引っ越し祝いと、陥落(後)
「プリム」
「……カレン、顔が、2個になってる」
「なってない。酔いが回るの早すぎるのよ、あなた」
「……エロスちゃん」
「きゅるっ(……何だ)」
「……なんか、ふわふわする」
「きゅるる(……分かっていたことだ)」
プリムが、立ち上がった。ふらふらと、1歩、踏み出す。
「プリム、座ってなさい」
「……エロスちゃん」
プリムが、谷間に手を当てた。
「……ちょっと、出てきて」
「きゅるっ(……なぜだ)」
「……ぎゅって、したい」
余が谷間から顔を出した瞬間、プリムが両手で包み込んだ。ぎゅっと、頬に押し当てて、そのまま頬ずりする。
「……エロスちゃん、あったかい」
(……余は流体だ。体温などない。貴様の熱を、反射しているだけだ――)
「きゅ(……)」
返事が、できなかった。
なぜか――今夜は、それだけで、胸がいっぱいになった。
(……余は魔王だぞ。こんなことで、動揺するはずが――)
「……大好き、エロスちゃん」
「きゅるっ(……う、うむ)」
(……うむ、ではない! 余は、何を言っているのだ!)
プリムは、満足げに余を胸元へ戻した。それから、カレンの方へ向き直る。
「カレン」
「……なに」
「ぎゅって、させて」
「お断り」
カレンが、素早く立ち上がった。距離を取る。
「プリム。落ち着いて。水を飲んで。深呼吸して」
「カレンに会えて、よかったって、いつも思ってる」
「――っ」
カレンの足が、一瞬、止まった。その隙に、プリムが1歩、踏み込む。
「危ないっ」
カレンが、後ろへ飛んだ。
「カレン、ずっと隣にいてくれたじゃない」
「来ないで! 感動することを言うな! 足が止まる!」
「学院で、ずっと支えてくれたよね」
「だから、言うなって!」
カレンが、冷蔵庫の陰に回り込んだ。
「……冷静に。これは本音を利用した搦め手よ。揺れるな。冷静に――」
「カレン、ありがとう」
「――っ」
止まった。
「1年間、頑張れたのは、カレンのおかげだよ」
「……プリム」
「ぎゅって、いい?」
沈黙。
カレンの唇が、何かに耐えるようにきゅっと結ばれた。だが、プリムがもう一度「カレンのおかげだよ」と告げると、その肩からゆっくりと力が抜けていった。
「……一回だけ」
捕まった。
カレンは、プリムの両腕に、すっぽりと収まっていた。
温もりと、アムリタの甘い香りが、ゼロ距離で押し寄せる。
「カレン、温かい」
「……当たり前、でしょ」
「……ずっと、こうしてたい」
「――っ」
「……しょうがないわね」
カレンは諦めたように息を吐き、そっとプリムの頭を撫でた。
「きゅるる(……もう、落ちているではないか)」
「うるさい、スライム」
一方、部屋の隅では。
フェンは壁際まで下がっていた。いつもの無表情を保ってはいるが、耳だけが落ち着きなく動いている。
カレンが、陥落した。プリムが、こちらを向く。
「フェン」
「……何ですか」
プリムが、ふらふらと1歩、踏み出す。フェンが、1歩、下がった。
「フェンも、ぎゅってして、いい?」
「……結構です」
「フェン、疲れたでしょ。今日、いっぱい運んでくれて」
「……疲れて、いません」
プリムが、1歩、踏み込む。フェンが、1歩、後退する。
「……逃げても、無駄よ。フェン」
カレンが、壁にもたれながら言った。
「……!」
「あの子に本気を出されたら、誰も逃げられない。私が、その証拠よ」
「……そ、そういう問題ではなく、護衛として、状況の確認が――」
「フェン」
「――っ」
プリムの声が、まっすぐに当たった。とろんとした翠の瞳が、フェンを見ている。
「……フェンのこと、仲間だと思ってる」
「……」
「最初は、護衛とか言ってたけど。今は、一緒に戦ってる、仲間だと思ってる」
