忠臣は葛藤する
6階層の奥は、これまでより明らかに、難易度が上がっていた。
魔力の濃度が増し、燐光が赤に近づく。通路は入り組み、視界が利かない。
プリムと、フェンと、谷間の余。2人と1匹は、慎重に通路を進んでいた。
「きゅるる(……今日は6階層を抜けて、7階層の入口を確認する。深入りは、するな)」
「分かってるよ」
「……エロス様の判断は、正しい」
フェンが、プリムの2歩後ろを歩きながら言った。その距離を、きっちり保っている。ちょうど、プリムの手が届かない間合いだ。
(……計算されているな)
余は内心で、苦笑した。
コメント欄が、ゆっくり流れていく。
『フェンちゃん同行してくれてる』
『この距離感、毎回律儀だな』
『護衛のプロって感じがする』
『もふもふ保護協会:フェン氏の歩行、無駄な揺れが一切ない。被写体として、完璧な静止画を量産できる予感がする』
『もふもふさん今日も仕事が早い』
最初の魔物が現れたのは、それから10分ほど後だった。
ゴブリンアーチャー。6階層から出る、初めての遠距離持ち――弓を構えた個体だ。通路の奥に2匹、こちらへ矢をつがえている。
「きゅるっ(……来るぞ。遠距離だ。フェン、左を頼む。右は――余がやる)」
「アーティア!」
プリムが星紋を起動し、長剣を形成した、その瞬間。
フェンが、音もなく前へ出ていた。
まだ、矢が放たれる前だ。フェンは、矢を見てから避けたのではない。ゴブリンアーチャーの肩、指、弓の角度――そのすべてから、放たれる前に射線を読んでいた。
矢が飛ぶ。身を斜めにひねり、半身で躱す。そのまま低く地を蹴り、距離を詰めた。
銀の爪が、一閃。左のアーチャーが、2射目をつがえる間もなく、光の粒になる。
残る1匹――右のアーチャーが、次の矢をつがえようとした、その瞬間。
「きゅるるっ!」
プリムの腰、竜尾バニーテールの先端から、漆黒の雷が一直線に走った。
矢を放つより、早い。黒雷がアーチャーの胸を貫き、短い悲鳴とともに、光の粒が散った。
通路に、静けさが戻る。
プリムが、自分の腰のあたりを見下ろして、固まっていた。
「……今の、なに?」
「きゅるっ(……黒雷だ。新しい技だ)」
「し、新しい!? いつの間に!?」
「きゅるる(……朝、練習した)」
「黙ってたの!?」
「きゅるっ(……驚かせたかった)」
「驚いたよ! めちゃくちゃ驚いた!」
コメント欄が、爆発していた。
『今の何!?!?』
『黒い雷!?』
『尻尾から出た!?!?』
『エロスちゃん、魔法も使えるの!?』
『フェンちゃんの速さもやばいけど、雷もやばい』
『竜姫バニーちゃん、近接・防御・遠距離まで揃った?』
『これ鉄級の装備じゃないだろ』
『エロスちゃん、ただのスライムじゃない説が濃くなってきた』
『Olivia_G:尾型装甲の先端から、放電現象を確認。流体アーマーが魔法を発動したというより、黒いスライム個体そのものの能力と見るべきだろう――興味深い』
『脱がし屋が「興味深い」って言うの珍しい』
『遠距離も出来るようになったってこと?』
『竜姫メイル、強化止まらなくないか』
『フェンちゃん、矢を見てから避けた?』
『いや、撃つ前に動いてなかった?』
『何者なんだこの子』
(……驚かせるつもりが、余の方が驚かれる側に回った気がする)
フェンも、わずかに目を見開いていた。
「……今のは」
「きゅるっ(……黒雷だ。今朝、目覚めた)」
「……魔力体系が、戻り始めているのですね」
「きゅるる(……ああ。少しずつ、だがな)」
フェンは、それ以上、何も言わなかった。ただ――その横顔に、何かが滲んだ気がした。
その後も、何度か魔物と遭遇した。
フェンは毎回、当然のようにプリムの死角を埋めた。余を守るためだと言い張るのだろうが、プリムへ向かう攻撃にも、身体が先に反応している。
(……護衛任務の一環、とでも考えているのだろうな)
一段落したところで、プリムが岩壁に背を預け、水を飲んだ。
『今、休憩タイムか』
『フェンちゃん全然休まないな』
『律儀すぎる』
「フェンさん、お水いりますか?」
「……要りません」
「お腹は? 簡単なものなら、持ってきてますけど」
「……要りません」
「そっか」
プリムはしばらく黙ってから、また口を開いた。
「フェンさんって、ずっとエロスちゃんを探してたんですか?」
「……はい」
「どれくらい?」
