忠臣は谷間に主を見る
5階層のボスを撃破した、翌日の朝。
「エロスちゃん、今日もランニング行ってくるね。お留守番、お願いできる?」
「きゅるっ(……いつも通りだ。行ってこい)」
プリムが谷間からそっと余を抓み上げ、ベッドの上へ置いた。
「いってきまーす!」
玄関の扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。それを、余はベッドの上で聞いていた。
一人になった瞬間――いや、正確には、一匹になった瞬間。余の内側で、何かが疼いた。
(……この感覚は)
ゴブリンリーダーを撃破した時から、ずっと感じていた違和感だ。魔力の流れの底で、これまでとは違う何かが、溜まり続けている。
(……いや。溜まっているのではない。満ちているのだ)
余は、自分の核を見つめた。流体の奥の赤黒い核が、いつもより、わずかに大きく脈打っている。
(……来るな、これは)
プリムが出かけている、今のうちに確かめておくべきだ。そんな予感があった。
余は、流体をベッドから部屋の中央へと広げていく。ベビーの頃よりも、ノーマルになった今よりも、さらに大きく広げても――まだ、余裕がある。
(……いいだろう。受け入れる)
核の脈動に、自分から呼応した。
光が、弾けた。
『個体名:エルガディス(エロス)。種族:ファフニールスライム。属性:ノーマル――固有能力の追加解放を確認しました』
システム音が、頭の中で響いた。
(……固有能力、だと?)
次の瞬間、知識が流れ込んでくる。教えられたのではない。元々あったものの封が解かれ、表に出てきた――そんな感覚だった。
(……これは――)
暗黒竜としての記憶。負の感情を喰らい、力へ変えていた頃の、根源的な魔法体系。
(……魔法か)
余は流体の先端を細く伸ばし、意識を集中させた。世界の半分を震わせていた、あの頃の感触だ。
「きゅるる……」
先端で、漆黒の光がぱちりと弾けた。指先ほどの太さの雷が放たれ、一瞬で消える。
(……黒雷、か)
名は、すんなりと出てきた。暗黒竜の、最も基本的な攻撃手段のひとつ。負の感情を凝縮させて放つ、直線的な雷撃。
(……出せる。もっと出せるぞ、これは)
もう一度。今度は、壁へ向けて。
「きゅるるっ!」
ぱぁん、と空気が裂ける。黒い雷が、壁際の床に小さな焦げ跡を刻んだ。
(……威力の調整を、覚えねばな)
余は、自分の変化を丁寧に確かめていった。
まず、体積。これまでより、明らかに大きく展開できる。竜姫メイルの各部位も、プリムの身体がなくとも、形として虚空に再現できた。
腰の――竜尾バニーテールと呼ばれている部分。その形を、宙に象ってみる。
(……ここも、変わっているな)
ただの尻尾では、ない。硬質化させれば、鞭のようにしなる。
「きゅるる」
尾の先から、小さな黒雷がぱちりと弾けた。
(……ここからも、放てるのか)
流体は剣。尾は、鞭。そして、尾から放つ遠距離の雷。3つの間合いを、余ひとりで埋められる。
(……悪くない。いや――むしろ、都合がいい)
これまでは、近距離の格闘しかできなかった。遠くの敵には、プリムを近づけさせるしかない。だが、これからは違う。
(……これなら、あの女を、もっと安全な間合いで戦わせられる)
それに――と、余は思う。
配信というものは、都合がいい。余が強くなれば、その瞬間が、そのまま世界中へ流れていく。かつては戦場へ赴くしかなかったものが、今は谷間に収まったまま、世界の方が見に来るのだ。
(……悪い時代では、ない)
しばらく、一人で練習を続けた。威力を絞る感覚、伸ばす感覚、尾へ体積を回す感覚。どれも、身体の奥底に元から刻まれていたように、すんなりと馴染んだ。
