第十四話 報告
翌朝、砦町は壁を直していた。
夜明け前から、崩れた倉庫通りには槌の音が響いている。
大角獣が破った壁の内側には、丸太を組んだ仮柵が立てられていた。その前へ荷車が並び、石材と土嚢が次々に運び込まれている。
古い堀が露出した場所には縄が張られ、兵士が二人、近づく者を止めていた。
大角獣の遺骸は、すでに通りから運び出されている。
巨体を一度に動かすことはできず、夜のうちに解体されたらしい。石畳には洗い流しきれなかった黒い染みが残っていた。
八郎は、その染みの前で足を止めた。
左肩は静かだった。
完全に痛みが消えたわけではない。傷の奥に、冷たいものが残っている。
それでも、大角獣が生きていた時のような脈動はなかった。
「朝から見物ですか」
背後から声がした。
セレナが歩いてくる。
昨日と同じ外套を着ているが、泥と石粉は払われていた。腰には剣があり、左手には何枚かの書類を抱えている。
「見物というほど、愉快なものではありません」
「それはそうでしょうね」
セレナは黒い染みを見下ろした。
「眠れましたか」
「少しは」
「医療院では、夜中まで起きていたと聞きました」
「少し、という言葉には幅があります」
「あなたの言う少しは信用しないことにします」
セレナは書類を持ち直した。
「アルヴァンが呼んでいます。守備隊の詰所です」
「黒い石についてですか」
「それも含めてです」
八郎はすぐに歩き出した。
セレナが横へ並ぶ。
「随分と急ぎますね」
「急ぐ理由があります」
「ニホンですか」
八郎は答えなかった。
セレナも、それ以上は訊かなかった。
◇
守備隊の詰所には、戦闘前に使われていた地図がそのまま広げられていた。
赤い線。
薄青い線。
さらに古い灰色の線。
机の端には、別の地図と数枚の報告書が重ねられている。
守備長は椅子に座っていた。
右脚には添え木が巻かれ、床へ伸ばしている。
「立たなくてよろしいのですか」
八郎が言う。
「立てないんだ」
「それは失礼しました」
「分かって言っただろう」
「半分ほどは」
守備長は鼻を鳴らした。
机の反対側には、アルヴァンとミレアがいる。
アルヴァンの前には、蓋を封じた木箱が三つ置かれていた。
一つは小さい。
残り二つは、両手で抱えるほどの大きさがある。
「揃ったな」
アルヴァンが言った。
「まず、昨夜の続きを話す」
小さな木箱を指で叩く。
「こちらには谷で回収した黒い石が入っている」
次に、二つ目へ触れる。
「大角獣から採取した皮膚、骨、筋、血管。それぞれ黒化の程度が違うものを分けた」
三つ目。
「黒い血と、治癒術で崩れた欠片だ」
ミレアが補う。
「黒い血が傷に入った兵士は、今朝も異常ありません。熱も下がっています。黒い筋が戻った様子もない」
「治ったのですか」
八郎が訊く。
「傷は治り始めています」
ミレアは慎重に答えた。
「黒いものについては、まだ分かりません。消えたようには見えます。でも、体の中へ残っていないとは言い切れない」
「数日は経過を見る」
アルヴァンが言った。
「それと、昨夜試した反応も、まだ一度だけだ」
「黒く変わりかけた肉へ治癒術を掛けると、元へ戻るという話ですね」
「戻る可能性がある、だ」
アルヴァンは言い直した。
「完全に黒化したものには効かなかった。死んだ組織にもほとんど効かん。生きた肉体で、変化の途中にある部分だけが反応した」
「ならば、黒化した魔獣にも」
「効くとは限らん」
「ですが」
「効くとしても、あの巨体のどこへ、どれだけの術を掛ける」
アルヴァンは木箱へ顎を向けた。
「昨日の大角獣を、ミレア一人で元へ戻せたと思うか」
八郎は黙った。
「期待するなとは言わん」
アルヴァンが続ける。
「だが、見つかったものを、すぐに救いと呼ぶな。条件を確かめるまではな」
「それを確かめるために、呼ばれたのですか」
「それだけではない」
アルヴァンは机の上の地図を退けた。
下から、一通の封書が現れる。
赤い紐が掛けられていた。
「ここでは、これ以上調べられん」
「設備がない?」
「設備も、人も、記録も足りん」
アルヴァンは黒い石の箱を指した。
「石の内部を見る術式がない。大角獣の組織を長く保存する容器もない。黒化の進行を測る器具もない」
「王都ならあります」
セレナが言った。
彼女は机の端へ書類を置いた。
