第十一話 旧街道
鐘の音が、町の石壁を震わせていた。
窓の外では、北へ向かう兵士と、南へ急ぐ住民が同じ通りへ溢れている。
八郎は医療院の部屋に残っていた。
セレナに命じられたからである。
刀はない。谷から帰ったばかりで、この町の兵でもない。
どれも間違ってはいなかった。
戦場へ加わる理由があったとしても、勝手に持ち場を決めてよい理由にはならない。
机の上には、開かれた巡察記録が残されている。
「移動と記されたが、私には退却に見えた。」
そう読まれた一文が頭をよぎる。
北から逃げてくる魔獣。
彼らが何から逃げているにせよ、砦町の壁は進路を塞ぐ。
追われる者は、退路を塞がれれば振り返る。
獣も人も、その点では大して変わらないのかもしれなかった。
廊下から、荒い足音が近づいてきた。
「寝台を二つ空けて!」
ミレアの声だった。
扉が開き、兵士二人が担架を運び込んでくる。
片方の巡察兵は額から血を流し、もう一人は右脚を不自然な方向へ曲げていた。
ミレアは外套を脱ぎ捨てると、すぐに負傷者の前へ膝をついた。
「そっちは奥。脚を動かさないで。止血を先に」
助手たちが動く。
しかし、廊下では別の担架と薬箱を積んだ荷車がぶつかり、声が上がっていた。
「八郎」
ミレアが負傷者から目を離さずに言った。
「動ける?」
「ええ」
「では手を貸して。ここへ運び込む道を空けたいの」
「承知しました」
八郎は廊下へ出た。
医療院の正面では、負傷者を運ぶ荷車が入口へ向かい、薬や布を積んだ荷車が北門へ向かおうとしていた。
その間を、避難してきた住民が横切っている。
子どもの手を引く者。
家財を背負う者。
泣き出した幼子を抱え、立ち止まっている者。
通りの中央では、空になった荷車が向きを変えようとして、後続を塞いでいた。
八郎は近くにいた若い兵士へ声をかけた。
「この道は、どこへ続きます」
「まっすぐ行けば北門です。東へ曲がれば倉庫区、西は広場に出ます」
「南門へ抜ける道は」
「広場から二本あります」
「では、住民は西へ。北へ運ぶ荷は東側へ寄せてください。戻ってきた荷車は、この場で向きを変えず、そのまま西へ抜く」
兵士が八郎を見た。
「あなたは」
「医療院の手伝いです」
「ですが――」
後ろで車輪がぶつかり、積まれていた木箱が一つ落ちた。
蓋が外れ、白い布が石畳へ散る。
八郎は箱を拾い上げた。
「話は、道が空いてからにしましょう」
若い兵士は一瞬迷った後、鐘楼の下にいた仲間へ声を飛ばした。
「住民を西へ回せ! 北門行きの荷は東側だ! 空車は広場へ抜けろ!」
指示を受けた兵士たちが通りへ散った。
八郎は荷車の脇へ立ち、片腕で通行の向きを示した。
最初は互いに譲ろうとして動けなかった人々が、行く先を分けられると流れ始める。
北へ向かう兵と物資。
南へ逃れる住民。
医療院へ戻る負傷者。
三つの流れを同じ場所で交わらせなければ、それだけで道は空いた。
「担架が来ます!」
誰かが叫んだ。
八郎は住民を壁際へ寄せた。
血に濡れた兵士が運び込まれる。
その後ろから、先ほどの巡察兵とは別の男が、自分の足で歩いてきた。肩当てが砕け、左腕を押さえている。
「北門まで、どれほどです」
八郎が訊いた。
男は息を整えながら答えた。
「もう近い。最初の見張り柵は越えられた」
「群れの先頭は」
「岩角鹿だ。後ろから灰牙狼が来ている。だが狼は鹿を追っていない」
「横へ逸れる様子は」
「ない。旧街道をまっすぐ来る」
負傷兵は医療院へ入る直前に振り返った。
「道を塞いだ柵へ、まとめて突っ込んできた。壊すまで止まらなかった」
八郎は北を見た。
旧街道。
巡察記録に記されていたものと、同じ道である。
遠くで低い音が響いた。
雷ではない。
何か重いものが、繰り返し地面を叩いている。
通りの石に、かすかな震えが伝わってきた。
若い兵士が顔を上げる。
「外柵に着いたのか」
北門へ向かっていた兵の一人が、抱えていた長槍を握り直した。
八郎はその兵士へ訊いた。
「町の外に、旧街道から分かれる道はありますか」
「分かれる道?」
「城壁へ当たらず、南へ抜けられる道です」
兵士は戸惑いながら北を指した。
「北門の手前から、東の採石場へ向かう道があります。もう使われていませんが」
「その先は」
「外壁沿いに南へ下ります。ただ、途中で細くなる」
