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亡国の侍 異世界転移譚  作者: Lambzono
第一章 砦

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第九話 はじまりの村

 ベズラス谷を出ても、左肩の疼きは残った。


 失われた腕の奥で、何かがゆっくり脈打っている。


「まだ痛みますか」


 後ろを歩くミレアが尋ねた。


「痛みというほどではありません。少々、重いだけです」


 ミレアは歩きながら銀盤をかざした。


 中央の石が淡く光る。


「谷の中よりは弱くなっています」


「では、離れれば収まるでしょう」


「そうとは限りません」


「では、収まらなければ考えましょう」


「先に考えてください」


「歩きながら考えております」


「そうは見えません」


 八郎は小さく笑った。


 先頭を歩くセレナが振り返らずに言う。


「強くなれば申告しろ」


「承知しました」


「倒れてからでは遅い」


「そこまで我慢するつもりはありません」


「信用できないな」


「会って日が浅いので、仕方ありませんな」


 シュミが振り返った。


「日が経てば信用されると思ってる?」


「努めるつもりではいます」


「何を?」


「申告を」


「そこからなんだ」


 谷の岩壁が遠ざかるにつれ、街道には草木が戻ってきた。


 鳥の声が聞こえる。


 風に揺れる枝の音もある。


 ベズラス谷では消えていた、生き物の気配だった。


 それでも疼きは消えなかった。


 八郎は、まだ谷が近いからだろうと考えた。


 地脈というものが、谷口を出たところで途切れるとも思えない。


 この世界の術については、知らぬことの方が多かった。


     ◇


 林へ入る前に、一度だけ休憩を取った。


 ミレアは水を飲むより先に、八郎の右腕を診た。


「握ってください」


 八郎は右手を閉じた。


 岩裂きの爪を剣で受けた時の痺れが、指先に僅かに残っている。


「筋と腱を傷めています」


「剣は握れます」


「握れることと、傷がないことは別です」


 ミレアは前腕へ掌を当てた。


 淡い光が皮膚の下を走る。


 残っていた鈍さが、ゆっくり消えていった。


「もう一度」


 八郎は拳を作った。


 今度は違和感がない。


「治りましたな」


「損傷は治しました。疲労までは消えていません」


「剣は?」


「持てます」


「では問題ない」


「振ってよいとは言っていません」


「必要になれば振ります」


「必要にならないようにしてください」


「それは魔物へ頼むべきでしょう」


 シュミが横で笑った。


「八郎より聞き分けがいいかも」


「俺はそれほどですか」


 誰も答えなかった。


「沈黙は肯定と取りますよ」


「好きにしろ」


 セレナが立ち上がった。


「日暮れまでに村へ入る」


     ◇


 日が西へ傾く頃、廃村が見えた。


 街道の両側へ、崩れた石垣が続いている。


 その向こうには、屋根を失った家々が並んでいた。


 戸口は暗く、窓板は外れ、草が室内まで入り込んでいる。


 煙も、人の声もない。


「ベズラス村」


 シュミが言った。


「昔は、採掘場で働く人たちが住んでた」


「今は誰も?」


「見れば分かるでしょう」


 村の入口には、魔獣除けの標柱が二本残っていた。


 片方は根元から折れている。


 もう片方も刻まれた文字の多くが剥がれ、光を失っていた。


 セレナが地面へしゃがみ込む。


 足跡を確かめ、周囲を見回した。


「大型の魔獣が入った痕跡はない。今夜はここを使う」


「安心してよいと?」


 八郎が尋ねた。


「安心するな。休めるだけだ」


「違いが難しいですな」


「分かるまで警戒していろ」


 一行は村の中央にある家へ入った。


 屋根が半分残り、壁の一部は石造りだった。


 床には枯れ葉と埃が積もっている。


「ここ、パン屋だった」


 シュミが竈を覗き込んだ。


「覚えているのですか」


