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亡国の侍 異世界転移譚  作者: Lambzono
第一章 砦

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第十二話 継ぎ目

黒ずんだ角が、土煙を割った。


 その根元に続いて、幅の広い額が現れる。


 鹿より低く、牛よりも大きい。首から背へ盛り上がった肉は岩のように厚く、灰褐色の皮膚には幾筋もの黒い亀裂が走っていた。


 前を逃げる岩角鹿が、採石場道へ雪崩れ込んでいく。


 灰牙狼も続いた。


 だが、大角の獣は曲がらなかった。


 旧街道の中央を、真っすぐ砦町へ向かってくる。


 黒ずんだ蹄が地面を踏むたび、土が低く跳ねた。


 北門の上で角笛が鳴る。


 先ほどまで上がっていた兵士たちの歓声が、途切れた。


 大角の獣は、採石場道の入口へ目を向けようともしない。


 アルヴァンが築いた土塁。


 横倒しにされた荷車。


 その向こうに開けられた道。


 どれも、初めから存在しないかのように進んでくる。


「東へ向かいません!」


 風の中から、セレナの声が響いた。


 八郎は返事をせず、獣の動きを見た。


 脚は、前を走る岩角鹿ほど速くはない。


 だが、一歩ごとの重さが違う。


 他の魔獣は正面の障害と西側の炎を避け、開かれた東へ流れた。


 あの獣には、避ける理由がない。


 土塁も荷車も、壊して進めるからだ。


「大角獣だ!」


 北門の上で、誰かが叫んだ。


「壁際まで引きつけろ! 術者は持ち場へ!」


 守備兵たちが一斉に動く。


 慌てているわけではなかった。


 壁上の弓兵が下がり、その後ろへ魔術師が並ぶ。槍兵は門脇の足場へ移り、長い槍を外へ向けた。


 アルヴァンの術で、崩された土塁の手前から新たな土の隆起が生まれる。


 獣の進路を塞ぐためではない。


 両側から狭め、正面へ導く形だった。


 風が再び八郎の周囲を巡った。


『大角獣なら、倒し方は決まっています』


 セレナの声だった。


 先ほどまでより落ち着いている。


「随分と手慣れておられる」


『北辺では、初めてではありません』


 その言葉どおり、兵士たちに迷いはなかった。


 土の壁で進路を絞り、正面の防壁へ突進させる。


 衝撃で足が止まったところを、土術で前脚から固める。


 頭が上がれば、壁上から目と喉を狙う。


 首を下げたままなら、左右から槍を入れる。


 何度も繰り返され、形になった戦い方なのだろう。


 大角獣が速度を上げた。


 地響きが大きくなる。


 アルヴァンの作った土壁が、獣を正面へ導く。


 北門の脇にある古い石壁へ向かい、大角獣は頭を低くした。


「まだだ!」


 守備長の声が飛ぶ。


 魔術師たちは術を放たない。


 獣と壁の距離が縮まる。


 十間。


 五間。


「今だ!」


 地面が隆起した。


 獣の前脚へ土が巻きつき、蹄の上まで一気に固まる。


 同時に、壁上から光と炎が落ちた。


 片方の目。


 下顎。


 前脚の付け根。


 狙いは揃っていた。


 大角獣の身体が前へ傾く。


 突進の勢いを失い、土の枷に引かれて膝を折った。


 壁上から声が上がる。


「槍!」


 左右の足場から長槍が突き出された。


 一本が喉元へ向かい、二本が肩と前脚の隙間を狙う。


 八郎は黙って見ていた。


 見事なものだった。


 獣の大きさに怯まず、皆が自分の役目を知っている。


 この町が二十五年もの間、北から来る魔獣を退けてきたという話は、誇張ではないらしい。


 その時、八郎の左肩が脈打った。


 鈍い疼きではなかった。


 焼けた針を、肉の奥へ差し込まれたような痛みだった。


「待ってください」


 八郎は思わず声を上げた。


 風の向こうで、セレナが反応する。


『何です』


「何か来ます」


『何が』


「分かりません」