「魔獣が通れるほどには」
「岩角鹿なら。大型は分かりません」
八郎はそれ以上訊かなかった。
町の外の地形を知らずに、判断を下すことはできない。
ただ、一つだけは分かる。
魔獣は町を目指しているのではない。
南へ抜けようとしている。
ならば、正面から止める以外の手があるかもしれない。
「八郎!」
医療院の入口から、ミレアが呼んだ。
「水と清潔な布が足りない。倉庫へ人を――」
「すでに北門へ運んでいます」
「北門へ?」
「医療院へ戻すよう伝えます」
八郎は若い兵士を見た。
兵士は頷き、東へ走った。
ミレアは整い始めた通りを見回した。
「あなたがやったの?」
「道を分けただけです」
「十分よ」
彼女は一度、北門の方角を見た。
「まだ来る。治療台を増やすわ」
「北門の外に、採石場へ抜ける道があるそうです」
ミレアが八郎を見る。
「それが何か?」
「魔獣は、この町を襲うために来ているわけではないのでしょう」
「記録では、そう見えるというだけよ」
「ええ。ですが、町を塞ぐ壁がなければ、戦わずに通り過ぎる可能性があります」
「壁を開けろと言うの?」
「まさか」
八郎は首を振った。
「町へ入れず、町の外で道を変えられないかと思っただけです」
ミレアはしばらく八郎の顔を見た。
「セレナに言うべきね」
「私が北門へ行くことは、止められています」
「では、私が伝える」
「治療院を離れられますか」
ミレアは、次々と運び込まれる負傷者を見た。
答えは聞くまでもなかった。
再び地面が震えた。
今度は先ほどより近い。
北門側で、太い鐘が一度鳴った。
ミレアの表情が変わる。
「外柵が破られた合図よ」
通りにいた兵士たちが、一斉に北を向いた。
その時、風が巻いた。
石畳の砂埃が細く舞い上がり、通りの中央へ集まる。
風の中から、セレナの声が響いた。
『医療院。負傷者の数を報告してください』
近くにいた者たちが辺りを見回した。
ミレアはすぐに答える。
「重傷三、歩ける者が五。巡察隊の残りは?」
風が一度途切れる。
『北門へ退避中です。間もなく門を閉じます』
「セレナ」
ミレアが風へ向かって声を上げた。
「八郎が、魔獣を東の採石場道へ逸らせないかと言っている」
短い沈黙があった。
『八郎が?』
風の声に、疑念が混じる。
「町へ入れず、外で南へ抜く道を作れないかと」
『彼はそこにいるのですか』
「ええ」
風が八郎の周囲を巡った。
『代わってください』
八郎は、目に見えない声へ顔を向けた。
「聞こえています」
『説明を』
「記録どおりなら、魔獣は町を目指していません。旧街道を南へ下っているだけです」
『だから道を譲る、と?』
「正面の門を開けるつもりはありません」
八郎は通りの先を見た。
「旧街道から採石場道へ入れるなら、北門へ当たる前に進路を曲げられるかもしれない。柵や荷車で西側を塞ぎ、東だけを開けます」
『魔獣が都合よく曲がる保証はありません』
「ありません」
『採石場道の先は狭い。大型種が詰まれば、結局こちらへ戻る』
「その場合に備え、門の兵は残すべきです」
風の向こうで、複数の声が交わった。
八郎には内容までは聞き取れなかった。
しばらくして、別の低い男の声が混じった。
『誰だ、その男は』
北門の守備を預かる者だろう。
セレナが答える。
『谷から戻った異邦人です』
『剣士ではなかったのか』
『私も、今まではそう聞いていました』
風が一度強く吹いた。
『イヴァ・ハチロー。なぜ、魔獣が東へ曲がると思う』
八郎は答える前に、北の音を聞いた。
地面を打つ蹄。
木材の折れる音。
獣の吠え声が重なっている。
「曲がるとは限りません。ただ、正面を塞ぎ、横に抜け道を作れば、まっすぐ壁へ当てるよりは選ぶ余地ができます」
『選ぶ余地』
「逃げている者を追い詰めれば、こちらへ向き直ります」
風の向こうが静かになった。
「退路があるなら、そちらへ押し出した方がよい」
返事はすぐにはなかった。
やがて守備責任者の声がした。
『採石場道の入口には、古い土塁が残っている。西側へ荷車を並べれば、形にはなる』
セレナが続ける。
『先生に土塁を延ばしてもらいます。ですが、作業中に群れが到達します』
「すべてを曲げる必要はありません。先頭が道を選べば、後ろは続くでしょう」
『続かなければ』
