐさま体の内側――核の裏側へと沈めた。流体の奥に隠してしまえば、外からは見えぬ。
鍵は奪えたのだが、今ここで門を開けば、即座に取り押さえられる。余は無力な幼体を装い、ヴェルゼアが警戒を解く時を待つことにした。
そのまま、余は胸元へと引き上げられた。
「ふふ……可愛い……」
両胸の谷間に収まった余を、ヴェルゼアが愛おしそうに撫でる。柔らかく、温かい。だが同時に、身動きひとつ取れないほどの、絶対的な拘束でもあった。
しばらく、ヴェルゼアはただ余を撫で、頬ずりし、その感触を堪能していた。終始、至福の笑顔でそんな姿を見たのは初めてだった。
「陛下のお身体が安定しましたら――もう一度、《原初婚姻宮》を試しましょう。次こそは、必ず。陛下と、わたくしの御子を」
(――っ!?)
余の背筋を、これまでとは違う怖気が走った。あの術式を、もう一度試すだと? 今度こそ、余という存在そのものが、どうなるか分からぬというのに……
(……逃げねば。一刻も早く)
だが、ヴェルゼアの手は止まらなかった。むしろ、そこから彼女は加速した。
「こうしてはいられませんわ。早速、魔界ネットでベビーカーを手配しなくては」
(……何を言っている)
ヴェルゼアは、指先に小さな魔法陣を展開させた。空中に浮かぶ、光る文字と品物の一覧。魔界の商会が扱う品を、遠隔で取り寄せる術式らしかった。
「そうですわ。ラトルと、ベビーベッドも発注しませんと。陛下がお使いになるものですもの、最上級の品を揃えなければ」
(誰が使うか。余はつい先ほどまで、二本の脚で玉座まで自力で歩いていたのだぞ)
余は、そう思ったが、口からは「きゅる」という頼りない音しか出なかった。
ヴェルゼアは、余を片腕に抱いたまま、もう片方の手で、宙に何かを書き記すような仕草をしていた。頭の中で、既に部屋の間取りまで組み上げているらしかった。
(……逃げねば)
もう一度、余はそう思った。だが、腕の中から抜け出す隙が、まるで見当たらない。
もがこうとした瞬間、腕の力が、ふっと強まった。
「だーめ。ママから離れてはいけませんわ」
(……いつからママになったのだ!?)
余は、体の内側で悲鳴を上げた。声には出ない。出せるのは、間の抜けた鳴き声だけだった。
「そうですわ。おしめの用意もしなければ」
(……待て。余には排泄器官などないぞ)
いくら幼体になろうと、スライムの構造そのものが変わったわけではない。当然、そんなものは必要ない。ヴェルゼアも、何百年も余に仕えてきた臣下だ。そんなことは分かっているはずだった。
分かっているはずなのに、彼女は既に、魔界ネットの画面に並んだおしめの一覧を、真剣な目で吟味し始めていた。
「どちらがよろしいでしょう。黒地に金の刺繍も陛下にお似合いですし……こちらの竜柄も捨てがたいですわね」
「……まあ、こちらには尻尾を出す穴までございますわ!」
(……怖い)
余は世界の半分を征服した。数え切れぬ軍勢を相手にした。勇者の聖剣を真正面から受けたこともある。だが、そのどれを前にしても、恐怖というものを感じたことはなかった。
魔王となって以来、余は初めて恐怖した。
必要のないおしめを、必要のない機能付きで、嬉しそうに選んでいる女を前にして。
(……逃げねばならぬ。今すぐにだ。この女に、育児という概念を完成させてはならぬ!)
だが、やがて――その手が、ふと止まった。
「……そういえば、お乳を差し上げなければ」
ヴェルゼアが、自分の胸元へ視線を落とす。数秒の沈黙のあと――絶望したように、顔を歪めた。
「……出ません。そうでした。わたくしは、身籠ってすらおりませんもの……」
(そうだろうな!)
ヴェルゼアは、しばらく思案していたが、やがて何かを決意したように顔を上げた。
「哺乳瓶を、探してまいります。厨房になら、代用のミルクもあるはず。少々、お待ちくださいませ、陛下」
余を、寝台代わりの布の上へそっと横たえる。名残惜しそうに、もう一度だけ頬を撫でてから、ヴェルゼアは踵を返した。
「カリス、厨房を開けさせなさい」
「……承知しました」
二人分の足音が遠ざかり、扉が閉まる音がした。
(……今だ)
余は、隠し持っていた鍵を、震える体で握りしめて魔力を流し込む。
鍵が体から抜け落ち、玉座裏の大扉へ吸い寄せられた。
鍵穴へ収まった瞬間、異界へ繋がる扉が音もなく開く。
余は、追跡されないようになるべく痕跡を消してから光の裂け目へ飛び込んでいく。
背後で、扉が閉まる重い音が響いた。
――後には、静寂だけが残っていた。
*
ミルクの瓶と哺乳瓶を手に、ヴェルゼアが玉座の間へ戻ったとき――そこに、陛下の姿はなかった。
閉じた状態の大扉。近くに鍵が落ちていて、誰もいない布の寝床。
しばらく、彼女はその場に立ち尽くしていた。
「陛下……」
声が、掠れた。
「どうして、わたくしから、お逃げになったのです……?」
怒りではなく、ただ拒まれたという事実だけが、静かに胸を満たしていく。
「ヴェルゼア様……」
声をかけたのは、カリスだった。
「……追わなくて、よろしいのですか?」
ヴェルゼアは、答えなかった。震える指先で、落ちていた扉の鍵に触れる。白い手袋の下を、黒い影のようなものが、一瞬だけ這った。
「……追えるはずが、ございません……」
声が、また掠れる。
「あの方は……わたくしから逃げるために、あの御身体で、大扉を越えられたのですよ。今、追いかければ――もっと、遠くへ逃げてしまわれます……」
ヴェルゼアは、静かに目を伏せた。
「しばらく……一人にしてくださいませ、カリス」
カリスが、一礼して静かに部屋を出ていく。
一人になった玉座の間で、ヴェルゼアは、ようやく――声を殺さずに泣いた。数百年、誰の前でも見せたことのない顔だった。
*
――落ちている。
白い光の中を、余はどこまでも落ちていった。行き先は分からない。分かっているのは、世界最強の魔王が、最弱のベビースライムへと堕ちたということだけだ。
それでも、息はできた。狭い檻から抜け出せた、その一点だけは、確かだった。
(……いや、待て)
ここでようやく、余は致命的な見落としに気づいた。
ミルクだ。ヴェルゼアが、まさに用意しようとしていた、あのミルクだ。
(……取ってから逃げれば、よかったのではないか?)
今さら、悔いても遅い。
「きゅるぅ……(……いや、これは、いわゆる〝詰み〟というやつではないのか?)」
光の出口が、見えた。
――このときの余は、まだ知らぬ。
堕ちた先で出会う一人の少女が、余の運命のすべてを覆すことを。この世で最も柔らかく、最も温かい《聖域》が――その胸元で、余を待ち受けていることを。
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