 大角獣の皮膚に走る黒い亀裂が、僅かに膨らんだ。


 内側から脈を打つように、一筋ずつ黒さが濃くなる。


 八郎の肩へ、二度目の痛みが走った。


「アルヴァン殿、術を解いてください」


『何を――』


 地面が弾けた。


 大角獣の前脚を包んでいた土の枷が、外から壊されたのではなかった。


 固められた土そのものが内側から崩れ、乾いた砂となって飛び散った。


 獣が立ち上がる。


 喉元へ入ったはずの槍が、甲高い音を立てて弾かれた。


 穂先が曲がり、兵士の身体が後ろへ投げ出される。


 肩へ突き立った槍も浅い。


 黒い亀裂の下で、皮膚とも骨ともつかない硬いものに止められている。


「離れろ!」


 守備長が叫んだ。


 大角獣が首を振った。


 残っていた槍が折れ、破片が壁へぶつかる。


 片目の周囲は焼け、額から黒ずんだ血が流れていた。


 それでも怯まない。


 傷を庇おうともしない。


 普通の獣であれば避けるはずの炎へ、自ら顔を向けている。


 アルヴァンの声が、風の中で低く響いた。


『訂正する』


 いつもの皮肉はなかった。


『あれは、大角獣の形をしているだけだ』


 大角獣が咆哮した。


 低い声が、砦町の壁を震わせる。


 前を逃げていた魔獣たちは、すでに採石場道の奥へ消えつつあった。


 残された一頭だけが、砦町の前で頭を振っている。


「魔術が効いていないのですか」


 八郎が訊いた。


『効いてはいる』


 アルヴァンが答えた。


『だが浅い。奴の周囲で術の流れが崩される。土を固めても、形を保てん』


「皮膚も硬くなっています」


『皮膚だけではない。骨も筋も、別のものに置き換わり始めている』


 大角獣の黒い亀裂が、再び脈打った。


 八郎の左肩も、それに合わせるように痛む。


 木箱に収められた黒い石は、医療院の奥にある。


 今反応しているのは、そちらではない。


 大角獣の身体に、谷で見つけた石と同じ性質の何かがある。


「もう一度、拘束できますか」


『できる』


「どれほど持ちます」


 わずかな沈黙があった。


『分からん』


 大角獣が、崩れた土塁へ向かって走り出した。


 アルヴァンの術で新たな壁が盛り上がる。


 しかし完成するより早く、黒い角が突き刺さった。


 土塁が中央から弾けた。


 土の塊が空へ舞い、横倒しにされていた荷車が一台、角に引っかかって持ち上がる。


 獣が頭を振ると、荷車は街道脇へ投げ出された。


 車輪が外れ、地面を跳ねて転がった。


 守備兵たちが後退する。


 動きに乱れはない。


 だが、先ほどまでの手順はもう使えない。


 倒し方を知っていた獣が、知っている獣ではなくなっていた。


「この町には、堀というものはないのですか」


 八郎が訊いた。


 風の向こうで、守備長が聞き返す。


『堀だと?』


「壁へ当たる前に、あの足を止められるほどの溝です」


『あった』


「昔は?」


『町が今より狭かった頃の外堀だ』


 大角獣が再び頭を低くする。


 兵士たちが壁上から離れ始めた。


『壁を外へ足すたび、古い堀は町の中へ入った。最後は瓦礫と土で埋めて道にした』


「新しい壁の外には掘らなかったのですか」


『掘ろうとはした』


 今度はセレナが答えた。


『ですが、完成する前に襲撃が来る。人手を壁の補修へ戻し、掘りかけた箇所も埋め直す。その繰り返しです』


 新しい防壁を作る。


 その外へ堀を掘ろうとする。


 工事の途中で魔獣が来る。


 壊された壁を直すため、堀の工事を止める。


 町は広がったのではない。


 追い詰められながら、外側へ壁を足し続けたのだ。


「古い堀は、どこを通っていました」


『西壁の内側だ』


 守備長が答えた。


『今の倉庫通りが、ほぼその上になる』


 八郎は北門の西側を見た。


 古い石壁。


 後から張られた鉄板。


 さらに外へ足された新しい壁。


 異なる時期に作られたものが、不揃いな線を描いている。


 大角獣は門へ向かわなかった。


