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消えない火と、冷めない温もり

 しばらくして、プリムは持ち直した。咳払いを一つして、水を飲み直す。

 通路の少し先。開けた広間で、別のパーティがオークと交戦しているのが見えた。4人組。苦戦している様子はない。手慣れた連携で、危なげなく仕留めていく。


「……あの人たちも、配信されてるんだよね」


「きゅるる(……記録映像としては流れている。見られているかは、別だがな)」


「そっか。誰も見てないかもしれないけど、一応、世界には流れてるんだ」


「きゅるっ(……そういうことだ)」


 戦闘を終えたパーティの一人が、ふと、こちらへ目を向けた。少し離れた距離から、軽く手を上げる。


「あ、竜姫バニーちゃんだ! お疲れ様です!」


「お疲れ様です!」


 プリムが、手を振り返した。相手のパーティは、それ以上近づいてくることもなく、それぞれの方向へ進んでいく。


「……ダンジョンの中でも、認知されてるんだね」


「きゅるっ(……当然だ。貴様は、有名人になりつつある)」


「実感、あんまりないんだけど」


「きゅるる(……いずれ、嫌でも実感する)」


 フェンは、それ以上は言わなかった。プリムは水を飲み、谷間のエロスに話しかけている。


「エロスちゃん、今日の前半どうだった?」


「きゅるっ(……問題ない)」


「フェンとの連携、うまくいってるよね」


「きゅるる(……フェンの練度は、本物だ)」


「フェン、エロスちゃんが褒めてるよ」


「……エロス様に褒めていただくのは、光栄です」


 プリムが、ふふっと笑った。


「エロスちゃんのこと、エロス様って呼ぶんだね」


「……当然です。エロス様は、エロス様ですから」


 コメント欄で、ある流れが起きていた。


『気づいてる? フェンちゃん、常にプリムちゃんの死角をカバーしてる』

『これ完全に、護衛の動きだ』

『ミナりん:フェンさん……前回の配信からずっと、この位置をキープしてたんですね。プリムちゃんの死角を、全部埋めてる……』


「フェンちゃん、コメントが『ずっとプリムちゃんを守ってる』って」


「きゅるる(……見ていたのか)」


「えっ、エロスちゃんも気づいてたの?」


「きゅるっ(……気づいていた)」


 プリムが、フェンに向いた。


「フェン、ありがとう。気づかなかった」


「……護衛として、当然の配置です」


「でも、ずっとやってたんだね。前回の探索から、ずっと」


「……任務ですから」


「任務でも、ありがとうね」


(……なぜ、礼を言う)


 フェンは、答えなかった。当然のことをしているだけで、礼を言われる必要はない。しかし――なぜ、この女は、全てに礼を言うのか。

 その時、プリムが岩棚から立ち上がろうとして――バランスを崩した。足場の石が、濡れていた。


「わっ――」


 フェンの手が、出た。プリムの腕を掴んで、引き上げる。


「……足元に、注意してください」


「あ、ありがとう! 助かった……」


 プリムが体勢を立て直し、フェンはすぐに手を離した。


(……また、触れた)


 今日、何度目か。毎回、反射的に手が出てしまう。護衛対象が危うくなると、身体が先に動く。訓練で培った反応速度が、こういう場面でも働くのだ。


(……護衛として、正しい行動だ)


 そう、言い聞かせた。


 後半戦で、コメント欄が少し賑やかになった。


『乳の調べ:……本日も、見事な素材でした。なお、フェン氏の所作には、別種の美しさがある。記録します』

『Olivia_G:本日の谷間、実測値では確認できないが、目測では更新の兆しあり』

『フェンちゃん可愛い。応援してます』


「フェン! コメントで『応援してる』って」


「……」


「どう、嬉しい?」


「……感情は、ありません」


「ほんとに?」


「……はい」


『絶対ある』

『尻尾が少し揺れてたじゃん、今』


「フェン、尻尾が少し動いてたって言ってる人がいるよ」


 フェンは即座に、太腿の尻尾を確認した。巻きつけた根元はそのままだったが――先端の毛先だけが、ほんのわずかに揺れていた。


「……動いていません」


「でも、視聴者さんたちが言ってる」


「……カメラの揺れです」


「さっき、カメラ揺れてないよ」


「……」


(……先だけ、動いていたか)


 フェンは、黙った。


 7階層の偵察を終えて、ダンジョンを出た。夕方の空気が、出迎える。


 着地した右脚に、一瞬だけ力が入らなかった。ほんの半歩分の乱れ。プリムは気づいていない様子だった。


(……また、か)