「北門で止めるしかありません」
低い男の声が、短く笑った。
『結局、最後はそれか』
「他に手がなければ」
『気に入った。最初からうまくいくと言う者よりは信用できる』
セレナの声が割って入る。
『西側へ荷車を集めます。医療院前の空車を回せますか』
八郎は通りを見た。
住民を運び終えた荷車が、広場の壁際へ並び始めている。
「六台あります」
『四台を北へ。二台は負傷者搬送のため残してください』
「承知しました」
風が消えた。
八郎は若い兵士たちへ向き直った。
「聞こえていましたね」
「あ、ああ」
「荷車を四台。北門へ向けてください。ただし、門へ入る荷と道を分ける。空車は西側を通す」
「分かった」
兵士たちは走り出した。
八郎も荷車へ向かった。
右手で車輪へ手をかける。
押そうとすると、左肩の奥がわずかに疼いた。
黒魔石を収めた木箱は、医療院の奥にある。
それでも、反応は消えていない。
「八郎、無理をしないで」
ミレアが後ろから言った。
「片腕で荷車を押して、また右を傷めたら治さないわよ」
「それは困ります」
「なら、人に任せて」
八郎は素直に車輪から手を離した。
代わりに、荷車が通れるよう人を退ける。
北門へ向かう道は、先ほどまでより整っていた。
兵士たちの足取りも速い。
行き先が決まり、戻る道が空いているだけで、人の動きは変わる。
箱館でも同じだった。
退く場所を失った兵は、戦う前から崩れる。
だが、退路を残した兵は、そこへ戻るために踏みとどまることができる。
八郎は北門を見た。
自分が戻るべき場所は、この町ではない。
箱館にある。
だからこそ、ここで命を落とすわけにはいかなかった。
北門へ荷車を送り出した直後、轟音が響いた。
外壁の向こうから土煙が上がる。
壁上の兵士たちが一斉に叫んだ。
「来るぞ!」
医療院の屋根越しに、北門の櫓が見えた。
そのさらに向こうで、アルヴァンの術が動く。
地面が盛り上がり、古い土塁の先へ土の壁が伸びていく。
不揃いで、急ごしらえの壁だった。
その前へ荷車が横倒しにされ、街道の西側を塞ぐ。
東側だけが開いている。
逃げ道に見えるかどうか。
人にさえ分からないものを、魔獣がどう見るのか。
地響きが近づいた。
壁上から、角笛が鳴る。
北門前の兵士が槍を構えた。
魔術師たちの杖や手の中に、光が集まり始める。
全員が同時に術を放とうとしている。
八郎は目を細めた。
群れは、まだ土塁へ届いていない。
今撃てば、先頭は倒せる。
だが後ろに何頭いるかは、誰にも見えていない。
「待ってください」
八郎の声は、北門までは届かなかった。
風が戻ってくる。
セレナがまだこちらの声を拾っていた。
『何です』
「あの術は、何度使えます」
『術者によります』
「今すべて撃てば、次も同じように撃てますか」
返答までに、わずかな間があった。
『無理です』
「ならば、半分は残した方がよい」
北門の上で、セレナが振り返ったのが見えた。
彼女は八郎ではなく、魔術師たちを見た。
次いで腕を上げる。
光を集めていた者の半数が、術を解いた。
残った者たちだけが前へ出る。
角笛が二度鳴った。
土煙の中から、最初の岩角鹿が現れた。
一頭ではない。
角と角が重なるほどの群れが、旧街道を埋めている。
その後ろを、灰色の影が走っていた。
狼は鹿へ牙を向けない。
鹿も狼を恐れていない。
ただ、すべてが南へ向かっている。
先頭の岩角鹿が、横倒しにされた荷車へ気づいた。
速度を落とさない。
正面の障害へ、そのまま突っ込もうとする。
壁上から魔術が放たれた。
炎と光が街道の西側へ落ちる。
土煙が弾け、魔獣たちが大きく身を翻した。
西は火。
正面には土塁。
東だけが開いている。
先頭の一頭が、採石場道へ飛び込んだ。
後ろの岩角鹿が続く。
灰牙狼も、その流れへ呑まれて東へ曲がった。
北門の兵士たちから声が上がる。
だが、八郎は東へ流れる群れではなく、その後ろを見ていた。
森の奥で、木が一本倒れた。
続いて、二本。
先ほどまでとは違う、重い足音が響く。
土煙の上から、黒ずんだ角が現れた。
採石場道の入口よりも広い。
土塁よりも高い。
それは前を走る獣たちを追うように、旧街道の中央を進んできた。
八郎は脇差の柄へ手を置いた。
魔獣の群れが逃げていた理由が、初めて姿を見せた。




