幕間 眠れる闇姫は、谷間の魔王を見る
魔王城最奥、かつて謁見の間と呼ばれていた部屋には、もう誰も近づかない。
窓は暗幕で覆われ、灯りは燭台ひとつぶんだけ。絨毯に沈む椅子の上、ヴェルゼアは背筋を伸ばしたまま座っていた。腰まで届く黒紫の髪は結い上げられず、ただ力なく背へ流れている。食事は手つかずのまま下げられ、政務は側近へ丸投げされて久しい。三将軍への謁見も、財務の決裁も、すべて滞ったまま日だけが過ぎていく。誰も、彼女に何かを命じる勇気を持たなかった。
(……陛下)
あの夜のことを、何度も思い返していた。
――あの日、わたくしは陛下へ、長年の想いを告げた。《原初婚姻宮》の光輪が二人を包み、その首元へ腕を回した瞬間、これで永遠に二人だけになれると信じていた。
(陛下……誰にも、お渡ししません。ずっと、ずっと、二人だけで――)
だが、光は歪んだ。天井に潜んでいたグラトニースライムが術式へ飛び込み、二人から新たな命を紡ぐはずだった光輪へ、三つ目の命が混じり込んだ。生まれるはずだった新しい命の代わりに、陛下ご自身が、誕生直後の姿へ巻き戻された。
手のひらに収まる、小さな黒い雫。
恐怖よりも先に、抗いがたい愛おしさが込み上げた。後退る陛下を壁際へ追い詰め、両腕で抱き込んだ瞬間の多幸感を、今も覚えている。
だが、幸福は長く続かなかった。
魔界ネットで、ベビーカーを発注した。ラトルも、ベビーベッドも選んだ。おしめは、黒地に金の刺繍と竜柄で、最後まで迷った。尻尾を出す穴までついた、陛下のために誂えたような品まで見つけた。至れり尽くせりの、完璧な支度だったはずだった。
そして――ようやく、最も大切なことに気づいた。
(……お乳が、出ませんわ)
自分は、乳を出せない。そのための備えなど何一つ整っていなかった。産んでもいない、身籠りさえしていない身に、そんなものが出せるはずもない。分かりきっていたことなのに、腕の中の小さな重みを前にして初めて、その事実が刃のように突き刺さった。
絶望のまま、哺乳瓶を探しに厨房へ向かうことにした。カリスにだけ声をかけ、二人分の足音を残して部屋を出た。ほんの数分――それだけの隙に、陛下は消えていた。
誰もいない寝台代わりの布を見つけた瞬間、掠れた声で、それだけを呼んだ。
「陛下……」
あの声の掠れ方だけは、今も耳の奥に焼きついている。あれ以来、二度と、あんな声は出していない。
数百年、側近として傍らに侍ってきた。剣を振るう陛下の背を守り、玉座の陰から国を支え、誰よりも近くで見てきたつもりだった。それなのに、あの方の本当の孤独にも、飢えにも、最後まで気づけなかった。気づいていたのは、忠誠という名の壁の内側だけだった。
(……陛下は、決してわたくしから離れないと。そう思い込んでいましたわ)
その慢心が、今もヴェルゼアの胸を刺す。
扉が、遠慮がちに開いた。
「陛下……いえ、ヴェルゼア様。よろしいでしょうか」
入ってきたのは、宰相グレゴール・ザハークだった。手には、古びた金の球体があった。
「……何のご用でしょうか?」
「興味深いものを手に入れましてな。もし、この宝珠が――魔王陛下のお姿を、もう一度映し出すとしたら」
ヴェルゼアの肩が、初めて動いた。
「……戯言を言うために、わざわざ参ったのですか?」
「まさか。試してみるだけの価値は、あるかと存じますが」
(陛下の生死さえ分かれば、後継問題に片がつく。生きていれば、それはそれで使い道がある。腑抜けたままの魔王代行より、何かに執着しているヴェルゼア様の方が、まだ御しやすい)
打算を隠したまま、グレゴールは慇懃に一礼し、球体を卓へ置いた。
「わたくしが、触れれば……」
「魂の繋がりが強いお方ほど、像を結びやすいかと」
ヴェルゼアは長く黙ってから、震える指先で球体へ触れた。光が、灯る。