「子供の頃に来た。焦げたパンをもらった」


「旨かった?」


「焦げてた」


「それは残念ですな」


「ただだった」


「なら悪くない」


 シュミは煙道を確かめた。


「詰まってる。火は外で焚いた方がいい」


 セレナは荷を下ろした。


「シュミは井戸。ミレアは八郎の肩を確認しろ。私は村を一巡する」


「俺は?」


「ここへ残れ」


「荷物番ですか」


「調査対象の管理だ」


「似たようなものですな」


 セレナは黒魔石の試料を収めた銀筒を、部屋の奥へ置いた。


「触るな」


「承知しました」


「開けるな」


「触らずに開けるのは難しいでしょう」


「屁理屈を言うな」


「開けません」


 三人がそれぞれ動き始める。


 ミレアは八郎の左肩へ銀盤をかざした。


 緑色の光は弱いまま、消えていない。


「まだ残っていますね」


「谷からは離れたつもりですが」


「地脈は地上の形どおりには流れません」


「まだ谷の影響が続いていると」


「その可能性はあります」


 八郎は石壁を見た。


「壁を隔てれば変わるでしょうか」


 ミレアも壁へ目を向ける。


「確かめる価値はあります」


「では俺が外へ」


「セレナが戻ってからです」


「二人で足りるのでは」


「何か起きた時、私一人で止められると思いますか」


「何を止めるのです」


「八郎さんを」


「俺は何もしませんよ」


 ミレアは答えなかった。


「また沈黙ですか」


     ◇


 セレナが戻ると、村外れの石造りの家を使って試すことになった。


 ほかの家より壁が厚く、屋根も一部残っている。


 セレナが先に中を調べ、八郎を呼んだ。


「入れ」


 八郎は戸口を跨いだ。


 中は薄暗かった。


 風が抜け、床の埃を僅かに動かしている。


 倒れた棚の周りには、頁の抜けた本、丸いガラス片、錆びれた鉄鍋が埃をかぶって転がっていた。


 八郎はそれらを踏まぬよう進み、部屋の奥で足を止めた。


 セレナとミレアは外。


 黒魔石を収めた銀筒も外にある。


「どうだ」


 壁越しにセレナの声がした。


 八郎は左肩へ意識を向けた。


「変わりません」


「弱くもならない?」


 ミレアが尋ねる。


「ええ」


「石壁でも同じですか」


「そのようですな」


 ミレアが室内へ入り、銀盤をかざした。


 光は変わらない。


「壁では遮れない」


「まだ谷の影響が続いているのでしょうか」


「断定はできません」


 セレナが銀筒を持って入ってきた。


「試料も確認する」


 ミレアの顔が僅かに険しくなる。


「ここで開けるのですか」


「変質していないか見るだけだ」


「短時間にしてください」


 セレナは銀筒を床へ置いた。


 八郎は壁際に立つ。


「何か変われば、すぐ言ってください」


「承知しました」


 一つ目の留め具が外れた。


 二つ目。


 蓋が僅かに浮く。


 左肩の奥へ、鋭い疼きが走った。


「……待ってください」


 セレナの手が止まる。


「変化したか」


「ええ」


 八郎は右手で肩口を押さえた。


 幻の左手が、強く握り込まれる。


 指の一本一本が、先ほどまでより明瞭だった。


 ミレアの銀盤が光を増す。


「蓋を閉じて」


 セレナが銀筒を閉じた。


 疼きが弱まる。


 完全には消えない。


 だが、違いは明らかだった。


 シュミが銀筒と八郎の空の袖を見比べた。


「谷じゃない」


 セレナは銀筒を見下ろした。


「この石か」


「少なくとも、反応を強めています」


 ミレアが言った。


「もう一度開ける」


「駄目です」


「距離も確かめる必要がある」


「八郎さんの身体への影響が分かりません」


「俺はまだ立っています」


 八郎が言うと、ミレアがすぐに振り返った。


「だから何です」


「試せるということです」


「倒れるまで試す気ですか」


「そこまでは」


「信用できません」


「皆、俺を信用しませんな」


「今は特に」


 セレナは銀筒を持ち上げた。


「今日は開けない。距離だけ見る」


 一行は家の外へ出た。


