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亡国の侍 異世界転移譚  作者: Lambzono
第一章 砦

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第十三話 傷口

 石畳の下で、何かが折れた。


 乾いた木の裂ける音が、地面の奥を走る。


 次の瞬間、大角獣の前脚が沈んだ。


 敷石が一枚、斜めに落ちる。


 その隣の石も傾き、隙間から土と小石が噴き出した。


 大角獣が前へ踏み込む。


 巨体の重みを受けた地面が、一度大きく撓んだ。


 石畳が崩れた。


 土と瓦礫が、獣の前脚ごと下へ落ちる。


 大角獣の身体が前のめりになった。


 胸が古い石積みへ打ちつけられ、黒ずんだ角が地面を削る。


 後脚は崩れた壁の向こうに残った。


 前脚だけが、埋められていた古い堀へ落ちている。


 咆哮が倉庫通りを揺らした。


 大角獣が首を振る。


 角が瓦礫を弾き飛ばし、拳ほどの石が建物の壁へ突き刺さる。


「下がれ!」


 守備長が叫んだ。


 左右の倉庫にいた兵士たちが、窓と扉の奥へ身を引く。


 獣は前脚を持ち上げようとした。


 崩れた石と土が動き、古い堀の側壁が軋む。


 アルヴァンが杖を構えた。


「持ち上げさせるな」


 土色の光が地面へ走った。


 大角獣の身体へ直接巻きつくことはない。


 堀の両側に残っていた古い石積みが、内側へ僅かに押し出された。


 獣の胸が石壁の間へ挟まれる。


 黒い亀裂が脈打った。


 アルヴァンの術が揺らぐ。


 石積みの一部が崩れかける。


「長くは持たんぞ!」


「縄を掛けろ!」


 守備長の命令で、兵士たちが左右の建物から飛び出した。


 太い縄の先に付いた鉄輪を、大角獣の角へ投げる。


 一本目は弾かれた。


 二本目が右の角へ掛かる。


 三本目は根元まで入り、兵士たちが一斉に引いた。


「柱へ回せ!」


 縄が倉庫の石柱へ巻きつけられる。


 反対側からも鉄輪が飛ぶ。


 大角獣が頭を振り上げると、縄を握っていた兵士の身体が宙へ浮いた。


 隣の者が腰へしがみつき、二人まとめて石畳を滑る。


「手を放せ!」


 兵士が縄から手を離した。


 大角獣の角が上がる。


 だが、右側の縄は柱に巻かれたままだった。


 首が途中で止まる。


 縄が軋み、倉庫の柱から細かな石片が落ちた。


「槍兵!」


 左右の窓から、長槍が突き出された。


 喉。


 胸。


 前脚の付け根。


 砦町の兵たちは狙うべき場所を知っていた。


 だが、穂先が黒ずんだ皮膚へ触れるたび、金属を打つような音が響いた。


 一本は表面を滑る。


 一本は僅かに刺さったが、深くは入らない。


 大角獣が暴れた。


 胸が石積みへ押しつけられる。


 黒い皮膚に走る亀裂が、首の付け根まで広がった。


 八郎の左肩へ痛みが走る。


 獣の身体で黒いものが脈打つたび、傷の奥を握られるようだった。


「術が崩れます!」


 魔術師の一人が叫んだ。


 大角獣の前脚の周囲で、アルヴァンの土色の光が乱れている。


「獣へ掛けるな!」


 アルヴァンが怒鳴る。


「堀を押さえろ! 石積みだけ見ていろ!」


 魔術師たちが術の向きを変えた。


 大角獣を拘束しようとするのではない。


 崩れかけた地面と堀の側壁を支える。


 石と土は、獣の身体よりも術に従った。


 大角獣が前脚を引き上げようとする。


 そのたびに、胸と首へ自らの重みが掛かった。


 皮膚の亀裂から、黒ずんだ血が滲む。


「同じ場所へ」


 八郎が言った。


 守備長が振り返る。


「何だ」


「槍を散らしては通りません。同じ傷へ重ねてください」


 守備長は獣の首を見た。


 右側から入った槍の一本が、黒い皮膚を僅かに裂いている。


 傷は浅い。


 だが、そこだけ黒い外皮の下から暗赤色の肉が見えていた。


「右の首だ!」