 旧街道から僅かに西へ逸れ、古い石壁と増築された外壁が重なる一角へ頭を向ける。


「西へ来る!」


 守備兵が叫んだ。


 セレナの声が鋭くなる。


『西壁、退避! 上にいる者を下ろして!』


 角笛が三度鳴った。


 壁上の兵士たちが走り出す。


 弓兵が階段へ殺到し、石を運んでいた者たちが荷を捨てた。


 守備隊も、そこが弱いことを知っている。


 だが、知っていることと、間に合うことは別だった。


 大角獣が地面を蹴る。


 黒い角が、鉄板と石壁の境目へ突き刺さった。


 腹の底へ響く音がした。


 壁そのものが揺れた。


 鉄板を留めていた鋲が弾け、何本かが空へ飛ぶ。


 石の隙間から、白い粉が噴き出した。


 獣は一度、後ろへ下がった。


 額から血を流している。


 それでも脚は崩れない。


 壁には、縦に長い亀裂が走っていた。


 後から足された外壁と、古い壁の間。


 まさしく継ぎ目だった。


 風の中で、守備長の怒声が響く。


『石材を持ってこい! 内側から支えろ!』


 兵士たちが北門へ走る。


 整えられた道へ、石材と太い梁を積んだ荷車が入っていく。


 壊れかけた壁を、内側から押さえるためだろう。


 八郎はその流れを見た。


 通常の大角獣であれば、壁を持たせている間にアルヴァンが再び脚を拘束できる。


 槍兵も態勢を立て直せる。


 間違った判断ではない。


 だが、今度も拘束が崩れれば、壁の下へ集められた者は逃げられない。


「アルヴァン殿」


『聞こえている』


「次の拘束は」


『先ほどより短いと思え』


「守備長」


『何だ』


「壁を支える兵は、崩れた時に逃げられますか」


『崩させん』


「そのために、どれほどの時間が要ります」


『奴を倒すまでだ』


 八郎は答えなかった。


 守備長も経験から判断している。


 これまで何度も、それで町を守ってきたのだろう。


 だからこそ、捨てる決断が難しい。


 大角獣は、二度目の突進に備えて後退している。


 セレナの声が風を伝う。


『八郎。こちらへ来てください』


「西壁へ?」


『継ぎ目の内側です。配置を見てほしい』


「刀はありませんが」


『剣を振るってほしいとは言っていません』


 八郎は腰の脇差へ目を落とした。


 確かに、今必要なのは剣ではなかった。


「承知しました」


 医療院の入口にいたミレアが、八郎の前へ出た。


「待って」


「止めますか」


「止めたいわ」


 彼女は八郎の左肩へ手を当てた。


 疼きは、さらに強くなっている。


「痛みが増したら戻って」


「戻る道は空けておきます」


「そういう意味ではないのだけれど」


「心得ました」


 ミレアは納得していない顔をした。


 それでも道を空けた。


 八郎は北門へ向かって歩き出す。


 走らなかった。


 片腕で足場の悪い道を走り、転べば役に立たない。


 北へ向かう兵と荷車が、八郎の脇を通り過ぎる。


 石材。


 太い梁。


 縄。


 壁を支えるためのものが、次々と運ばれていく。


 北門へ近づくほど、地面の震えが強くなった。


 二度目の衝突が来る。


 轟音。


 石が砕ける音。


 鉄板が裂ける、甲高い響き。


 通りの先で、壁の上端が沈んだ。


 白い煙のような石粉が噴き出す。


「崩れるぞ!」


 兵士たちが叫ぶ。


 八郎は足を止めなかった。


 継ぎ目の内側は、倉庫へ続く細い通りになっていた。


 左右には石造りの建物が並び、中央を不揃いな石畳が走っている。


 北門前の広い道とは、明らかに造りが違った。


 石の大きさが揃っていない。


 色も形も異なる石が、隙間を埋めるように並べられている。


 通りを横切る形で、何度も補修された跡があった。


 中央だけが僅かに沈み、石の間へ細かな砂が溜まっている。


 石材を積んだ荷車が、その上を通った。


 車輪が一度、大きく沈む。


 石畳の隙間から、乾いた土が細く噴き出した。