最初に映し出されたのは、狭い部屋の中だった。像は不安定で、時折ノイズのように歪む。エロスの気配を辿った糸が、その気配に紐づいた情報波――配信という形で、一瞬だけ世界へ流れ出た記録――を拾い集めているらしかった。
人間の少女が、慣れない手つきで、何かの装置に向かって喋っていた。
「えっと……これでいいのかな。竜姫メイル、テスト配信……」
少女の胸元に、黒く小さな塊が寄り添って吸い付いている。それが、少女の大きく突き出た双丘へ顔を埋めていた。喉を鳴らす、小さな音。
「……エルガディス様」
声にならない声が漏れた。あれは、乳を求める仕草そのものだった。飾りのない、剥き出しの、生きるための行為。
少女が、ふと画面の隅に気づいた。
「……あ、あれ!? これ、配信されてる!?」
慌てた手つきで、片腕で胸を隠しながら装置に何度も触れる。
「ま、間違えて登録しちゃってた……! 視聴者数は0だし、消えたよね……? 誰も見てないよね……?」
少女が、胸を撫で下ろしていた。安堵した様子で、画面が暗転する。
――だが、その一瞬は消えていなかった。ヴェルゼアの指先が触れた宝珠は、一度でも世界へ流れた記録を、確かに拾い上げていた。あの少女が「誰にも見られていない」と信じていた光景を、ヴェルゼアだけは、はっきりと見ていた。
(……あれが)
誰の手も借りず、装置も、儀式も、術式も要らない。少女はただ、その身のままで、陛下へ乳を与えていた。
(……わたくしには、逆立ちしても敵わない)
像が、大きく揺らいだ。
次に浮かび上がったのは、薄暗い岩陰だった。銀髪に狼の耳を持つ女が、傷だらけの姿でスライムを見据えている。
「エルガディス――」
言いかけた声を、鋭い鳴き声が遮った。
「きゅるるっ!」
フェンが、はっとしたように口を閉じる。何を告げられたのかは、像だけでは分からない。それでも、あの反応は――ただの威嚇ではなかった。
人間の少女が、戸惑ったように問う。
「そちらのスライムを、お返しいただきます」
「……飼ってるわけじゃ、ないよ」
「谷間に住まわせているのが、飼育でなくて何だと――」
エロスが谷間から身を乗り出し、フェンへ向けて激しく鳴いた。「きゅるるるっ!」
声の意味までは、ヴェルゼアには分からない。だが、少女がうろたえるでもなく、むしろ落ち着いた仕草でその場に留まり続けたことだけは、はっきりと見えた。
(……あの方は、逃げていない。あの場所に、ご自分の意思で留まっておられる)
誰かに奪われたのではない。あの方自身が、選び取った場所だった。かつて自分が捧げた玉座は、金と黒で誂えた冷たい椅子でしかなかった。あの方が本当に望んでいたのは、こんな、ただの人間の少女の腕の中だったというのか。
像が、また揺らいだ。今度は薄暗いダンジョンの広間。緑の巨体が、少女へ突進している。少女は黒い鎧を纏い、大剣を構えていた。
「きゅるる」
「……っ、分かった! アーティア!」
少女の胸元が、虹色に輝いた。
「……っ、んっ!」
声が、甘く掠れる。黒い核が、彼女の胸から強く吸い上げていた。鎧が剥がれるように次々と消えていく。肩当てが解け、ティアラが解け、装甲のほとんどが光の帯となって一点へ吸い込まれていく。残ったのは、薄い被膜と、その奥に埋まる小さな核だけだった。
(……あれは)
ヴェルゼアの喉から、声にならない音が漏れた。
自分は、あの方に乳を与えられなかった。母体の準備すら整っていないと悟り、絶望のまま厨房へ駆け込んだ隙に、あの方は消えた。
この少女は、迷いなく力の全てを与えている。乞われるまま、惜しむ素振りひとつなく。
(……わたくしが、できなかったことを)
先ほどの、あの光景が蘇る。装置も、儀式も、術式もなく、ただ乳を与えていた光景。あれが偶然ではなかったのだと、今、確信した。
(……母として、負けたのですね、わたくしは)
悔しさでも、恋情でもなかった。もっと単純で、もっと動かしようのない敗北だった。あの日、乳を与えられなかった自分。今、迷いなく与え続けているこの娘。比べるまでもなかった。