「少なくとも、王立の研究部門には、この砦町より多くの術者と記録があります。王国全域の異常事例も集められています」
「転移についてもですか」
八郎はセレナを見た。
「私が、ここへ来たことについて」
セレナは答えなかった。
代わりにアルヴァンが口を開く。
「分からん」
即答だった。
「王都へ行けば帰れるなどとは言わん。君がここへ来たことと、黒い石が関係している証拠もない」
「肩は反応しています」
「関係があることと、原因であることは同じではない」
「それでも、ここにいるよりは調べられる」
「そうだ」
アルヴァンは認めた。
「ここでできることは、もう大方終わった」
その言葉を聞き、八郎は机の上の箱を見た。
黒い石。
大角獣の組織。
自分の左肩。
どれも、箱館へ戻る道を示してはいない。
だが、ほかに追うべきものもなかった。
「いつ発ちます」
八郎が訊いた。
セレナが僅かに眉を上げる。
「行くことは、まだ決まっていません」
「王都へ運ぶのでしょう」
「標本と報告書は」
「では、私も参ります」
セレナは八郎を見た。
「王都がどちらにあるかも知らないでしょう」
「道を知る方と行けば済みます」
「道中の危険も分からない」
「昨日の獣より危険ですか」
「比べる話ではありません」
セレナの声が少し硬くなった。
「あなたは、王都へ行けばすぐ帰還方法が見つかると思っているのですか」
「思ってはいません」
「では、なぜ」
「ここにいて見つからないことは、今聞きました」
八郎は静かに答えた。
「ならば、ほかへ行くしかありません」
セレナが何か言おうとした。
守備長が先に笑った。
「行かせてやれ」
全員の視線が集まる。
「止めても、勝手に出ていきそうな顔をしている」
「そこまで礼を欠くつもりはありません」
八郎が言う。
「つもりの話はしていない」
守備長は椅子の背へ身体を預けた。
「それに、こいつがいなければ、昨日はもっと死人が出ていた」
「それと監視命令は別です」
セレナが言った。
「だから、あんたが付いていけばいい」
守備長は当然のように返した。
「何のために王都から来た騎士がいる」
詰所が静かになった。
八郎はセレナを見る。
「監視役だったのですか」
「違うと思っていたのですか」
「案内役かと」
「それだけなら、町の兵士で足ります」
「なるほど」
八郎は少し考えた。
「では、私は囚人として王都へ連れて行かれるのでしょうか」
「囚人ではありません」
「途中で別の道へ行く自由は?」
「認めません」
「大差はなさそうですな」
守備長が声を上げて笑った。
セレナは笑わなかった。
「あなたは身元不明です」
まっすぐ八郎を見る。
「黒い石に反応し、昨日は黒化した魔獣とも反応した。戦場での指揮にも慣れている。それで自由にしてくださいと言われて、許可できると思いますか」
「思いません」
「随分あっさり認めますね」
「逆の立場なら、私も許しません」
セレナは一瞬、言葉を失った。
アルヴァンが小さく息を吐く。
「話を進めるぞ」
彼は書類を一枚取り上げた。
「王都へ送るものは、黒い石、大角獣の標本、黒い血、治療記録、巡察記録の写し」
そこで八郎へ目を向ける。
「それと君だ」
「私は箱へ入りません」
「入れとは言っておらん」
「同じ列に並べられましたので」
「自分で歩く標本は面倒だな」
「標本ではありません」
「なら、王都で証明しろ」
アルヴァンは次にミレアを見た。
「お前も来い」
「私も?」
「治癒術の反応を起こしたのはお前だ。別の術者が同じことをできるかも分からん」
ミレアは医療院の方角へ目を向けた。
「黒い血を浴びた兵士は」
「出発まで観察する。王都へは記録を持っていく」
「もし、また黒い筋が出たら」
「その時は出発を遅らせる」
アルヴァンは言い切った。
「患者を置いていけとは言わん」
ミレアは少し迷った後、頷いた。
「分かった」
セレナが机上の報告書を開いた。
「私は王都への正式報告者として同行します。同時に、輸送隊の責任者を務めます」
「壁が壊れた直後に、この町を離れるのですか」
八郎が訊いた。
「私の任地は、この町ではありません」
「王都直属の騎士だ」
守備長が言った。
「この町の守りは俺たちの仕事だ」
セレナが守備長の脚を見る。
「その状態で?」
「脚一本で壁を支えているわけじゃない」
「無理をすれば悪化します」
「お前までミレアみたいなことを言うな」
