第29話 おっぱい保育園の朝
問題は、朝から起きた。
プリムが目を覚ました瞬間、胸が重かった。谷間の奥には、黒いスライム。それは変わらないが、今朝は右胸の上にも何かがいた。銀色の毛並みのかたまりが、丸くなって、すやすやと寝ている。
——フェンだ、とすぐに分かった。
プリムは数秒、その光景を見てから——天井を見た。
「きゅるる(……フェン。いつから胸の上が貴様の寝床になった)」
「……昨夜からです」
「きゅるっ(……ここは余の管轄だ)」
「……そういうルールは、昨夜は存在しませんでした」
「きゅるるっ(……余が今決めた。遡及適用する)」
「……後出しじゃないですか……」
「きゅるっ(……魔王の決定に後出しという概念はない)」
「……なりません」
「きゅるるるっ(……なる! 余は——)」
プリムが、目を閉じたまま両腕を広げた。そのままぎゅっと、二つをまとめて引き寄せる。すぐに静かになった。
「……おはよ」
核がオレンジに光り、フェンの耳がそっと伏せられた。
「きゅるっ(……む)」
「……む、ではありません」
ほぼ同時に同じことを言って、また険悪になりかけた。
「二人とも、おはよ」
プリムが笑った……それだけで終わった。
プリムがベッドから起き上がると、フェンも胸元から降り、先に部屋を出ていった。
*
新居は2LDKで、キッチンにコンロが3口ある。以前のボロアパートから広さが倍以上になったのは、スパチャとダンジョン素材の売り上げが、やっとここまで積み上がったからだ。まだ少し信じられない。
ベッドから起き上がりながら、プリムは昨日のことを思い返した。ギルドから銅級ライセンスをもらい、カレンが引っ越し祝いを持ってきた。ノンアルのつもりで選んだらしいが、本物のシャンパンで——それ以降の記憶は、あんまりない。
「……エロスちゃん、昨日の夜ってどんな感じだった?」
「きゅるっ(……ノーコメントだ)」
「なんで?」
「きゅるる(……聞くな)」
フェンが洗面所から戻ってきた。仔狼からいつもの人型に戻り、銀色の髪をきれいに整えていた。
「……朝食の準備をします」
「フェン、料理できるの?」
「……最低限は」
「やった!」
「……やったとか、そういう話では……」
「フェン、エプロン、台所の引き出しにあるよ」
「……使います」
フェンがエプロンを締めて台所へ向かい、プリムは洗面所に行こうとして——止まった。ドアが閉まっている。叩くと、中から鳴き声がした。
「きゅるっ(……使用中だ)」
「エロスちゃんが? 何を?」
「きゅるるっ(……余が谷間に相応しいか、鏡で確認している)」
「……どんな確認なの?」
しかたなくキッチンで洗顔を終えて、プリムが洗面所を覗くと——エロスが難しそうな顔で核を光らせていた。
(……フェンが胸の上に乗るというのは、計算外だった。あの位置は、本来なら余が独占していた場所だ。許容範囲を再検討する必要がある)
エロスはひそかにそう思いながら、何も言わなかった。
*
朝食は、スクランブルエッグとトーストだった。シンプルで美味しく、フェンの料理は余計なものが何もなく、素材の味が出ていた。
「フェン、上手じゃん」
「……長く、自給自足をしていたので」
「一人で?」
「……はい」
それ以上は何も言わなかった。
「エロスちゃんは? 何か食べる?」
「きゅるっ(……余はいい。アムリタを少しだけ貰えば十分だ)」
ほんの5ミリリットル程度で構わない。プリムの身体に負担をかけない範囲で、少量ずつ蓄えている。日々の糧というより、蓄えのようなものだ。いずれ、この身を取り戻すための力が——それだけは、まだプリムにも明かしていない。
「そっか。お昼にまた」
「きゅるる(……楽しみにはしていない)」
「あ、ソーマも飲む?」
「きゅるっ(……お前の魔力に余裕があるならな)」
「今日は平気だと思う」
「きゅるる(……ならば、少し多めにもらおう)」
「核、オレンジになってるよ」
「きゅるっ(……気のせいだ)」
フェンが、追加のエッグを小皿に盛りながら言った。
「……エロス様も、食事について聞かれましたか?」
「きゅるるっ(……フェンは黙れ)」
「……分かりました」
耳が、少し揺れた。
「きゅるるるっ(……今、笑っただろう!)」
「……笑っていません」
「きゅるるっ(……絶対に笑った!)」
プリムが二人を見比べて、静かに笑う。フェンは黙って、エロスの前に小皿をそっと置いた。
「きゅるっ(……誰が食べると言った)」
「……余ったので」
「きゅるる(……しかたない……食べてやる)」
プリムが盛大に吹き出した。
食べ終えてから、プリムはリモコンを取ってテレビをつけると朝のニュースが流れていた。
『——昨日、探索者ギルド日本支部が行った発表について、世界各国からの反応が相次いでいます。発表されたアムリタについて、各国の研究機関が分析した結果、既存の最高級ポーションと比較して——』
アナウンサーの声が続く。
『——治癒効果において、最大103倍に相当するという試算が出ており、専門家の間で衝撃が広がっています。また、ソーマについても既存の最高級聖水の232倍の浄化・強化効果が確認されたとのことで——』
「……」
プリムが、トーストを持ったまま止まった。
「……エロスちゃん、103倍って言ってた?」
「きゅるっ(……言っていた)」
「……232倍って言ってた?」