「……しばらく、経ちます。ここに来るまでに、時間がかかりましたので」
「ずっと、一人で?」
「……隠密の任務は、常に単独です」
「大変だったんですね」
フェンは返事をしなかった。
だが、プリムの顔を見つめたまま、わずかに言葉を失っている。
(……また固まっているぞ)
水を飲み終え、フェンが立ち上がろうとした、その時。
右手の爪が、ほんの一瞬だけ銀色に揺らぎ、すぐに消えた。フェン自身も気づいていないほどの、小さな乱れだった。
余は、それを見逃さなかった。
(……今のは)
休憩を終え、また歩き出す。
帰り道で、小さなトラブルがあった。
見落としていたゴブリンファイターが1匹、天井の岩棚に潜んでいたのだ。それが真上から落ちてきたのは、プリムが通り過ぎた、その直後だった。
フェンが、一瞬、右手を押さえる。銀の爪が出かけて、途中で消えた。
その刹那。
フェンが動くより早く――プリムが、動いていた。
振り返りざま、フェンの腕を身体ごと引き寄せる。フェンが元いたその場所へ、ゴブリンが着地した。
「危ないっ!」
次の瞬間には、余が大剣を形成し、プリムがゴブリンを薙ぎ払っていた。
静寂が、戻る。
コメント欄が、激しく揺れた。
『今の反応速度!?』
『フェンちゃんを庇った!?』
『竜姫バニーちゃんが一瞬で判断した』
『これは草じゃなくて、普通にすごい』
『もふもふ保護協会:今の一瞬、撮れていない。悔しい。だが、目には焼き付けた』
『もふもふさんカメラより目で追ってた』
プリムが、フェンの腕を掴んだまま、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? 怪我、ない?」
フェンは――固まっていた。
掴まれた腕へ視線を落とし、次いで間近にあるプリムの顔を見る。狼耳がわずかに強張り、呼吸が止まった。
(……プリムの、あの甘い香りをまともに浴びたか)
「フェンさん?」
「……っ、離して……ください」
「あ、ごめんなさい!」
プリムが、慌てて手を離す。
『なんか今、空気変わらなかった?』
『フェンちゃんの反応……』
『一瞬固まってたよな』
『ミナりん:フェンさん、ちょっと照れてました……? いえ、気のせいかもしれません……』
『ミナりんが言うなら、多分そう』
フェンはすかさず2歩下がり、呼吸を整えた。鼻先がわずかに動いたかと思うと、意識的に呼吸を浅くしている。
(……香りを遮断したか)
「……問題、ありません。ご心配なく」
「そう、よかった……」
プリムが、ほっとした顔をした。フェンはそれを見ずに、視線を逸らし、通路の奥を確認するふりをした。
(……まだ、動揺が抜けていないらしいな)
ダンジョンを出たのは、昼過ぎだった。
今日は6階層を抜け、7階層の入口まで確認できた。明日は、いよいよ7階層へ踏み込める。
「今日はここまでにします。フェンさんも、付き合ってくれてありがとうございました」
『フェンちゃんとの初共闘お疲れ様!』
『フェンちゃん登場の回、最高だったね』
『お疲れ様でした、竜姫バニーちゃん』
『もふもふ保護協会:本日の戦果、フェン氏の写真32枚。厳選作業に入る。お疲れ様でした』
『もふもふさん戦果報告するの草』
「ありがとうございました。それでは、切断します」
テールドローンの赤いランプが、消えた。
プリムがテールドローンを返却している間、フェンは少し離れた場所に立っていた。
余はプリムの胸元から、フェンの姿を、そっと見ていた。
(……フェン)
立ち姿は、いつも通りだ。無表情で、気配を消した、完璧な佇まい。プリムには、何も見えていないだろう。
だが、余には分かった。
出口へ向かう途中、一度だけ――右の爪を出す手が、ほんの一瞬、震えた。フェン自身も気づかないほどの、小さな震え。だが、それで十分だった。休憩の時の、指先の遅れと同じものだ。
(……傷だけではない。境界門を破った代償が、まだ身体の奥に残っているのか。さては、相当な無理をしたな)
余は、何も言わなかった。
言う必要は、今はない。
「きゅるる(……フェン)」
「……何ですか、エロス様」
「きゅるっ(……今日は、よくやった)」
フェンは黙った。
いつもなら即座に返すはずの言葉が、わずかに遅れた。
「……ありがとうございます」
プリムが、テールドローンを返却して戻ってきた。
配信中から何度も気にしていた、フェンの裂けた外套と乾いた血痕へ、改めて視線を向ける。