「正しいことは、誰が言っても同じです」
守備長は顔をしかめた。
それでも、声には迷いがなかった。
「黒い獣が出て、王都の騎士が見た。なら、直接行って話せ。書類だけ送って、机の上で軽く扱われる方が困る」
セレナはしばらく守備長を見た。
やがて、短く頷く。
「王都へ、増援と補修資材を要請します」
「多めに書け」
「被害を誇張するつもりはありません」
「なら、俺の脚を重傷にしておけ」
「折れていないのでしょう」
「そこは黙っていれば分からん」
「今、全員の前で言いました」
「融通が利かんな」
守備長は不満そうに腕を組んだ。
アルヴァンが地図の一箇所を指す。
「輸送隊は、最短で三日後に出せる」
「三日」
八郎が繰り返した。
「急ぐなら、明日にでも」
アルヴァンが首を振る。
「標本の封印が終わらん。黒い石を普通の荷と一緒に積むつもりか」
「途中で何が起きるかも分かりません」
セレナが言う。
「護衛と馬車を揃えます。負傷兵からも人を回せません。最低でも三日は必要です」
「王都までは」
「順調に進んでも、近くはありません」
「何日です」
「道の状態と宿場次第です」
「おおよそで構いません」
セレナは答える前に、八郎の顔を見た。
「あなたが焦るのは分かります」
「分かりません」
八郎は言った。
「私のいた戦場では、一日あれば人が死にます。三日あれば、隊が消えることもある」
誰も口を挟まなかった。
「私がここへ来た時、戦は終わっていませんでした」
八郎は続けた。
「今も続いているのか、それすら分からない。こちらで過ぎる一日が、向こうでも同じ一日なのかも分かりません」
「時間の流れが違う可能性もあります」
アルヴァンが言う。
「そうであればよいと思っています」
八郎は机上の黒い石へ目を落とした。
「ですが、それに賭けて待つことはできません」
セレナは何も言わなかった。
八郎が急いでいることは、知っていた。
だが、それがどれほど切迫したものかを、初めて量ったような顔だった。
「三日です」
やがて彼女が言う。
「それ以上は延ばしません。標本、護衛、馬車を揃えます」
「承知しました」
「ただし、出発までは私の許可なく町を出ないでください」
「刀を受け取りに行くのは」
「町の中でしょう」
「ええ」
「それは止めません」
「安心しました」
八郎の返事を聞き、アルヴァンが眉を寄せる。
「刀はまだ直っていないのか」
「ガルド殿からは、何も」
「昨夜、工房へ使いを出した」
セレナが言った。
「王都行きの可能性があるので、修理を急げるか確認しています」
守備長が八郎の腰を見る。
そこには脇差だけが残っている。
「昨日、刀がなくてよかったのかもしれんな」
「なぜです」
「あったら、あの獣へ斬りかかっていただろう」
「斬れないものへ、無闇に近づくほど愚かではありません」
「無闇でなければ行ったのか」
八郎は答えなかった。
「やはり、なくてよかった」
守備長は言った。
◇
詰所を出ると、日が高くなっていた。
壁の修復作業は続いている。
石を運ぶ者。
割れた材木を切り揃える者。
仮柵の前で槍を構える者。
町は昨日の戦いを振り返る暇もなく、次に備えていた。
セレナは報告書を持って、守備隊の別室へ向かった。
ミレアは医療院へ戻る。
アルヴァンは黒い石の封印を確かめると言って、兵士に木箱を運ばせた。
八郎だけが、詰所の前に残った。
王都へ行く。
そこに帰還の方法があるとは限らない。
黒い石について、何も分からないまま終わる可能性もある。
それでも、この町で待ち続けるよりは前へ進める。
箱館へ戻るために、箱館とは無関係の王都へ向かう。
遠回りなのか。
そもそも道になっているのか。
今は判断できない。
「八郎さん」
呼ばれて振り返る。
工房の徒弟が、通りの向こうから走ってきた。
息を切らし、膝へ手をつく。
「ガルドさんが、来てくれって」
「刀が直ったのですか」
「いや」
徒弟は首を振った。
「直ってはいない。ただ、見せたいものがあるって」
「何を」
「砥石です」
八郎は左肩へ右手を置いた。
痛みはない。
だが、傷の奥で、ごく微かに何かが動いた気がした。
「すぐに参ります」
八郎が歩き出す。
徒弟が、その後を追う。
王都行きは三日後。
それまでに、刀を取り戻さなければならない。
工房の方角から、鉄を打つ音が響いていた。
昨日までとは僅かに違う、濁った音だった。