「きゅるる(……言っていた)」
「……」
プリムは、トーストを皿に戻した。画面は続いていた。
『——この発表を受けて、世界各国の超有名クランや研究機関が動き始めています。フランスの《リス・ド・リュミエール》、ロシアの「クリムゾン・ボルト」、アメリカの「スターズ・アンド・ストライプス」、中国の「龍牙会」——いずれも世界ランク上位のクランが、ギルドへの正式な照会を開始したとみられています。なお、《リス・ド・リュミエール》には現在世界ランク1位のエリシア・ミストウォーカーが所属しており、その動向にも注目が集まっています』
「エリシア……」
プリムが、小さく呟いた。探索者なら誰もが憧れるような、世界ランク1位の名前——配信を始めた頃から、どんな人なのか気になっていた。
『——さらに、世界の有名機関や大富豪からもギルドへの接触が相次いでおり、一部報道では某国の富豪が「いかなる金額でも交渉に応じる」と述べたとも伝えられています。ギルドは現在、全ての接触をギルド経由の申請ルートに一元化しており——』
「きゅるっ(……プリム)」
「……うん」
「きゅるる(……これが、昨日起きたことの結果だ)」
プリムは、しばらくテレビを見ていた。
「……私のアムリタで、そんなに世界が動くんだね」
「きゅるっ(……そうだ)」
「……怖い、とはちょっと違うんだけど」
「きゅるる(……どういう意味だ)」
「……なんか、実感がまだないっていうか」
フェンが、プリムを見た。
「……プリム」
「うん?」
「……ギルドが守っています。私もいますし、エロス様もいます」
プリムが、フェンを見た。フェンは前を向いたまま、追加のトーストをプリムの皿に置いた。
「……食べてください。今日も動きます」
「きゅるっ(……フェンの言う通りだ。今の余たちにできることを、やればいい)」
プリムが、トーストを手に取った。
「……うん、そうだね」
テレビでは、まだニュースが続いていた。世界が騒ぎ、大富豪が動き、あのエリシアの名前まで、画面の向こうで報じられている。だが今この部屋には、スクランブルエッグの匂いと、エロスの核の淡いオレンジと、フェンがわずかに動かした耳だけがあった。
(……余には関係ない)
エロスは、内心でそう思った。
(……今の余の仕事は、この谷間を守ることだ。世界が何を言おうと、それだけだ)
「きゅるっ(……テレビを消せ)」
「なんで?」
「きゅるる(……うるさい)」
「エロスちゃん……もしかして、ちょっと動揺してる?」
「きゅるるっ(……していない)」
「核が赤くなってるよ」
「きゅるるるっ(……体温調節だ!)」
プリムが笑いながら、テレビを消した。
食後、プリムはランニングウェアに着替えた。玄関を開けると——廊下に、カレンが立っていた。
「おはよ。今日、非番だから」
「カレン!? 急すぎる」
「銅級になったんだから、11階層以降に一緒に入ってみようと思って。私も先週、銅級取ったし」
「カレンも取ったの!?」
「学院の実習で積み上げてたから。少し前倒しで申請したの」
カレンが、胸を張った。
「15階層くらいまでなら、足引っ張らないわよ」
「そんなこと思ってないよ!」
「思ってないのは知ってる。でも言っておきたかった」
フェンが、玄関から二人を見ていた。
「……今日は、四人ですか」
「きゅるる(……賑やかになったな)」
「文句ある?」
「……ありません」
カレンが室内を覗き込んで、フェンを一瞥した。
「フェン、今日もよろしく」
「……はい」
「あと」
「……何ですか」
「引っ越し祝いで変なことになった件は、私は一切覚えていないから……」
「……私も、覚えていません……」
「よし、話が早い」
*
ダンジョンへ向かう前に、プリムはデバイスで配信を確認しようとして——止まった。チャンネル名が、変わっていた。「竜姫バニーちゃんねる」。
「カレン」
「あら、気づいた? 分かりやすいでしょ」
「いつ変えたの!?」
「昨夜。酔ってるプリムが承諾してた」
「承諾した覚えが——」
「変えたことは覚えてないけど、承諾したことは覚えてる。ちゃんと聞いたから」
「きゅるる(……余も否定しない。その名の方が合っている)」
「エロスちゃんまで!」
「……理には、かなっています」
フェンが静かに言った。
「フェンまで!?」
「きゅるるっ(……3対1だ)」
「多数決で決めないで!?」
コメント欄が、その騒ぎに気づいて動いていた。
『チャンネル名変わってる!』
『ついに正式にバニーを受け入れたか』
『本人、めちゃくちゃ不満そうで草』
『でも似合ってると思う』
プリムが、それを見てさらにぐったりした。
「みんなも認めるの!?」
ダンジョンの入口をくぐりながら、プリムはまだ文句を言っていた。チャンネル名の欄に、「竜姫バニーちゃんねる」と光っている。
本当は、少しだけ格好いいと思っていたが、絶対に口には出さなかった。
プリムの後ろで、小さな車輪の音が鳴っていた。カレンから譲ってもらった、あのキャリーカート——一人でギリギリ引ける大きさで、積める量はそう多くないが、ここまで何度もお世話になっている。
「今日もよろしくね」
プリムが、カートの持ち手をぽんと軽く叩いた。そのまま四人は、いつもの階層を抜けていく。
そして——これまでとは違う道へ、足を向けた。銅級探索者に許された、11階層以降へ。