「フェンが、いてくれて、よかった」
フェンの足が、止まった。
「……」
「ありがとう、フェン」
プリムの腕が、フェンの背中へ回った。しばらく、フェンの両腕は宙に浮いたままだった。
やがて――抵抗を諦めたように、その腕もプリムの背中へ回った。
(……それだけで、十分だったらしい)
フェンを縛っていた20年分の何かが、目の前でゆっくりとほどけていくのを、余は見ていた。
「……フェン、温かい」
「……っ」
「ありがとう、フェン」
「……みんな、寝室、来て」
プリムが、眠たげな声を出した。
「……え」
「……一緒に、寝よ」
3人と1匹が、揃って固まった。
「だめ?」
プリムが、寝室のドアを開ける。
「じゃあ、行くよ!」
「ちょっと待って!」
カレンが、立ち上がった。
「まだ、逃げられる! 部屋の出口は――」
プリムが、カレンの手首を掴んだ。
「カレーン」
「――っ」
酔ったプリムの、無防備な笑顔が、直撃した。
「……わ、分かったわよ! 一回だけ! 今夜限りよ! 酔ったまま一人にはできないでしょ、寝つくまでよ」
「やった! フェンも!」
フェンは――既に、観念していた。
「……承知、しました」
「きゅるる(……余も、強制連行されそうだが)」
ベッドに、4人――正確には、3人と1匹が収まった。
プリムが中央で、翠の瞳をとろんとさせながら、エロスを胸にしっかり封じている。
「きゅるる(……挟まれすぎだ。余の核が、圧迫されている)」
「エロスちゃん、いい子いい子」
「きゅるっ(……いい子では、ない!)」
左隣で、カレンが天井を見ながら、腕を組んでいた。
「……これは事故。完全に事故。明日からは、なかったことにする」
右隣で、フェンが目を閉じていた。口の中で、何かを小さく呟いている。任務、確保、近傍――そんな単語が、切れ切れに聞こえた。
「フェン」
フェンの肩が、跳ねた。
「……何ですか」
「今日も、ありがとう」
「……いいえ」
「おやすみ、フェン」
フェンは、しばらく何も言わなかった。目を閉じたまま、口だけが小さく動く。
「……おやすみ、なさい」
その一言に、随分と長い間がかかっていた。
数秒で、プリムの寝息が始まった――かに見えた。
だが、プリムの手が、寝ぼけたまま、ゆるゆると伸びてきた。
その手が、無防備に――フェンの、狼耳に触れた。
「……っ」
フェンの身体が、びくりと跳ねた。
(……まずい。そこは、銀狼族の急所だ)
プリムの指が、耳の付け根を、ふにふにと揉む。完全に、無意識だった。寝ぼけているだけだ。悪気など、欠片もない。
(耳の付け根を撫でられた銀狼族は、本能の奥に封じた幼い状態を引きずり出される。フェン自身が、何より嫌っていたはずの、あれだ)
遅かった。
フェンの瞳が、とろん、と緩んだ。張り詰めていた金色の眼光が丸く、あどけないものに変わり、耳がぴるぴると揺れ、固定していたはずの尻尾がほどけて、ぱたぱたと振れ始めた。
「……くぅん」
声が、漏れた。
フェンの喉から出たのは、隠密のものでも、戦士のものでもない。甘えた、子犬の鳴き声だった。
仔犬モード。
(……あれだ。魔王軍にいた頃、一度だけ見たことがある)
理性が後退し、ただ甘え、すり寄ることしかできなくなる状態。フェンが何より嫌っていた、あの姿だ。
「……くぅん、くぅん」
フェンは、自分の意思とは無関係に、プリムの手のひらに、頭をすり寄せていた。尻尾が、ぱたぱた、ぱたぱた、と止まらない。
「ん……ふふ、もふもふ……」
プリムが、寝ぼけたまま、フェンを引き寄せた。両腕で、ぬいぐるみのように、ぎゅうっと抱きしめる。
「……あったかい……」
「くぅん……っ」
