第十話 北から
医療院から来た若い男は、八郎を急かしはしなかった。
ただ、アルヴァンが待っていると告げると、そのまま先に立って歩き始めた。
八郎は工房を振り返った。
戸の奥から、金槌の音が聞こえている。
ガルドは三日と言った。
直るとは言わず、直るかどうか分かるまで三日。職人としては、それ以上の約束はできないのだろう。
八郎は腰に残った脇差へ右手を添え、医療院へ向かった。
砦町は、帰還した時より騒がしかった。
谷から戻った一行を見た者たちが、道の端で何かを囁き合っている。岩裂きのことか、廃村のことか。それとも、銀筒に収めて持ち帰った黒い石のことか。
八郎には判別がつかなかった。
人の噂とは、得てして足だけが速い。
医療院の奥にあるアルヴァンの部屋には、古びた帳面が積まれていた。
机の中央には北方の地図が広げられ、色の褪せた紐が何本も、その上を這っている。
アルヴァンは窓際の椅子に座り、帳面の一冊を読んでいた。ミレアは机の向こうで紙と筆を用意している。
セレナもいた。
壁際に立ち、腕を組んで地図を見下ろしている。
「来たか」
アルヴァンは帳面から目を上げた。
「座れ。君の肩について、もう一度聞きたい」
「承知しました」
八郎は空いた椅子へ腰を下ろした。
机の端には、あの銀筒が置かれていた。さらに厚い木箱へ収められ、蓋の上には幾重にも紐が巻かれている。
それでも左肩の奥に、ごく鈍い疼きがあった。
八郎が目を向けると、ミレアが気づいた。
「今も痛む?」
「少しだけ」
「谷にいた時と比べて」
「大したものではありません。場所が分かるほどでもない」
ミレアはそのまま書き留めた。
アルヴァンが指を一本立てた。
「順に確認する。谷で最初に痛みを覚えたのは、黒い石を見る前だったな」
「ええ。谷へ入って、しばらくしてからです」
「岩裂きと戦った時は」
「強くなりました。ただ、あの時は肩どころではありませんでしたので」
「廃村へ移った後は」
「谷を離れても残りました。銀筒を外へ置き、石壁の中へ入っても変わりませんでした。ですが、筒から離れるほど弱くなり、蓋を開けると強くなりました」
「石壁では変わらず、距離と筒の開閉で変わったか」
アルヴァンは独り言のように呟いた。
ミレアが八郎の左肩へ視線を向ける。
「父さんの術式が、あの石に引かれているの?」
「そう単純なら苦労はしない」
「じゃあ何」
「それを今から調べる」
アルヴァンは帳面を閉じた。
「ただし、君の肩だけを眺めていても分からん。あの谷と、周辺で起きたことを合わせて見る必要がある」
机の地図へ、節くれ立った指を置く。
ベズラス谷から北へ、細い線が伸びていた。
「北方巡察隊の経路だ。古い記録を倉庫から出させた」
セレナが地図上の色褪せた紐を指した。
「赤が現在の巡察路。薄い青が二十五年前。灰色が、それよりさらに古いものです」
八郎は地図を見た。
灰色の紐が最も北まで伸びている。
薄い青は、その途中で途切れていた。現在の赤はさらに短く、砦町から大きく離れない範囲を囲んでいる。
「随分と狭くなっていますな」
「村が減ったからよ」
ミレアが答えた。
「人がいなくなれば、巡察に出る理由も減る。道も使われなくなる」
「逆でもある」
セレナが言った。
「巡察隊が届かなくなったため、捨てられた村もあります」
どちらが先であったのか。
八郎には、まだ分からなかった。
人が去ったため守れなくなったのか。守れなくなったため、人が去ったのか。
アルヴァンが一冊の帳面を八郎の前へ滑らせた。
紙は黄ばみ、端が脆くなっている。文字は読めなかったが、行の間にいくつもの印が書き込まれていた。
「二十五年前の報告だ」
アルヴァンが言った。
「魔獣の目撃自体は、それ以前から珍しいものではない。北方の村が襲われることも、巡察兵が命を落とすこともあった」
「では、何が違ったのです」
「報告の内容だ」
アルヴァンは帳面を開き、該当する箇所を指でなぞった。
「それまでは、同じ種が群れ、獲物や縄張りを求めて人里へ来た。ところがこの年から、生息域も食性も異なる魔獣が、同じ時期に、同じ方向へ動き始めた」
「岩角鹿、穴潜り、灰牙狼」
セレナが別の帳面を開く。
「灰牙狼は岩角鹿を襲います。穴潜りは大型の獣を避ける。それが互いに争わず、同じ道を南へ下った」
「人里を襲ったのですか」
「進路にあった村は襲われています」
セレナが答えた。
「ただし、人や家畜を求めて立ち寄ったのではありません。柵を破り、家屋を倒し、道を塞いだ者へ襲いかかり、そのまま南へ進んだ」
「人を狙ったというより、邪魔なものを退けた、と」
「記録だけを読めば、そう見えます」
アルヴァンが腕を組んだ。
「あるいは、立ち止まる余裕すらなかったのかもしれん」
八郎は地図へ目を戻した。
北から南へ伸びる道。
その途中には、今は名だけが残る村もある。
「当時は、餌場の変化に伴う集団移動と判断されています」
セレナが言った。
「進路上で被害は出ましたが、群れが通り過ぎた後は静かになった。だから、一時的な異変として処理された」
「だが、終わらなかった」
アルヴァンが続けた。
「数年置きに、似た報告が繰り返された。群れの規模は次第に大きくなり、北側の巡察所が一つ閉じられた。その後、二つの村が巡察範囲から外れた」