 守備長が槍を上げる。


「あの傷だけを狙え! 一番槍はそのまま押さえろ!」


 槍兵たちが位置を変えた。


 最初の一本が傷口へ突き込まれる。


 穂先が黒い皮膚の隙間へ入り、止まった。


 二本目が、同じ場所へ重なる。


 一本目の槍身を押し広げるように、さらに奥へ入った。


 大角獣が首を振った。


 右の縄が張り詰める。


 石柱へ巻きつけられた部分が、鈍い音を立てた。


 縄の表面が一本ずつ切れていく。


「切れるぞ!」


「もう一本掛けろ!」


 兵士が鉄輪を投げる。


 角の先に当たり、外れた。


 大角獣が頭を持ち上げる。


 胸が堀の縁から僅かに浮く。


 前脚が瓦礫を掻き、石が一つ通りへ跳ね上がった。


 アルヴァンが杖を両手で握る。


「上がるな」


 低い声とともに、堀の側壁がさらに内側へ寄った。


 大角獣の胸が締めつけられる。


 黒い亀裂が大きく開いた。


 首から胸へ、石の殻が割れるような音が走る。


 黒い薄片が剥がれ落ちた。


 その下から、濡れた肉が露出する。


「今です」


 八郎が言った。


 セレナの声が通りへ響いた。


「術者、右の首へ集中!」


 光が放たれた。


 一つではない。


 火と風と白い閃光が、槍の刺さった一点へ重なる。


 大角獣の身体全体を焼くのではない。


 露出した傷だけを抉る。


 黒い血が飛び散った。


 槍兵たちは退かなかった。


「押せ!」


 守備長が自ら槍を取った。


 先に刺さった二本の間へ、三本目を入れる。


 皮膚ではなく、開いた傷口へ。


 穂先が深く沈んだ。


 大角獣が咆哮する。


 右の縄が切れた。


 首が大きく振り上げられる。


 守備長の身体が槍ごと持ち上がり、石畳へ投げ出された。


「守備長!」


 兵士たちが駆け寄ろうとする。


「来るな!」


 守備長は倒れたまま叫んだ。


「槍を離すな!」


 傷口へ刺さった槍は、まだ獣の首に残っている。


 大角獣が身体を捻った。


 胸が堀の石縁へ押しつけられる。


 刺さった槍の柄が倉庫の壁へ当たり、動きを止めた。


 獣自身の力が、穂先をさらに奥へ押し込む。


 黒い亀裂が、槍を中心に広がった。


 八郎の左肩へ、これまでで最も強い痛みが走った。


 視界が一瞬白くなる。


 左膝が石畳へついた。


「八郎!」


 セレナの声が聞こえた。


 八郎は右手で地面を押し、顔を上げた。


 大角獣の黒い亀裂が、一斉に脈打っている。


 傷口の周囲へ、黒い色が集まり始めていた。


 塞ごうとしている。


「槍を抜かせないでください」


 八郎が言った。


「傷が戻ります」


 セレナが守備長を見る。


 守備長は立ち上がれないまま、片手を上げた。


「縄だ! 柄を壁へ縛れ!」


 兵士たちが槍へ縄を掛ける。


 左右の窓枠と柱へ回し、傷口から抜けないよう固定する。


 大角獣が首を振るたび、槍の柄が撓んだ。


 一本が折れた。


 残る二本は抜けない。


 黒い亀裂が傷口を覆おうとする。


 だが、槍と縄が肉を開いたままにしている。


「もう一度、同じ場所へ!」


 セレナが命じた。


 魔術師たちの顔には疲労が浮かんでいた。


 それでも杖を上げる。


 光が集まる。


 大角獣が前脚を持ち上げようとした。


 堀の側壁が軋む。


 アルヴァンの膝が揺れた。


「早くしろ!」


 最後の術が放たれた。


 炎が傷口へ入り込む。


 風が火を奥へ押し込む。


 黒い血が沸き、白い光がその下を貫いた。


 大角獣の身体が大きく跳ねた。


 槍を固定していた縄が張り詰める。


 石柱へ亀裂が入った。


 次いで、獣の脚から力が抜けた。


 巨体が堀の縁へ沈む。


 黒い角が石畳へ落ちた。


 地面が一度、重く揺れた。


 誰も動かなかった。


 槍兵たちは構えたまま、獣の身体を見ている。


 黒い亀裂が、もう一度だけ淡く脈打った。


 八郎の左肩も、それに応じて疼いた。