 セレナが銀筒を持ち、八郎から離れる。


 十歩。


 十五歩。


 左肩の疼きが薄くなる。


「軽くなりました」


 さらに離れる。


 二十歩。


 幻の指の輪郭も弱まった。


「距離でも変わる」


 ミレアが銀盤を見た。


「黒魔石そのものへ反応しているようですね」


 八郎は左肩へ触れた。


「だから谷を離れても残っていたのですな」


「試料は銀筒から出さない」


 セレナが言う。


「町へ戻るまで、八郎との距離を取る」


「隊列が長くなりますね」


「貴様が近づかなければ済む」


「承知しました」


「本当に?」


「そこまで疑われると、少々傷つきますな」


「左肩以外も痛むのか」


「今のは心の話です」


「診る必要はありませんね」


 ミレアが言った。


「冷たい御仁ですな」


 日が沈み始めていた。


 四人は宿に決めた家へ戻る。


 八郎は一度だけ、石造りの廃家を振り返った。


 暗い戸口の奥に、長く捨て置かれた物が眠っている。


 その家で八郎は初めて知った。


 失われた左腕を疼かせているものが、谷ではなく、黒い石の欠片なのだと。


     ◇


 火は家の外に起こした。


 煙道は詰まり、竈はとうに役目を終えていた。


 夕食は黒パンと乾燥肉、それに残っていた岩傘茸だけだった。


 八郎は茸を鼻先へ近づける。


「まだ食えます」


「毎回やるんだ」


 シュミが笑う。


「腹を壊してから悔やむより早いですので」


「味噌あればもっと美味しいんでしょ」


「ええ」


「また言った」


「二度目ですな」


「三度目」


 八郎は小さく笑った。


 四人は焚火を囲んだまま食事を終えた。


 しばらく誰も口を開かなかった。


 やがて八郎が、火の向こうの廃屋を見た。


「急いで村を捨てたようですな」


 シュミも同じ方を見る。


「魔獣」


「それだけですか」


「だんだん増えた」


「だから誰もいなくなった」


 それだけだった。


 八郎も、それ以上は聞かなかった。


     ◇


 夜番は八郎とセレナから始まった。


 焚火へ薪を一本くべる。


 火の粉が夜空へ舞い上がった。


「一つ聞く」


 セレナが言う。


「何でしょう」


「なぜシュミを助けた」


 八郎は少しだけ考えた。


「目の前にいましたので」


「死ぬかもしれなかった」


「でしょうな」


「怖くなかったか」


「怖くない者はおりません」


「そうは見えなかった」


「怖くても動かねばならぬ時があります」


 セレナは焚火を見つめたまま言った。


「次からは一人でやるな」


「承知しました」


「約束できるか」


「努めます」


「……それでいい」


 静かな夜だった。


 廃村には、風の音しか残っていない。


     ◇


 翌朝。


 一行は火を消し、ベズラス村を後にした。


 誰も振り返らなかった。


     ◇


 昼前には砦町へ戻った。


 工房では、ガルドが炉の前で待っていた。


 シュミが包みを差し出す。


 ガルドは布をほどき、ベズラス石を取り上げた。


 小槌で一度だけ叩く。


 澄んだ音が工房へ響いた。


「……悪くない」


 短く言う。


 シュミは何も返さなかった。


 だが、その横顔だけで十分だった。


「三日だ」


 ガルドが八郎を見る。


「待ちます」


「刀が直るまでじゃない」


「分かるまでだ」


「承知しました」


 その時だった。


「イヴァ・ハチロー」


 医療院の若い衛士が工房へ入ってきた。


「アルヴァン先生がお呼びです」


「俺でしょうか」


「はい」


「何かありましたか」


「北方巡察隊の古い記録について、お聞きしたいことがあるそうです」


 古い記録。


 その言葉に、ミレアとセレナも顔を見合わせた。


 八郎は静かに頷く。


「参りましょう」


 工房の奥では、ガルドがもう炉へ火を入れていた。


 乾いた槌の音が、町の昼へ溶け込んでいく。




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