忠臣は、籠絡される
買い物を終え、アパートに荷物を置いてから、カレンが言い出した。
「カラオケ、行かない?」
「え!? 行く!」
「フェンさんも来る?」
フェンは、一瞬、間を置いた。
「……カラオケとは、何ですか?」
受付のカウンターで、店員がプリムの顔を見た瞬間、一拍、手が止まった。
「……あ、いえ、何でもないです。3名様、フリータイムでよろしいですか?」
カレンが「うん」と答えている間、プリムはリモコンだかクーポンだかのパンフレットに気を取られていて、店員の反応には気づいていない。
待合スペースのソファにいた別の客たちも、ちらりとこちらへ目をやった。ひそひそと、何かを言い合っている。
店員は、レジの奥でこっそりスマホを取り出し、何か操作してから、慌ててポケットに戻した。
(……警戒ではない。だが、何だ、この視線は)
フェンは、その違和感を記憶の片隅へ留めておいた。任務中の癖だった。
カラオケの個室は、フェンが今まで入ったどんな部屋とも違った。暗くて、狭くて、音が閉じている。壁一面のソファ。正面に大きなモニター。テーブルの上には、意味の分からない機械。
「これ、なんですか?」
「リモコン。曲を選ぶやつ」
「……曲を、選ぶ?」
「カラオケ、知らないの?」
「……この街に来て、まだ日が浅いので」
フェンは、言いかけて止まる。任務のことは、口にしないほうがいい。
「あ、そうなんだ。じゃあ、説明するね!」
プリムが身を乗り出して、リモコンの使い方を説明し始めた。フェンは、それをきちんと聞いた。
最初に歌ったのは、プリムだった。探索者向けの盛り上がる曲。音程は危ういが、勢いはある。カレンが「音外れてる」と突っ込みながら、それでもノリノリで手を叩いていた。
フェンは、端のソファに座ったまま、2人を見ていた。
(……なんだ、これは)
プリムが画面の歌詞を目で追い、音を外しながら、楽しそうに歌っている。カレンが手を叩いて、笑っている。
楽しい、ということが――こういう形をしているのか。
「フェンも歌いなよ!」
「……歌いません」
「なんで?」
「……歌というものを、人前でしたことが、ありません」
「じゃあ、ちょうどいい! 初めて、やってみよ!」
「……遠慮します」
「じゃあ、これ持って!」
プリムが、テーブルの端からタンバリンを取って、フェンに押しつけた。
「歌わなくていいから、リズムだけ叩いて! こうやって、こう!」
「……これは」
「タンバリン! ほら、サビのとこで、シャンシャンって!」
フェンは、タンバリンを持ったまま、しばらく動かなかった。プリムが歌い出し、カレンが手を叩く。サビが、来る。
フェンは――一度だけ、ぎこちなく、タンバリンを振った。
シャン、と鳴った。
「あっ、鳴った! いいよフェン、その調子!」
もう一度。シャン。タイミングは、合っていなかった。それでも、振った。
「きゅるる(……フェン。貴様、存外、付き合いがいいな)」
谷間の奥から、からかうような声が届いた。フェンの耳が、わずかに伏せられた。
「……エロス様。これは、断ると角が立つと判断したまでです」
「きゅるっ(……そういうことにしておこう)」
フェンは、サビのたびに、タンバリンを振った。少しずつ、タイミングが合ってくる。本人は最後まで無表情のままだったが――耳だけは、ほんの少し、リズムに合わせて動いていた。
「フェン、上手くなってる!」
「……気のせいです」
一曲歌い終えて、プリムが息をつく。それから、ドリンクバーのメニューをフェンに押しつけた。
「歌わない代わりに、何か飲も! フェン、これとか飲んだことある?」
「……フルーツティーとは、何ですか?」
「果物のお茶。飲んでみたら?」
「……果物の、お茶」
フェンは、繰り返した。繰り返してから――「分かりました」と言った。
「フェンって、音楽とか好き?」
カレンが曲を選びながら、何気なく聞いた。
「……分かりません。あまり、触れる機会が、ありませんでした」
「仕事柄?」