 やがて、亀裂の動きが止まった。


 痛みも、急速に遠のいていく。


 大角獣は動かなかった。


「死んだのか」


 誰かが呟いた。


 アルヴァンが杖を地面から離す。


 堀の側壁を押さえていた光が消えた。


「少なくとも、もう立ちはせん」


 守備長が石畳へ座り込んだまま、息を吐いた。


 右脚を押さえている。


 投げ出された際に捻ったらしい。


 セレナが周囲を見回す。


「負傷者を医療院へ。壁の外へはまだ出ないでください。採石場道へ流れた群れの確認を優先します」


 兵士たちが動き始めた。


 緊張が解けたのではない。


 次にすべきことを思い出したのだ。


 縄を解く者。


 負傷者を運ぶ者。


 崩れた壁の内側へ仮の柵を置く者。


 魔術師を支える者。


 八郎は立ち上がろうとした。


 右腕へ力を入れたところで、セレナが肩を貸した。


「無理をしないでください」


「先ほども同じことを言われました」


「聞かなかったのですか」


「聞いてはいました」


「従わなかった」


「結果としては」


「同じです」


 八郎は立ち上がった。


 左肩の痛みは消えてはいない。


 だが、大角獣が生きていた時ほどではなかった。


 崩れた石畳の下には、古い堀が口を開けている。


 その上へ、大角獣の巨体が沈んでいた。


 黒い亀裂の間から流れる血は、赤ではない。


 煤を溶かしたように暗い。


 アルヴァンが獣の首元へ近づいた。


「触れないでください」


 セレナが止める。


「触れなければ調べられん」


「今でなくても」


「今だから分かることもある」


 アルヴァンは杖の先で、剥がれ落ちた黒い薄片を持ち上げた。


 石のように硬い。


 だが、内側には筋のようなものが残っている。


「石ではないな」


「では何です」


「肉だったものだ」


 アルヴァンは薄片を地面へ落とした。


「死体が冷える前に、首と胸の境を切り出せ。黒い部分と赤い部分を両方だ。素手では触るな」


 兵士の一人が顔をしかめた。


「誰がやるんです」


「言い出した者がやると思うか」


「思いません」


「なら急げ」


 八郎は獣の遺骸を見た。


 大角獣が黒い石を呑み込んだのか。


 黒いものの近くで長く生きたのか。


 それとも、身体の内側で別の変化が起きたのか。


 まだ何も分からない。


 ただ一つ、黒い石とあの獣が無関係ではないことだけは確かだった。


 八郎の肩が、それを告げている。


     ◇


 日が傾く頃、医療院の寝台はほとんど埋まっていた。


 死者は出なかった。


 重傷者は三人。


 骨折や打撲、火傷を負った者はさらに多い。


 守備長は右脚を添え木で固定され、不機嫌そうに寝台へ座っていた。


「動かさないで」


 ミレアが言う。


「折れてはいない」


「折れていなくても、立ってよいとは言っていません」


「壁が破れている」


「仮柵はセレナが見ています」


「だが」


「次に立てなくなりたいなら、好きにして」


 守備長は口を閉じた。


 八郎は壁際の椅子に座り、そのやり取りを見ていた。


 診察を受けるよう言われたが、左肩の術式に乱れはない。


 右腕も、荷車を押さなかったため悪化していなかった。


 ミレアは八郎を一度見た後、隣の寝台へ移った。


 若い兵士が横たわっている。


 大角獣の角へ縄を掛けようとした際、石壁へ肩を打ちつけた男だった。


 上着の袖は裂け、左の前腕に深い擦り傷がある。


 傷口には黒ずんだ血と、細かな欠片がこびりついていた。


「洗った?」


 ミレアが助手へ訊く。


「二度。でも、黒いものが取れません」


 水を掛けても、黒い汚れは皮膚の内側に残っている。


 刺青のように、傷の縁へ細い筋が入り込んでいた。


 ミレアが眉を寄せた。


「痛みは」


「熱いです。傷より、その周りが」


 兵士の顔には汗が浮かんでいる。


 黒い筋は、擦り傷から僅かに外へ伸びていた。