窓の外で、足音が近づいてきた。
余は急いで、床の焦げ跡を確かめた。流体の端で何度も擦る。完全には消えないが、古い床の染みに紛れる程度には薄くなった。
玄関の鍵が、開いた。
「ただいまー!」
プリムが、汗を拭きながら入ってくる。
「きゅるっ(……おかえり)」
「今日もいい天気だった! あ、エロスちゃん、ベッドで大人しくしてたんだ」
「きゅるる(……ああ)」
余は、何も言わなかった。新しい力のことも、床の焦げ跡のことも――今は黙っておく。まだ完全に制御できたとは言い難い。見せるなら、実戦で確実に使えると判断してからだ。
(……それに、何も知らぬ顔がどう変わるか、少し興味もある)
プリムが余をひょいと抓み上げ、谷間へ戻した。
ランニングのあと、プリムはギルドへ寄り、昨日の魔石と素材を売った。ゴブリンリーダーの核込みで、金貨8枚。悪くない実入りだ。
ダンジョンの入口でテールドローンを受け取り、配信を始める。
『黄金豊穣胸魔剣の人だ!』
『今日も頼むぞ竜姫バニーちゃん』
『ミナりん:今日は別件でギルドにいるので、配信は全力で見てます!』
『ミナりんギルドの人なの?』
昨日の余韻が、コメント欄にまだ漂っている。
流体アーマーの上を、赤い光がゆるやかに走っていた。昨日の戦いを見た者たちの熱が、まだ続いている証だ。
5階層のボスは、昨日倒した。今日は、その先――6階層へ踏み込む予定だ。
「きゅるる(……今日は、6階層まで足を延ばす。慎重にいくぞ)」
「うん。慎重にね」
プリムが、6階層への階段を降りていく。道中のゴブリンは、もう危なげない。
「きゅるっ(……3匹、左前方)」
「分かった。アーティア」
星紋に触れる。「……んっ」と小さな声が漏れ、長剣が形になった。
プリムが踏み込む。1匹目を薙いで消し、2匹目は盾で弾いて押しのける。続けて3匹目を斬り払い、体勢を崩した2匹目にも追撃して――消した。流れるような連携だった。
「やった」
「きゅるっ(……問題ない。先へ)」
コメント欄が、軽快に流れていく。
『今日もスムーズだ』
『エロスちゃんの指示が的確すぎる』
そこへ、見慣れないアイコンが現れた。
『もふもふ保護協会:本日も良い光だ……。竜姫バニーちゃんがゴブリンを薙いだ瞬間、ツインテールが流れる角度は完璧だった。次は、逃さない』
『もふもふ保護協会だ』
『なんか撮ろうとしてる』
『もふもふ保護協会:エロス氏が谷間からひょこっと顔を出す瞬間こそシャッターチャンスなのだが、いかんせん予測不能。本日は終日、張り込む覚悟である』
『張り込みって言うな』
『撮り鉄みたいなノリだ』
『でも気持ちは分かる』
『Olivia_G:本日も観測を開始する。昨日のエロスハート発動時のデータを精査したが、出力パターンに、不明点が多い』
『脱がし屋は今日も分析』
(……分析する者と、撮る者か。ますます賑やかになってきた)
6階層の通路を、プリムは順調に進んでいく。
途中、3人組の探索者パーティとすれ違った。
「……あれ、竜姫バニーちゃん?」
「あ、はい!」
「昨日のエロスハート、すごかったです」
「ありがとうございます!」
相手の視線が胸元の余へ向いて、プリムはようやく、自分の格好を思い出した。
「……私、この格好で声かけられたんだ……」
じわじわと、頬が赤くなっていく。
「ダンジョンの中だと、配信のこと忘れて普通に動いちゃうんだけど……外で会うと、あ、見られてるんだって……」
「きゅるっ(……今さらか)」
「今さらだよ!」
プリムは両手で顔を覆い、しばらく唸っていた。
探索を始めて30分ほど。余は、ふと、奇妙な気配を拾った。
通路の奥の岩陰に、何かが――いる。
(……生き物の気配だ。だが、魔物では、ない?)