「フェンさん、やっぱりその怪我、放っておけません。私なら治せるかもしれません。少しだけでも診せてください」
「不要です」
「でも、そのまま外にいるなんて駄目です。せめて、うちで休んでください」
「護衛対象と同じ室内で休む理由はありません」
「せめて、玄関だけでも――」
「不要です。これ以上近づくなら、場所を移します」
「きゅるる(……フェン)」
余が、低く鳴いた。
「……何でしょうか、エロス様」
「きゅるっ(……これは命令だ。傷だけでも治せ。血を流したままでは、護衛の役にも立たぬ)」
「……しかし、人間の力を借りるなど」
「きゅるる(……プリムの力は、すでに余の力でもある。異論は認めん)」
フェンは、黙り込んだ。
「……承知しました」
プリムは急いで小瓶を取り出した。原液ではない。ギルドへ渡すものと同じように、水で薄めたアムリタだった。
「これなら身体への負担も少ないと思います。ゆっくり飲んでください」
「……いただきます」
フェンは警戒するように匂いを確かめてから、ほんの一口、口に含んだ。
次の瞬間、金色の瞳がわずかに見開かれた。
淡い光が全身を巡り、裂けた皮膚が塞がっていく。浅かった呼吸が整い、青ざめていた頬にも、少しずつ血の気が戻った。
「……これは」
「傷、どうですか?」
フェンは右手を握り、静かに開いた。外傷は消えている。だが銀の爪を出そうとした瞬間、光がわずかに揺らいだ。
「……傷は、治りました。しかし、力までは戻っていません」
「きゅるる(……当然だ。境界門を破った代償は、ただの傷ではない)」
「でも、痛いところがなくなったなら、よかったです」
プリムが安心したように笑う。
フェンは、その顔から目を逸らした。
「……礼は、言いません」
「うん。元気になったなら、それでいいです」
「……」
フェンは、また何も言えなくなっていた。
裂けた外套はプリムが半ば強引に預かり、代わりに学院時代の古い上着を押しつけた。フェンは最後まで拒んでいたが、エロスの一声で渋々袖を通した。
*
夜。
プリムは、早々に眠った。ボスを倒した翌日に、6階層を抜けて7階層の入口まで足を延ばしたのだ。疲れていないはずがない。
フェンは、アパートの前の路地に座っていた。中には入らず、護衛として、近くにいる必要があった。
窓の明かりは、消えている。
フェンは膝を抱え、夜の空気を吸った。
鼻腔には、まだ、かすかにあの香りが残っている。
銀狼族の嗅覚は、人間の数十倍だ。良い香りも、悪い香りも、人間よりずっと鮮明に届いてしまう。あの香りは――甘くて、温かくて、どこか懐かしいような、良い香りだった。
(……関係ない)
フェンは、鼻を押さえた。
その時、窓の向こうで、小さく動く気配があった。プリムではない。もっと小さな、何か。
夜中に目を覚ました小さな黒いスライムが、プリムの谷間から這い出した。日中にも何度か見た動きだった。周囲を確かめるように小さく動き、やがてまた、当然のように谷間へ戻っていく。
(……エロス様が、あそこに)
フェンは、目を細めた。
温かくて、柔らかそうだった。谷間に収まり、プリムの寝息に包まれて眠るエロス様は――どこか、安らいで見えた。
(……羨ましい、などという感情は)
フェンは、そこで思考を切った。
(……ない。断じて、ない)
立ち上がり、アパートの周囲を確かめるように、夜の路地を足音もなく歩き出す。銀色の、冷たい月が出ていた。
(……任務中に、感傷的になるな)
フェンは、自分に言い聞かせた。言い聞かせながら――一度だけ、窓を振り返る。
暗い窓は、中が見えない。
何も見えないのに、フェンはしばらくの間、そこから目を離せなかった。
明日、7階層へ降りる。深くなれば、危険も増す。護衛として、気を引き締めねばならない。
そう、自分に命じた。
なのに、頭に浮かんだのは、7階層の魔物のことでも、警戒すべき危険のことでもなかった。
――明日もまた、あの「すごいな」とか「大変だったんですね」とかを、無防備な顔で言ってくるであろう、あの少女のこと。
(……厄介だ)
フェンは夜の闇へ、ひとつ、ため息を落とした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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