声は、それ以上言葉にならなかった。フェンの腕も、抗うどころか、プリムにしがみついていた。
左隣で、カレンが、ゆっくりと身を起こした。
その光景を、見た。
無表情で無口だった銀髪の獣人が、尻尾を全力で振りながら、酔っぱらいにぬいぐるみにされている。
「……」
カレンは、しばらく無言だった。
「……フェン、あんた」
「くぅん……っ」
フェンが必死に首を振った。見るな、と訴えているつもりなのだろう。だが、尻尾は正直にシーツを叩き続けていた。
「……そういう、可愛い感じだったの」
「くぅぅん……っ」
「きゅるる(……ほう。フェンの、仔犬モードか。久しぶりに見たな)」
谷間のエロスが、面白がるように核を光らせた。
「きゅるっ(……魔王軍にいた頃も、これを見られて、3日寝込んだことがあったな)」
「くぅん……っ」
フェンは、もはや言葉にならない鳴き声を漏らしながら、プリムの腕の中で丸くなっていた。プリムは満足げに頬ずりして、すうすうと寝息を立てている。
カレンは、その様子をしばらく眺めてから――そっと、横になった。
「……明日からも、なかったことにする」
「くぅん……」
そう言いながらも、カレンの口元は、ほんの少し緩んでいた。
「……あの子、強いわね」
「きゅるっ?」
「抱きしめ方が。本気を出されたら、誰も逃げられない。天下の隠密を、仔狼にしちゃうんだから」
「きゅるる……(……否定は、できん)」
数分後。
仔犬モードのまま、フェンもやがて力尽きた。プリムの腕の中で尻尾を垂らし、静かな寝息を立て始める。
抗うのを諦めたその顔は、これまで見たどんな表情よりも安らいでいた。
(……陥落したのは、今夜ではないのかもしれんな)
おそらくこやつは、もっと前から――ただ、それを認めていなかっただけなのだ。
プリムの寝息と、フェンの寝息が、すぐ近くで重なっている。
温かかった。
*
その頃、街の中心にある高級マンションの一室で。
アルノー・ヴァリエールは、スマホの画面を見ていた。
ミストチューブ。竜姫バニーちゃんねる。プリムの配信――イレギュラーモンスター戦の、切り抜き動画だった。
プリムが、倒れたモンスターに歩み寄る。両腕を広げ、抱きしめる。「またね」と手を振る。
アルノーは、その場面を、何度も繰り返し見た。
敵だったはずの相手を、慈しむように抱きしめる。恨むでも、勝ち誇るでもなく、ただ癒やし、送り出す。まるで、自分の理想の姫のように。
(……これだ)
物語の中で、何度も思い描いてきた光景だった。倒した敵にすら情けをかける、器の大きな英雄。その隣に立つ者だけが、見られる景色。
「……なんで」
誰に言うでもなく、呟いた。
「……なんで、あの隣にいるのが、俺じゃないんだよ」
学院にいた頃と、何も変わっていない。強くなった。すごくなった。全世界が見ている配信者になった。それでも——あの顔が、あの笑い方が、何も変わっていない。
(……もしかして、俺は、間違えているのだろうか)
アルノーは、スマホを置いた。天井を、見上げる。
(……俺は、何をしているんだ)
一瞬だけ、その言葉が本物の反省として胸に刺さった。だがすぐに、いつもの理屈が上書きしていく。
(……いや、俺は英雄になる男だ。あと数年もあれば、俺もあんな風に振る舞えるはずだ……その時に、隣にいてほしい姫は……)
画面の中のプリムが、モンスターに手を振っていた。「またね」と言いながら。
アルノーは、しばらく天井を見ていた。
それから――独りで部屋にいることが、今夜は少しだけ、いつもより静かに感じられた。
第一章完結になります。
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