余はそっと、プリムへ感触を送った。
「きゅるる(……止まれ。誰か、いる)」
プリムが足を止める。
「え、どこ?」
「きゅるっ(……左の、岩陰だ)」
プリムが翠の瞳を向けた、その先。
岩陰から、音もなく――人影が滑り出てきた。
150センチあるかどうかの、小柄な人物。白銀の髪が、仄かに光っている。金色の瞳。頭の両側には、大きな狼耳。尻尾は、太腿にきつく巻きつけて固定されていた。
感情の読めない、フラットな顔。
だが、その姿は無傷ではなかった。灰色の外套は何か所も裂け、乾いた血が袖と脇腹にこびりついている。呼吸は静かだが、よく見れば浅い。気配を消す技術で覆い隠しているだけで、内側の魔力はひどく弱っていた。
(……馬鹿者。どれほど無茶をして、ここまで来た)
その視線が――プリムの胸元の余を、まっすぐに捉えた。
「……見つけました」
低く、静かな声だった。
「エルガディス――」
その瞬間。
「きゅるるっ!(……止まれ。ここでは余を、エロスと呼べ。配信中だ)」
フェンの目が、わずかに動いた。先ほどから一定距離を保って浮かぶ機械と、その赤い灯りへ視線を向ける。
余の制止とプリムの反応から、それが周囲へ映像を送る監視装置だと察したらしい。
一拍の、間。
「きゅるっ(……余計なことは、何も言うな。いいな)」
フェンが、微かに頷く。そして、言い直した。
「……エロスを。見つけました」
さっきより、低い声だった。
コメント欄が、爆発した。
『え!?!?!?』
『誰!?』
『銀髪の獣耳!』
『もふもふ保護協会:――ッ。新たな被写体、出現。耳。尻尾。毛並み。すべてが良い。カメラを構える手が、震えている。落ち着け、自分……』
『もふもふ保護協会が興奮してる』
『被写体って言った』
『Olivia_G:待て。あの耳と尻尾は本物か。光の反射を見るかぎり、毛の質感が通常の人間とは異なる。獣化型アーティファクトによる身体変化か――あるいは、別の何かか』
『脱がし屋が即分析』
(……フェン)
余は内心で舌打ちした。気配を消し、どんな場所にも潜り込む。かつての、直属の精鋭――余の配下の中で、最も優れた隠密だ。
(……追ってきたか。あいつなら……やりかねん)
「あの、えっと……」
プリムが、フェンと余を交互に見た。
「エロスちゃんの、知り合い?」
「きゅるる(……フェンだ。昔の部下でな。詳しくは、配信を終えてから話す)」
「そうなんだ……?」
フェンの金色の目が、プリムと余の間を一度だけ往復した。
配信中であることも、プリムが余の正体を知らないことも、それだけで察したらしい。
余が谷間の奥から発する「余計なことを言うな」という圧を受け、フェンは口を噤んだ。
「人間の女」
フェンが、プリムに向き直る。任務中の金色の瞳に、感情はない。
「そちらのスライムを、お返しいただきます」
「え」
「……私の、大切な方です。あなたのような一般の探索者が、軽々しく傍に置いて飼っていい存在では、ありません」
「……飼ってるわけじゃ、ないよ」
「谷間に住まわせているのが、飼育でなくて何だと――」
「そ、それは……エロスちゃんが、自分でそこに入るから……」
「きゅるっ(……余の意思だ。問題ない)」
「――っ」
フェンの無表情が、ほんの一瞬、揺れて――すぐに戻る。
「ま……エロス」
言いかけて、止まる。
「……そのような場所に収まるなど……あなたらしくない」
「きゅるる(……ここは、余が決めた玉座だ。貴様に口出しは、無用)」
長い沈黙が、通路に落ちた。フェンは、黙る。
その間も、コメント欄は動いていた。
『あの耳と尻尾、本物っぽい』
『獣化系アーティファクトってやつ? 身体強化と獣化が同時に出るやつ』
『Olivia_G:獣化型アーティファクトの可能性は高い。だが、あの動き方――訓練の質が、通常の探索者とは違う。単なるアーティファクト使いでは、ないかもしれない』
『脱がし屋がもう絞り込んでる』
『もふもふ保護協会:今、撮れた。岩陰から出てきた瞬間の一枚。逆光、銀髪、伏し目――生涯の一枚かもしれない』
『もふもふ保護協会が撮影に成功した』
