忠臣は、玉座を護る
8階層はスリーピングシープの縄張りで、初心者が初めての状態異常攻撃の洗礼を受ける階層である。
配信開始直後のコメント欄は、いつも通りの調子だった。
『今日は8階層か』
『おっぱい説スレ、もう落ち着いたかと思ったら今朝もまだ伸びてた』
『本人気づいてるのかな?』
『乳の調べ:本日も定点観測、継続します』
『ミナりん:(あ、あの、今日はもう普通に応援に集中しますね……!)』
(……あの祭りは、まだ終わらないらしい)
余は内心で苦笑したが、それも長くは続かなかった。
岩の色が深い黒に変わり、燐光がより赤みを帯びている。通路が広く天井が高い分だけ、闇の密度も増していた。スリーピングシープの縄張りで、道中は静かだった。プリムとフェンはこれまでの階層で鍛えた連携で、手堅く魔物を捌きながら進んだ。
仕留めたスリーピングシープの毛皮や眠り粉の分泌腺は、そのたびカレンにもらったカートへ放り込まれていく。プリムは一目見ただけで「これは高そう」「これはハズレかな」と仕分けていたが、その基準は毎回ぶれていた。
『そのカート、カレンさんにもらったやつだっけ』
『相変わらず査定が雑』
『カレン:査定が雑なのは今に始まったことじゃないから』
途中、引き返してくる2人組の探索者とすれ違った。一人がプリムの姿に気づいて、目を見開いた。
「……竜姫バニーちゃん、ですよね」
「あ、はい!」
「8階層、進むんですか? 今日、奥の方で変な気配がするって噂が出てて……俺たちは、念のため引き返すところです」
「変な気配……」
プリムが少しだけ表情を引き締めた。
「教えてくれて、ありがとうございます。気をつけて探索しますね」
「ああ、頑張ってください。応援してますよ」
片方の男性はプリムの扇情的な格好に鼻の下を伸ばしていたが、すぐに相方に小突かれて、2人組は7階層方向へ立ち去っていった。
「……エロスちゃん、今の」
「きゅるる(……聞いていた。注意するに越したことはない)」
8階層の後半エリアに差しかかった頃だった。
余は気配を感じた。
(……おかしい)
スリーピングシープの気配がまるでない。本来ならこの階層は、睡眠攻撃にさえ対処できればそれほど怖い階層ではない。
(……何だ……この魔力は……)
スリーピングシープの緩い波長とはまるで違う。大きくて、暗くて、魔力の密度の桁が違っていた。
余は即座にプリムへ感触を伝えた。
「きゅるるるっ(……止まれ。今すぐ止まれ)」
「え、どうしたの急に」
「きゅるる(……何かいる。8階層の魔物じゃない)」
フェンが同時に立ち止まっていた。銀色の耳がぴんと立ち、鼻が空気を引く。
「……私も感じます。前方、50メートル以内」
「何?」
「……嗅いだことのない気配です。分かりません」
それが姿を現したのは、余が感知してから10秒後だった。
通路の奥から――巨大な影が、滲み出てきた。
猪だった。
ただの猪ではない。体高は2メートルを超え、体長は3メートル以上ある。全身が漆黒の剛毛に覆われ、皮膚は鋼のように硬質化していた。頭部から湾曲した2本の巨大な牙が伸び、先端が刃のように鋭く光っている。目は赤く充血して光り、全身から黒い魔力の霞がゆらゆらと漏れ出していた。
「……何、これ」
プリムの声が、かすかに揺れた。
(……余も見たことがない。8階層に存在する種ではない)
「きゅるっ(……フェン。これは何だ)」
フェンは、その気配を鼻で引いていた。
「……下の階層の匂いです。この階層の魔物じゃない。かなり強い個体です」
「逃げられる?」
「……おそらく、無理です。縄張りを認識したら、追ってきます」
(……戦うしかない)
その時、テールドローンのカメラが向いているのに改めて気づいた。そういえば配信中だった。
コメント欄が爆発していた。
『なにこれ!?』
『8階層にそんな魔物いるの!?』
『でか!』
『タイラントボアじゃん!』
『タイラントボア知ってる人いた』
『何それ』
『ミナりん:え、ちょっと待って――タイラントボア!? 8階層に!?』
『ミナりん:イレギュラーモンスターです! ダンジョンの中層から何かのはずみで低層に迷い込んだ個体で、稀に発生します! この魔力密度――20階層のボス相当です!』
『ミナりんが説明してくれてる!』
『現場の人だし信頼できる』
『20階層!? プリムちゃん鉄級なのに!?』
『ミナりん:逃げても追いかけてきます! イレギュラー種は縄張りの範囲内では壁を無視して追跡してくる種もいます! プリムちゃん、逃げるより防御主体で戦い、時間を稼ぐ戦い方をして下さい。ギルドに応援を要請します』
『ミナりんが必死だ』
『冷静に情報出してくれてる』
『現場のプロだ』
『Olivia_G:イレギュラーモンスター。ギルドへの報告義務が発生する事案だ。ギルドにイレギュラーモンスターの発生と救助要請をするように連絡した。戦闘記録として、この配信映像は重要な証拠になる』
『脱がし屋が冷静』
『ギルドへの救助要請ってかなりの大事だな』
『今それどころじゃないけど大事なこと言ってる』
「エロスちゃん! コメントが――」
「きゅるる(……後で読め。今は目の前だ)」
「……うん!」
プリムは翠の瞳でタイラントボアを見据えた。
「きゅるる(……フェン、本気を出せ。ここは貴様が前衛だ)」
「……」
フェンが、1拍だけ黙った。
「きゅるっ(……どうした?)」
「……申し訳ありません、エロス様」
フェンの声は、低かった。
それは痛みではなく、屈辱を噛み殺す声だった。
「……私は今、本来の力が出せません。境界門を破った際に使い果たした部分が、まだ回復しきっていません」
「きゅるっ(……どれほど出せる)」
「……通常の2割程度かと……」
余は黙った。
2割。
フェンの2割がどれほどのものかは知っている。並の探索者より遥かに上だが、20階層ボス相当の個体が相手では――。
(……厳しすぎる)
プリムを見た。プリムは翠の瞳でタイラントボアを見据えていた。
「エロスちゃん」
「きゅるっ(……何だ)」
「逃げるのは無理なんだね……」
「きゅるる(……おそらく)」
「じゃあやるしかない!」
プリムが言い切った。怖がっていないわけではないと思う。でも、やると決めた顔だった。
「アーティア」
星紋が輝く。「……んっ」と声が漏れると同時に長剣が形成された。
タイラントボアが動いた。
速かった。あの巨体で、信じられない速度で通路を駆けてくる。
「きゅるる(……フェン右! プリム左から回り込め!)」
フェンが右前に飛んだ。爪を解放する。銀色の閃光が走る。
牙の側面を弾こうとしたが――はじかれた。
(……硬い!)