 前回の探索でも、爪を出しかけた瞬間に、同じような遅れがあった。フェンは、それ以上は考えないことにした。今は、任務中だ。


 プリムがテールドローンを返却して、振り返る。


「今日もありがとう、フェン。すごく助かったよ」


「……護衛として、当然のことをしただけです」


「それでも、ありがとう」


 プリムが、にこっと笑う。フェンは、それを正面で受けた。避けなかった。今日はなぜか、避けることを思い出すのが、少しだけ遅かった。


 プリムが、鞄の中をごそごそと探る。


「あ、そうだ。フェン、これ」


 小さな保存容器が、出てきた。


「今日のお礼。今朝のおかず、少し多めに作って持ってきたんだ。よかったら、食べてね」


「……要りません」


「そっか」


 プリムが、また鞄に戻そうとする。フェンは、止めなかった。

 止めなかったが――その時、ふと、昨日、店で食べたカルボナーラの味を思い出した。あれは、確かに美味かった。この世界に来て初めて、まともにそう思った食事だった。

 あの時、プリムは自分のことのように嬉しそうに笑っていた。ならば、この女が自分のために差し出したものを食べれば、また同じ顔をするのだろうか。


(……いや)


 考えてから、フェンは小さく首を振った。少し多めに作っただけだ。自分のために用意したわけではない。期待するようなものではない。

 だが、容器から漂ってくる、かすかな香り。それが、どうにも鼻の奥に引っかかった。


「……少し、いただいても」


 口から、出ていた。


 プリムの動きが止まって、顔が明るくなる。


「ほんと!? よかった!」


「……食事の品質を、確認するだけです」


「確認って何!? まあいいや、どうぞ!」


 フェンは容器を受け取って、蓋を開けた。


 湯気は、もう立っていなかった。今朝作ったものを、出発前に保冷容器へ詰め、ずっとポーチへ入れていたのだから、当然だろう。

 香りだけが、かすかに残っている。甘くて穏やかで、昨夜のカルボナーラとは違う種類の匂いだ。あれは確かに美味かったが、これはもっと、こじんまりとした地味な匂いだった。


(……わざわざ、持ってきたのか)


 フェンは、一口食べた。


 料理は、すっかり冷えていた。


 それなのに――温かかった。


 美味いとか凄いとか、そういう感想が出てくる前に、まず、それだった。

 温度の話ではない。もっと、漠然とした何かが、胸のあたりを、ゆっくりと満たしていく。


(……なんだ、これは)


 もう一口。また、来た。素材は質素で、味付けも複雑ではないのに、食べるほどに、何かが解けていく。張り詰めていたものが、少しずつ緩んでいくような。


(……なぜだ)


 フェンには、分からなかった。


 隠密として世界中を渡り歩き、各地の食事を口にしてきた。貴族の饗宴も、戦場の兵糧も、路地の屋台も。味が良い料理なら、いくらでも知っている。

 だが――これほど、食べている間だけ「大丈夫だ」と思える食事は、記憶になかった。


(……あの女が、作ったからか)


 その考えが浮かんで、フェンは静かに打ち消した。


 そういうことでは、ないはずだ。


「どう? 美味しい?」


 プリムが、覗き込んでくる。


 フェンは、答えを考えた。美味しいという言葉は、知っている。ただ、今感じているのが、それだけなのかが、よく分からない。


「……」


 フェンは、もう一口食べた。返事の、代わりに。


「食べてくれてる!」


 プリムが、ぱっと顔を輝かせる。


「……確認は、できました」


「確認って言うな!」


「……」


 フェンは、また黙った。


(……美味しい)


 その言葉は、浮かんだ。でも、それだけじゃないような気もして、口には出せなかった。

 夜。アパートの玄関前の階段に、フェンは座っていた。

 カラオケのフルーツティー。コメント欄の声。反射的に出てしまった手。動いていたかもしれない尻尾。そして、冷えた料理の温かさ。


(……あの女の周囲にいると、制御が緩む)


 それは、分かった。では、その時、何を感じていたのか。


(……居心地が、良かった)


 居心地が良い。そんな感覚を、フェンは長い間、持ったことがなかった。任務が終われば、次の任務がある。安らいでいい場所など、どこにもなかった。


(……しかし、あの女の近くにいると)


 フェンは思考を止めて、扉に目を向けた。閉まった扉の向こう、電気はもう消えている。


(……あそこには、エロス様がいる)


(……私には、関係ない)


 フェンは膝を抱えて、目を閉じた。夜風が銀色の髪を揺らす。玄関前の階段は、路地より少しだけ、風が弱かった。


 ――居心地が良かった。その感触だけが、胸の奥に残っていた。それと、もう一つ。あの料理の余韻が、まだ消えていなかった。


 美味しくて、温かかった。その記憶の方が、強く残っていた。



     *



 一方、谷間の奥で、余は目を覚ましていた。

 扉の向こうからフェンの穏やかな呼吸が聞こえる。胸元からは、プリムの寝息が伝わってくる。


 フェンがこの場所に安らぎを覚え始めたことを、余は気配だけで察していた。


 居心地の良い夜だった。


 それでも、核の奥には消えない火がある。


(……グレゴール)


 余はまだ、何一つ忘れてはいない。


(……ヴェルゼア)


 あの時、逃げる以外に、何か違う道はあったのだろうか。


 核の赤が一度だけ濃くなり、静かに消えた。

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