「……はい」
「どんな仕事してたの」
フェンは、少し止まった。
「……隠密のようなことを」
「諜報?」
「……近いかと、思います」
「ふーん」
カレンは、また「ふーん」と言っただけだった。深く掘り下げず、あっさり次へ行く。
(……この女は、なぜこんなに話しやすいのか)
フェンは、自分が思ったより多くを喋っていることに、気づいた。
少しして、プリムがドリンクバーからフルーツティーを持って戻ってきた。フェンは、それを一口だけ飲んだ。
「……甘い」
「美味しいでしょ?」
「……はい」
「また飲む?」
「……いただきます」
2時間のカラオケを終えて、店を出た。
入れ替わりで店に入っていく学生グループが、すれ違いざま、二度見した。「あれ、今の……」という声が、扉の向こうへ消えていく。
プリムは、涼しい外気に伸びをしていて、気づいていない。
夕方の商店街は、人通りが増えていた。仕事帰りの人々、買い物客、屋台の呼び込み。雑踏の中を、3人は歩いていく。
その時だった。
フェンの足が、ふと、止まった。
耳がわずかに動き、鼻が空気を拾う。雑踏の中に、ひとつだけ混じる気配。プリムへ向けられた、粘りつくような視線。それと――やけに機材くさい匂い。興奮と緊張の混じった、妙に浮ついた匂いだった。
銀狼族の感覚が、明確に「異常」を捉えていた。
人混みの中に、男が一人。首から下げた小型カメラを、さりげなく――しかし明らかにプリムの胸元へ向けたまま、距離を詰めてくる。片手のスマホには、赤い録画マークと、その下に開いたままの投稿画面が見えていた。
《カラオケ店員らしきアカウント:竜姫バニーちゃん、駅前のカラオケ店に来店。銀髪の獣耳の子も一緒》
投稿時刻は2時間前。3人が受付を済ませた直後だった。
男は、それを頼りに走ってきたらしい。息が上がっている。カラオケ店を出た3人を見つけ、そのまま追跡に切り替えたようだった。
(……何をしている)
フェンは、男の口の動きを読んだ。「今夜のネタ」「本当にあそこに入ってるのか」「上からなら見えるかも」――途切れ途切れに、そんな言葉が聞こえてくる。
「きゅるる(……迷惑系というやつだな)」
谷間から、小さな声が届いた。
(……それが、この世界での呼び名か)
フェンは、考える前に動いていた。
歩く速度を、ほんの少しだけ上げる。プリムとカレンが「次、どこ行く?」と交わす会話を遮らないまま、自然に、プリムと男の間へ身体を滑り込ませた。
男が、小さく舌打ちした。
「昨日の切り抜きじゃ角度が悪かったんだよ……実物なら、谷間から本当に出てくるとこ、撮れるかもしれないのに」
角度を変え、もう一度カメラを向けようとしてくる。フェンは、また間に入った。今度はわずかに男へ視線を向ける。金色の瞳が、まっすぐに男を捉えた。
無表情だった。だが、その目には、隠しきれない圧があった。隠密として培った、殺気の一歩手前。「気づいている」「次はない」という、声を出さない警告。
男の足が、止まる。カメラを構えたまま、フェンと目が合った。
「……っ」
男の顔が、みるみる青ざめた。
「す、すみませんでしたぁ!」
そう叫びながら逃げ出した――はずなのに、男は3歩進んだところで、一度だけ振り返った。
フェンに再び睨まれると、顔を青ざめさせながら――なぜか、ほんのわずかに口元を緩め、人混みへ消えていった。
「きゅるる……(……あれは、まずい目だな)」
谷間の奥から、エロスの呆れた声が届いた。
「……何か言いましたか、エロス様」
「きゅるっ(いや、何でもない。気にするな)」
フェンには、その言葉の意味が分からなかった。
ただ、危険は去った。それで十分だった。
フェンは、男の背中が完全に見えなくなるまで視線で追ってから、何事もなかったように、プリムの斜め後ろの定位置へ戻った。
「フェン? どうかした?」
プリムが、振り返った。
「……いえ。何でもありません」
「そう?」
プリムは首をかしげて、また前を向く。何も気づいていない。今、自分の背後で何が起きかけたのかも、それが未然に防がれたことも。