 音も違った。


 硬い地面を叩く音に、僅かな空洞の響きが混じっている。


 八郎は荷車の通った跡を見下ろした。


「この道が、古い堀の跡ですか」


 近くにいた守備長が振り返った。


「ああ。壁を外へ出した時に埋めた」


「どのように」


「石と瓦礫を落とし、上へ梁を渡した。急ぎだったからな。その上へ石を敷いた」


「全て埋めたわけではない?」


「人と荷車が通れればよかった。下に隙間くらいは残っているだろう」


 守備長は、八郎が地面を見ている理由に気づいたらしい。


「まさか、ここへ落とすつもりか」


「まだ分かりません」


 八郎は通りの幅を見る。


 大角獣の角は広い。


 しかし壁の破れ方によっては、頭から肩まで入る。


 前脚がこの石畳へ乗れば、荷車より遥かに大きな重さが掛かる。


「アルヴァン殿」


 八郎は風へ向かって呼びかけた。


『今度は何だ』


「この道の下を見られますか」


『地面を見るために、私を壁から離せと?』


「獣そのものへ術を掛けても、崩されます」


『だから足場を崩すつもりか』


「使える地面であれば」


 短い沈黙の後、アルヴァンが舌打ちした。


『セレナ。西側へ寄る。少し持たせろ』


『どのくらいです』


『年寄りへ走らせるな』


 風が消えた。


 八郎は、壁の亀裂と通りの位置を見比べる。


 継ぎ目が崩れれば、大角獣はほぼ真っすぐ倉庫通りへ入る。


 その先に、古い堀を埋めた地面がある。


 だが、先に崩してしまえば獣は避ける。


 完全に通りへ入れた後で、前脚の下だけを落とさなければならない。


「壁へ運んでいる資材を止めてください」


 八郎が言った。


 守備長の眉が動く。


「壁を捨てろというのか」


「次の突進には、もう持ちません」


「だから支える」


「支えれば、崩れる場所へ兵を集めることになります」


「壁を破らせれば、町へ入る」


「入ってくる場所は分かっています」


「止められなければ、南へ抜けるぞ」


「だから、ここで止めます」


 守備長は八郎を睨んだ。


 八郎も目を逸らさなかった。


 この男は、無闇に壁へ固執しているのではない。


 二十五年、この壁の内側に人を生かしてきた。


 守るべき線を自ら捨てることが、どれほど重いかも分かっている。


「下が空いている保証はない」


 守備長が言った。


「ですから、確かめます」


「穴が浅ければ、足を取るだけだ」


「それで十分です」


「浅ければ、這い上がる」


「這い上がるまでに倒します」


「簡単に言う」


「簡単ではありません」


 八郎は壁の亀裂を見た。


「壁の下で潰されるよりは、まだ手があります」


 大角獣が地面を蹴った。


 二度目の突進が始まる。


「時間がありません!」


 セレナの声が飛ぶ。


「守備長!」


 守備長は奥歯を噛んだ。


 次いで角笛を奪い、一度、長く吹いた。


「西壁の兵を下げろ!」


 声が倉庫通りへ響く。


「資材は壁へ運ぶな! 荷車は通りの奥へ回せ! 槍兵は左右の建物へ!」


 北へ向かっていた荷車の流れが止まる。


 兵士たちが声を掛け合い、向きを変えた。


 長い梁が降ろされる。


 石材を積んだ荷車が、壁際ではなく通りの奥へ運ばれていく。


 直後、大角獣が壁へ衝突した。


 石壁が大きく沈む。


 鉄板が内側へ歪み、亀裂から拳ほどの石が落ちた。


 壁際に兵が残っていれば、何人かは巻き込まれていただろう。


 土煙の向こうから、アルヴァンが歩いてきた。


「老人を走らせるなと言ったはずだ」


「歩いておられますな」


「誰のせいだと思っている」


 アルヴァンは杖の先を石畳へ置いた。


 目を閉じる。


 淡い土色の光が、石の隙間へ染み込んでいく。


 地面の下で、小さく石が鳴った。


 アルヴァンの眉間へ皺が寄る。


「どうです」


「埋めたというより、蓋をして忘れたようなものだ」


 杖の位置を少しずらす。