指が地図の上を南へ下る。
最後に、ベズラス谷の西側で止まった。
「この頃から、あの辺りへ入る者が減っている」
「黒い石については」
八郎が訊いた。
「記録にない」
「見つけていなかったのか、記さなかったのかも分からないわ」
ミレアが答えた。
アルヴァンは、もう一冊の薄い帳面を取り上げた。
「ただし、妙な書き込みがある」
それは公的な記録とは違い、表紙に名前も役職もなかった。何度も開かれたらしく、糸綴じの一部がほどけている。
「当時の巡察兵が、報告書の控えへ自分の所感を残している」
アルヴァンは一行ずつ読み上げた。
「異なる獣が争わず、同じ道を下った」
部屋が静かになった。
「移動と記されたが、私には退却に見えた」
八郎は地図へ視線を落とした。
北から南へ。
異なる獣が、互いに牙を向けることもなく、同じ道を下る。
「追うものは、記されていませんな」
「ああ」
アルヴァンは帳面を閉じた。
「この巡察兵も見ていない。だから正式な報告には採られなかったのだろう」
「その方は今も?」
「とうに退役している。数年前に亡くなったそうだ」
セレナが答えた。
「別紙を添えた形跡がありますが、保管庫には残っていません。処分されたのか、最初から提出されなかったのかも不明です」
八郎は、北へ伸びる灰色の紐を見た。
その先には、まだ町も村も記されている。
今の赤い紐は、そこまで届いていない。
「君はどう見る」
アルヴァンが訊いた。
八郎はしばらく考えた。
「石と獣の動きが同じものに起因するかは、私には分かりません」
「そうだろうな」
「ただ、あの岩裂きは、谷へ入り込んだ我々を追い払おうとしていたようにも見えました。何かから逃げてきたようには見えません」
「ならば、この記録とは別件か」
「あるいは、逃げる必要のない場所を見つけていたのかもしれません」
アルヴァンの目が細くなった。
「黒い石のそばをか」
「分かりません」
八郎は左肩へ右手を置いた。
鈍い疼きは消えていない。
「ですが、あの石が私の身体に働く理由が分かれば、私がここへ来た理由も分かるでしょうか」
ミレアの筆が止まった。
アルヴァンは八郎を見た。
「帰る方法を探しているのか」
「ええ」
八郎は答えた。
「戻らねばなりません」
「どこへ」
ミレアが訊いた。
「日本の箱館という地です」
「家族がいるの?」
八郎は一度、目を伏せた。
思い浮かんだのは家ではなかった。
雪を被った五稜郭の土塁。地図の上に置かれた朱墨。窓の外へ目を向けた土方の横顔。
木古内。
矢不来。
七重浜。
残してきた者たちは、今も戦っている。
「戦が終わっておりませんので」
それ以上は言わなかった。
ミレアも、すぐには問い返さなかった。
アルヴァンが椅子の背へ身を預ける。
「黒い石が君をここへ運んだ証拠はない」
「承知しています」
「調べた結果、何の関係もないと分かるかもしれん」
「それでも、調べるほかありません」
アルヴァンは鼻を鳴らした。
「頑固なのか、諦めが悪いのか」
「どちらも、よく言われました」
その時、遠くで鐘が鳴った。
一度。
間を置かず、もう一度。
セレナが顔を上げた。
今度は三度、短く続いた。
部屋の外で、足音が駆けてくる。
扉が勢いよく開いた。
入ってきた兵士は息を切らし、戸口へ片手をついた。
「北の見張りから報告です」
「何があった」
セレナが壁を離れる。
「魔獣の群れを確認。数は不明。北の旧街道を南下しています」
「種類は」
「一種ではありません。灰牙狼、岩角鹿、それと地潜りも混じっています」
「被害は」
「街道沿いの牧柵が破られました。家畜には目もくれず、制止しようとした巡察兵二名が負傷しています」
兵士は息を継いだ。
「互いに争う様子もありません」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
机の上には、開かれたままの古い巡察記録がある。
移動と記されたが、私には退却に見えた。
セレナが最初に動いた。
「北門へ行きます。ミレアは治療所の受け入れ準備を。先生は」
「この老骨を壁へ上げるつもりか」
「地脈の状態を見てください」
「初めからそう言え」
アルヴァンは立ち上がった。
ミレアも紙を置き、棚から外套を取る。
八郎が椅子を引くと、セレナが振り返った。
「あなたはここにいて」
「理由を伺っても?」
「刀がない。谷から戻ったばかり。あなたはこの町の兵士でもない」
もっともな話だった。
八郎は腰の脇差へ触れた。
短い。
魔獣を相手にするには、なおさらだった。
「承知しました」
答えると、セレナは一瞬だけ意外そうな顔をした。
だが、何も言わずに部屋を出た。
足音が遠ざかる。
窓の外では、鐘が鳴り続けていた。
道を走る兵士たちの声が重なり、荷車の車輪が石畳を叩いている。
八郎は机の地図を見下ろした。
古い灰色の道。
二十五年前、途中で切れ始めた青い道。
砦町の近くまで押し戻された、現在の赤い道。
外から、再び鐘が鳴った。
八郎は窓辺へ寄った。
防壁の向こう、北の森の上を鳥の群れが飛び立っていく。
黒い点が幾つも空へ散り、その下で木々が揺れていた。
風ではない。
何かが、森の中を進んでいる。
いや。
八郎は目を細めた。
進んでいるのではない。
北から、逃げてきている。