それでいい、とフェンは思った。
知らせる必要はない。あの女が、この街を気に病むようになる必要はない。面倒なものは、見えないところで潰しておけばいい。
(……護衛として、当然の対処だ)
そう、自分に言い聞かせた。
言い聞かせてから――ふと、気づいた。
(……いつ、動いた)
考えて動いたのではない。気づいた時には、もう、プリムと男の間に立っていた。任務だからでも、命令されたからでもない。
ただ、あの女に、あの粘つくレンズを近づけたくなかった。それだけだった。
(……これは)
フェンは、その先を考えるのをやめた。
隣を見る。カレンが、こちらを見ていた。
カレンは、何も言わなかった。ただ小さく頷いて、視線を前に戻す。気づいていたのかもしれない。あるいは、フェンの動きだけを見て、何かを察したのか。
それきり、カレンは何も聞かなかった。
「ねえ、お腹すかない? ご飯にしよ!」
プリムが振り返って笑う。
その顔は、何も知らない、いつも通りの顔だった。
(……これでいい)
フェンは、小さく息を吐いた。
入ったのは、商店街の奥にある、落ち着いた雰囲気の店だった。
案内された席の近くで、若い男女のカップルが、こちらをちらちらと窺っていた。何かを言いかけては、顔を見合わせ、結局言わずに、また料理に戻る。それを、3度ほど繰り返していた。
フェンは、それにも気づいていた。この街では、もう見慣れた光景になりつつあるらしい。
フェンはメニューを開いて、少し考えた。
「……これは、何ですか?」
「ボロネーゼ。ひき肉のトマトソース」
「……これは」
「カルボナーラ。卵とチーズのクリームソース」
「……どちらが、美味しいですか?」
「どっちも美味しいよ! でも、初めてなら、カルボナーラのほうが食べやすいかも」
「……では、それを……」
メニューを閉じたフェンを、カレンがじっと見ていた。昨日よりも幾分柔らかい目だった。
「……何ですか」
「別に。ずいぶん馴染んだなって思っただけ」
フェンは、それに何と返せばいいか分からず、黙った。
料理が来た。フェンはカルボナーラをひと口食べて――止まった。
「……」
「美味しい?」
「……はい」
「よかった!」
プリムが嬉しそうに、自分のパスタを食べ始める。
フェンは、黙って食べ続けた。美味しい。この世界に来てから、まともな食事を取っていなかった。路地で夜を明かし、ダンジョンの中で動き続け、食事は二の次だった。
(……こんなに、美味しいものがあるのか)
向かいで、プリムがぱたぱたと足を動かしながら食べている。嬉しい時の癖らしい。昨日も、同じだった。
隣のカレンが「行儀悪い」と言いながら、プリムの足を膝で軽く押さえる。プリムが「ごめん」と言いながら、まるで反省していない顔をした。
フェンは、また食べた。
食事の帰り道。プリムが、ふと思い出したように言った。
「フェン、今日はどこで夜を過ごすの?」
「……路地で、問題ありません」
「路地って……外で寝るの?」
「任務上、常に外での待機が基本です」
「でも今は、任務じゃ――」
「プリムを護衛することが、任務です」
「……それなら」
プリムが、少し考えた。
「うちの部屋の前でもいい?」
「……」
「廊下なら外だし、部屋の中に入らなくてもいいでしょ。路地より近いほうが、護衛もしやすいかなって」
フェンは、返事をしなかった。しばらく歩いてから――小さく頷いた。
「……承知しました」
カレンは、その横顔を見て、口の端を上げた。
部屋の扉の前。路地より、ほんの数歩だけプリムに近い場所。
それでも、今のフェンにとっては、大きな違いなのだろう。
「カレン、また遊ぼうね!」
「また来るわよ、どうせ」
「やった!」
プリムが、笑う。フェンは、その笑い方を――1日で、もう何度見ただろうか。
(……いつのまにか数えていた)
フェンは立ち去っていくカレンの後ろ姿を見てから、空を見上げた。耳が、わずかに動いていた。