 八郎の左肩が、かすかに疼いた。


「ミレア」


 八郎が呼ぶ。


「その傷です」


 ミレアが振り返った。


「肩が反応しているの?」


「僅かに」


 彼女は兵士の腕を見直した。


「大角獣の血が入ったのかもしれない」


 助手が布を持ち上げる。


「切って取りますか」


「先に中を見ます」


 ミレアは兵士の腕へ両手をかざした。


 淡い緑の光が、傷口を覆う。


 兵士の呼吸が少し緩んだ。


 裂けた皮膚の縁が寄り、流れていた血が止まる。


 その時だった。


 傷の周囲へ入り込んでいた黒い筋が、僅かに震えた。


 ミレアの手が止まる。


「何?」


 黒い筋の表面が白く濁った。


 石灰のような色が薄く広がり、次いで細かな粒となって崩れる。


 黒い欠片が傷口から浮き上がった。


 助手が息を呑む。


 ミレアは術を止めなかった。


 緑の光が強くなる。


 傷の縁に残っていた黒い色が、少しずつ後退していく。


 その下から現れた血は、赤かった。


「痛みは」


 ミレアが訊いた。


「さっきより、ましです」


 兵士は自分の腕を見た。


「何をしたんです」


「いつもどおり治しただけよ」


 ミレア自身が、最も分かっていない顔をしていた。


 八郎の左肩の疼きが弱くなる。


「アルヴァン殿を」


 八郎が言った。


 助手がすぐに部屋を出た。


 ほどなくして、アルヴァンが木箱を抱えた兵士とともに入ってきた。


 箱の中には、大角獣から切り出された組織が入っていた。


 黒く硬い皮膚。


 その下に残る暗赤色の肉。


 さらに、筋や血管へ沿うように入り込んだ黒い結晶。


 アルヴァンは若い兵士の傷を見る。


「もう一度やれ」


 ミレアが顔を上げた。


「まだ傷は閉じていません」


「だからだ。閉じる前に見せろ」


「患者を試すつもり?」


「悪化させろとは言っておらん」


 アルヴァンは助手へ目を向ける。


「反応が出たら止める。続けろ」


 ミレアは納得していない様子だったが、再び兵士の腕へ術を掛けた。


 淡い光が傷へ入る。


 残っていた黒い粒が白く曇り、崩れた。


 アルヴァンの目が細くなる。


「治したのではないな」


「傷は治しています」


「そちらではない」


 アルヴァンは黒い粒を細い器具で摘み上げた。


 指先ほどの欠片は、先ほどまで硬かったはずなのに、軽く押すだけで砂のように崩れた。


「黒いものを壊したのでもない」


「では、何をしたの」


「戻した」


 アルヴァンは木箱の中から、切り出された肉片を取り出した。


 完全に黒く固まった部分と、赤い肉の中へ黒い筋が伸びている部分がある。


「こちらへ術を掛けろ」


「死んだ肉に治癒術は効きません」


「分かっている。試すだけだ」


 ミレアが黒く固まった部分へ術を掛ける。


 何も起こらない。


 光は表面を滑り、消えた。


 次に、赤い肉と黒い筋の境へ術を移す。


 黒い筋が、僅かに震えた。


 ほんの一筋だけ、色が薄くなる。


 ミレアが息を止めた。


 術を強める。


 黒い筋の端が白く濁り、細かな粒となって剥がれた。


 だが、それ以上は進まなかった。


 赤い肉もすでに死んでいる。


「生きている部分でなければ、ほとんど反応しない」


 アルヴァンが言った。


「黒い石そのものを消しているわけではない。黒いものへ変わりかけた肉を、元の形へ戻そうとした」


「私の術が?」


「おそらくな」


 ミレアは自分の手を見た。


「治癒術は、傷を塞ぐ術です」


「傷とは何だ」


「身体が壊れた状態です」


「ならば、肉が石へ変わることも、身体にとっては傷なのかもしれん」


 アルヴァンは木箱の蓋を閉じた。


「ただし、完全に黒くなったものには効かない。死んだ肉にもほとんど効かん。生きた身体と黒いものが、まだ争っている間だけだ」


「この兵士は」


「早かったのだろう」


 アルヴァンは傷口を見た。