「……剛毛の下の皮膚が鋼化しています。爪が通りません」
「きゅるっ(……目の周囲を狙え。そこだけ薄い)」
余は、竜尾バニーテールから黒雷を放った。目の周辺へ狙いを定めて。
命中したが、覚えたばかりの威力では、毛を焦がす程度にしかならなかった。
(……まだ足りん。今の余では、この相手には決め手にならない)
フェンが切り替えた。目の周辺部へ、細かく連打する。1発、2発――3発目でタイラントボアがわずかに首を振った。
「プリム、今だ!」
「はっ!」
プリムが左から剣を叩き込んだ。首の付け根に剣先が食い込む。手応えがあった。しかしタイラントボアは怯まなかった。
頭を振った。
余は全力で対応した。プリムの右腕を盾に展開。左腕を剣に。体積の全てを武装に注ぎ込む。牙の1本を盾で弾いた。もう1本――。
「っ――」
フェンが体をぶつけて軌道を逸らしたが、体ごと吹き飛び、壁に叩きつけられた。
「フェン!」
「……問題ありません」
起き上がったが、左腕を庇っている。
(……やられた。2割の状態では、やはりあの一撃を受けきれない)
フェンが立ち上がりながら、余へ目を向けた。
「……すみません、エロス様。これが限界です。もう一撃受けたら、動けなくなります」
(……分かった)
状況を計算した。プリムの攻撃は通るが、しかし遅い。フェンは限界が近くて逃げ道はない。
(……長期戦は不利だ。突破口を作るしかない)
タイラントボアが向き直り、地面を掻く音がした。突進の前兆だ。
「きゅるる(……来るぞ。構えろ)」
凄まじいスピードでの、正面からの全力突進だった。
余がプリムを横に飛ばそうとした瞬間――フェンが前に出た。
「フェンちゃん!?」
「きゅるるっ!(……馬鹿が! 2割の状態で正面に出るな!!)」
しかしフェンは動じなかった。全体重を前へ向け、2本の牙を両腕で受け止めにいく。
片方は、止めた。
もう1本が、フェンの脇腹を深く抉った。
「――っ!」
それでも、フェンは手を離さなかった。爪を牙の根元へ食い込ませ、血に濡れた身体をねじる。
「……プリムには、触れさせません」
巨体の軌道が、わずかに曲がった。
タイラントボアはプリムの目の前をかすめ、そのまま側壁へ激突する。
衝撃でプリムは床へ尻もちをついた。ただ、それだけだった。傷は――ない。
「フェン!?」
代わりに、フェンが血を撒き散らしながら床を転がった。脇腹を押さえた手の下から、赤黒いものが広がっていく。
それでも、フェンは歯を食いしばり、崩れた岩へ背中を預けて、なんとか立ち上がった。膝が笑っている。深く息を吸うたび、傷が疼いた。
「フェン……!」
プリムが駆け寄ろうとした。だが、体勢を立て直したタイラントボアが唸り、2人の間に立ちふさがる。
「……来ないでください。まだ、終わっていません」
フェンが、岩に背を預けたまま、押し殺した声で言った。
(……深い。生命反応はまだ強いが、このままでは長く持たん)
だが、今、治療へ回れば、その隙に次の突進が来る。プリムまで倒されれば、フェンを救う者はいなくなる。
(……先に、あの化け物を止める。倒しさえすれば、フェンは余が必ず治す)
今から余が持つ力の全ては、次の一撃へ注ぎ込む必要があった。
それに――アムリタを、配信中に不用意に晒すわけにもいかん。
「……エロス様」
「きゅるる(……分かっている。任せろ)」
タイラントボアが向き直った。次の突進の構えを取っている。
一方、フェンは岩に背を預けたまま、脇腹を押さえていた。
余は、流れ込むエネルギーを確認した。
同接が――2000を超えていた。
『フェンちゃんがプリムちゃんを庇った!』
『血が止まってない、やばくない!?』
『立たなくていい、もう動くな!』
『プリムちゃん、フェンちゃんを助けて!』
祈り。心配。応援。全部が、ものすごい密度で流れ込んでいる。
漆黒の装甲に、赤い光が怒濤のように走った。これまで細い筋だったものが、今は面になっている。竜姫メイルの全体が赤く脈打っていた。
(……これを使う。この感情エネルギーを全て余の魔力に変換して叩き込む……)
「きゅるるっ(……プリム!)」
「……なに」
「きゅるるるっ(……全力でアーティア! 余が全部使う!)」
プリムの翠の瞳が――強張った顔の中で光った。
「……分かった!」