「表面の石。その下に薄い土と瓦礫。さらに下へ、古い石積みの壁が残っている。梁もあるが、半分は腐っている」


「深さは」


「大人の背丈より少し深い程度だ。昔の堀としては浅い」


「獣の前脚が落ちれば」


「胸は石積みへ引っかかる。後脚までは落ちん」


 八郎は頷いた。


 十分だった。


 前脚が一段下がれば、突進はできない。


 胸が堀の縁へ乗れば、自重が一箇所へ集まる。


 首も下がる。


 硬い皮膚の内側に、どれほど黒いものが入り込んでいようと、姿勢まで無視できるわけではない。


「崩せますか」


 八郎が訊いた。


「今ならな」


 アルヴァンは石畳へ杖を押し当てた。


「奴が真上へ来れば、術を乱される。先に梁と石積みへ亀裂を入れておく。最後は僅かな力で落ちるようにする」


「先に落ちる恐れは」


「荷車を増やさなければ持つ」


 アルヴァンが八郎を見る。


「ただし、どこで落とす」


「肩が壁を越えてからです」


「近いぞ」


「頭だけなら、後ろへ下がれます」


「肩まで入れば、戻りにくいか」


「ええ」


 アルヴァンは鼻を鳴らした。


「君は獣を相手にしたことがないのではなかったか」


「人も、退路が狭ければ同じです」


 守備長が兵士たちへ命令を飛ばす。


 槍兵が左右の倉庫へ入り、窓と扉へ分かれた。


 魔術師も三人ずつ配置される。


 石材を積んだ荷車は通りの奥へ寄せられ、中央には獣一頭が通れる幅だけが残された。


 転がされた石が、足場をさらに悪くする。


「荷車を、もう少し左右へ」


 八郎が言った。


「中央を広げるのですか」


 セレナが訊く。


「狭すぎれば、入口で暴れます。頭と肩だけは通す」


「奥まで入れる?」


「前脚が、あの補修跡を越えるまで」


 八郎は石畳を横切る不揃いな線を指した。


 旧堀の中央。


 荷車が沈んだ場所。


 その下へ、アルヴァンが術を通している。


「術を放つのは、地面が落ちてからです」


 セレナは魔術師たちを見た。


「狙いは」


「喉と前脚の後ろだ」


 守備長が答えた。


「普通の大角獣なら、そこへ入れば届く」


「普通でなければ」


「届くまで撃つ」


 守備長は短く言った。


 アルヴァンが杖を上げる。


「仕込みは終わった」


「崩す合図は」


 八郎が訊く。


「君が言え。私は地面を見ている」


 壁の向こうで、大角獣が後退する音がした。


 三度目。


 今度こそ、継ぎ目は持たない。


 八郎の左肩が脈打つ。


 獣の黒い亀裂も、壁の向こうで同じように脈打っているのだろう。


 セレナが八郎の横へ立った。


「あなたは、こういう戦いを何度してきたの」


「獣を相手にしたことはありません」


「そういうことを聞いているのではありません」


 八郎は答えなかった。


 代わりに、崩れかけた壁へ目を向ける。


 地面が震えた。


 三度目の衝突。


 世界が一度、跳ねた。


 鉄板が内側へ折れ曲がる。


 石と木材がまとめて崩れ、通りへ雪崩れ込んだ。


 土煙が視界を覆う。


 兵士たちが腕で顔を庇う。


 瓦礫の向こうから、低い息遣いが聞こえた。


 黒ずんだ角が煙を割る。


 続いて、血に濡れた額。


 大角獣が、砦町の内側へ頭を入れた。


 左右の倉庫で、槍兵たちが身構える。


「まだです」


 八郎が言った。


 獣が一歩進む。


 前脚が瓦礫を踏み砕いた。


 肩が、崩れた壁を越える。


 巨体が狭い倉庫通りへ押し込まれていく。


 八郎の左肩へ、焼けた鉄を差し込まれたような痛みが走った。


 膝が僅かに揺れる。


 それでも目を逸らさなかった。


 大角獣の前脚が、不揃いな石畳へ乗る。


 一歩。


 さらに一歩。


 荷車が沈んだ補修跡を越えた。


「今です」


 八郎が言った。


 アルヴァンが杖を地面へ打ちつけた。


 石畳の下で、何かが折れた。




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