『この人だけ目的が違う』
プリムが、おそるおそる口を開いた。
「あの……フェンさん、って言うんですか?」
「……はい」
「エロスちゃんのこと、すごく心配してたんですね」
「……心配では、ありません。当然の、確認行動です」
「そっか。でも、ここまで来てくれたんですね。すごいなぁ」
プリムが、そう言った。嫌みでも、皮肉でもない。ただ、そう思ったから言った――という顔だった。
フェンは、何も言えなかった。
わずかに――本当にわずかに、フェンの喉が動いた。何か言葉を探して、結局見つからなかったように見えた。
(……あの女、フェンにまで、あの調子か)
余は、内心で呆れた。長年の修練で、感情を表へ出さぬ術を身につけた隠密だ。それが、たった一言で、これほど分かりやすく固まるとは。
プリムは、フェンの様子をじっと見つめていたが、ふと表情を変えた。
「それより、フェンさん……怪我してますよね?」
「……問題ありません」
「問題あります。呼吸も苦しそうだし、血もついてます」
「この程度、任務の支障には――」
「だめです。治します」
プリムが、一歩詰め寄った。
「必要ありません。人間の力を借りるつもりは、ありません」
フェンの声は、平坦だった。だが、その平坦さの下に、微かな警戒が滲んでいるのを余は感じ取った。
プリムは、一度だけ引いた。
「……分かりました。でも、辛くなったら絶対に、言ってくださいね」
フェンは、答えなかった。ただ、金色の瞳が、わずかに揺れた気がした。
「じゃあ、一緒に来ますか?」
「……は?」
「ダンジョン探索、1人より2人のほうがいいし。フェンさん、強そうだもんね」
「……あなたは今、見知らぬ相手を『一緒に来ますか』と、誘いましたか」
「え?……だって、エロスちゃんの知り合いだし」
「それだけで、赤の他人を信用するのですか……」
「完全に信用は、してないですよ。でも、エロスちゃんが側にいるから、大丈夫かなって」
「きゅるる(……余は保証人ではない)」
「でもエロスちゃん、フェンさんのこと『昔の部下』って言ったでしょ。だから、私をいきなり襲ったりはしないかなって」
(……論理の飛躍が、過ぎる)
余は呆れた。だが、プリムは本気だった。
手が、伸びてくる。当たり前のように、フェンの方へ。
「よろしくね、フェンさん」
フェンは――一歩、退いた。
速かった。攻撃を避ける時と同じ、反射的な動きだった。
(……プリムの手を、避けた?)
フェンの鼻先が、ほんのわずかに動く。金色の瞳に、警戒らしきものが浮かんだ。
「エロス様のそばにいることは、認めましょう。ですが、私は私の判断で動きます」
「……じゃあ、一緒に来てくれるんですか?」
「……エロス様の護衛として、同行するだけです。あなたとパーティを組む気は、ありません」
「分かりました! じゃあ、よろしくお願いします」
「……」
フェンは、理解できないものを見るようにプリムを見つめていた。
(……フェン。苦労するぞ)
余は谷間の奥で、ぷるりと震えた。
自分にカメラが向いているのは、フェンも気づいていた。だが、それより――コメント欄が、問題だった。
『フェンちゃん!』
『フェンちゃん可愛い!』
『護衛って言ってたけど、実質パーティじゃん』
『さっきから「エロス様」って呼んでるけど、主従どっちが主なんだこれ』
『もふもふ保護協会:フェン氏、本日より重点撮影対象に追加。ツーショットは、家宝候補』
『もふもふ保護協会が一番喜んでる』
『家宝候補で草』
フェンは、そのコメントを、見なかったことにしたようだった。表情は動かない。
プリムの背中を追って、6階層の通路を進み始める。2歩後ろ――護衛の間合いを、きっちり保ちながら。
その足が、ほんの一度だけ揺れた。
だがフェンは、何事もなかったように歩き続ける。
(……馬鹿者。立っているだけでも限界ではないか)
一度だけ、プリムの背中を見た。すぐに視線を外したが、しばらくして、また見ている。
(……フェン。貴様、もう乱され始めているではないか)
本人は気づいていないらしい。
いや――気づかないふりをしているだけかもしれなかった。