あの日、自分は確かに言った。
『だーめ。ママから離れてはいけませんわ』
なのに、陛下は逃げた。そして今、その陛下は――別の女の胸元を、ご自分の居場所に選んでいる。
「――これで、決めるんだからぁぁぁぁっ!」
金色の刃が、闇を裂いて振り下ろされる。巨体が崩れ落ち、少女がその場に膝をついて泣いていた。
「エロスちゃん……ありがとう。本当に、ありがとう」
少女が胸元へ手を当て、黒い核を、両手でそっと包み込む。そのまま、ぎゅっと抱きしめた。核の色が、明るいオレンジへ変わっていく。あの方が誰かの腕の中で、あんな穏やかな色を見せたことが、かつて一度でもあっただろうか。
ヴェルゼアの指先が、球体の表面で、かすかに震えていた。
(……妬ましい)
声には出さなかった。出せば、何かが決壊しそうだった。
像は、また移り変わる。柱に背を預けた銀髪の女が映った。狼の耳が、ぴくりと動く。
「……フェン」
見間違えるはずがない。長年、魔王の影として働き、共に任務をこなした隠密部隊長。エロス失踪の報を受け、誰にも告げず姿を消した、あの忠臣だった。
あの岩陰では、あれほど頑なにスライムを取り返そうとしていたはずだった。
像が切り替わる。今度は、薄暗いダンジョンの通路だった。
少女の斜め後ろを、フェンが当然のように歩いている。警戒するでもなく、身構えるでもない、ごく自然な足取りだった。
「フェン、そっちお願い!」
「……分かりました」
迷いのない返事だった。
プリム。その名も、初めて耳にした。フェンが、通路の脇から現れた影へ、迷わず爪を振るう。少女を庇うでも、命じられて動くでもない。当たり前のように、自分の持ち場をこなしていた。
像が、揺らいで消えた。
「……そこが、今のあなたの居場所なのですか」
返事はない。あれは、過ぎ去った時間の残響でしかない。
それでも、胸の内では感情が渦を巻いていた。生きていたという安堵。自分にはできなかった形で力を与えていたという嫉妬。拒まれても諦めきれない苛立ち。そして――長年、魔王の影として仕えたフェンまでもが、あの少女の後ろを歩いているという衝撃。
(……わたくしは、何を望んでいるのでしょう)
取り戻したいのか。せめて、傍にいたいだけなのか。それとも、ただ、あの温かそうな居場所を壊してしまいたいだけなのか。自分でも、答えが分からなかった。
「……フェンまで」
長く動かなかった椅子が、軋んだ。ヴェルゼアが、ゆっくりと立ち上がる。
(……これは、思った以上に効いておりますな)
グレゴールは、少し離れて窺っていた。目の奥で、算段が回っている。
(このお方が、あのスライムをどう思っているのか――憎んでいるのか、恋うているのか。どちらでも構わん。動いてさえくだされば、こちらの仕事は楽になる)
「して、いかがなさいます。魔王陛下を、あの人間の手からお取り戻しになりますか。それとも――」
「まだ、何も決めてはおりません」
ヴェルゼアの声は静かだったが、有無を言わせぬ強さがあった。グレゴールは、それ以上を口にしなかった。
「グレゴール。この宝珠について――すべて話しなさい」
その声に、先ほどまでの気力のなさはなかった。紅紫の瞳に、消えていた光が戻っている。
「……仰せのままに」
グレゴールは、深く頭を下げながら、内心で小さく舌打ちした。
(……厄介なことになったやもしれん。だが、目覚めた執着には、向ける先を与えればよい)
その打算に、ヴェルゼアは気づいていない。あるいは気づいたうえで、今はもう気にも留めていなかった。
閉ざされていた窓が、久方ぶりに、開け放たれた。
差し込んだ光の中に立つヴェルゼアの影は、長く、部屋の奥まで伸びていた。かつての参謀の顔にも、恋する女の顔にも見える、どちらとも定まらない表情のまま、彼女は久方ぶりに、政務棟へと続く廊下を見据えた。