「黒い血が入ってから、まだ半日も経っていない」


 若い兵士が青ざめる。


「放っておいたら、俺もあれになったんですか」


「分からん」


 アルヴァンは即座に答えた。


「分からんことを、分かるように言うつもりはない」


 兵士は黙った。


 ミレアが再び傷へ術を掛ける。


 今度は黒い反応を見るためではなく、残った傷を治すためだった。


 八郎は左肩へ右手を添えた。


 弱い疼きが残っている。


 谷の黒い石。


 大角獣の身体。


 兵士の傷口。


 同じものが、形を変えながらつながっている。


「治せるのでしょうか」


 八郎が訊いた。


 アルヴァンは木箱を見下ろした。


「何をだ」


「あの黒いものを」


「今分かったのは、治癒術を掛ければ一部が崩れたということだけだ」


 アルヴァンは顔を上げた。


「治せるとは言っておらん」


「ええ」


「期待するな」


「しておりません」


「嘘をつけ」


 八郎は答えなかった。


 窓の外で、短い角笛が鳴った。


 今度は警報ではない。


 しばらくして、セレナが医療院へ入ってきた。


 外套には土と石粉が付いている。


「採石場道へ入った群れは、そのまま南東へ抜けました。砦町へ戻る動きはありません」


 部屋の中に、僅かな安堵が広がった。


「壁は」


 守備長が寝台から訊く。


「仮柵を置きました。今夜は交代で警戒します」


「俺も行く」


「その脚で?」


「折れてはいない」


「同じことを先ほど聞きました」


 セレナは守備長を一瞥し、次いでアルヴァンの持つ木箱を見た。


「何か分かりましたか」


 アルヴァンは答える前に、ミレアを見た。


「この娘が、妙なものを見つけた」


「私が?」


「他に誰がいる」


 ミレアは治療を続けたまま、困ったように眉を寄せる。


「私は傷を治しただけよ」


「それで十分なこともある」


 アルヴァンは木箱へ手を置いた。


「黒く変わりかけた生きた肉へ治癒術を掛けると、変化が僅かに戻る」


 セレナの表情が変わった。


「黒い石にも効くのですか」


「効かん」


「大角獣の遺骸は」


「死んだ部分には、ほとんど効かん」


「では」


「生きている間だけだ。完全に変わる前だけかもしれん」


 アルヴァンは一つずつ言葉を区切った。


「まだ対処法とは呼べん。偶然を一度見ただけだ」


 セレナは若い兵士の傷を見る。


 黒い筋は消えている。


 残ったのは、治りかけた赤い傷だけだった。


「それでも」


 セレナが言った。


「今までは、一度もなかった」


 誰も否定しなかった。


 窓の外には、崩れた防壁の向こうから夕暮れの光が差している。


 二十五年にわたり継ぎ足されてきた壁は、また一箇所壊れた。


 町は今夜から、その穴を塞ぎ始めるのだろう。


 八郎は左肩を押さえた。


 戻る方法は、まだ分からない。


 黒い石が自分をここへ運んだのかも分からない。


 だが、黒いものは壊すだけではない。


 生きた身体を、別の何かへ変えていく。


 そして、それを僅かに戻す力が、この世界にはすでにあった。


 ミレアは知らずに、その力を使っていた。


 八郎は治療台の上に残った黒い砂を見た。


 完全に固まる前なら、戻る余地がある。


 その時、医療院の扉が開いた。


 入ってきた巡察兵は、泥に汚れた外套のままセレナを探した。


「採石場道へ入った群れについて、追加の報告です」


 セレナが振り返る。


「戻ってきたのですか」


「いいえ」


 巡察兵は乱れた息を整えた。


「一度も止まらず、南東へ走り続けています」


「大角獣が倒れた後も?」


「速度を落としていません」


 部屋が静かになった。


 八郎は机の上に残る黒い砂を見た。


 追うものを倒したのではない。


 逃げるものを一頭、止めただけだった。

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