第十五話 染まる砥石
工房の扉を開けると、火の熱より先に、水と鉄の匂いが鼻へ入った。
炉には火が残っている。
だが、ガルドは金床の前にはいなかった。
奥の作業台で、細長い鉄片へ砥石を当てている。
水を含んだ石が、鉄の上を往復する。
聞こえるのは、ごく普通の研磨音だった。
「連れてきました」
徒弟が声を掛ける。
ガルドは手を止めずに言った。
「そこを閉めろ。風が入る」
八郎が扉を閉じ、作業台へ近づいた。
鉄片の隣には、もう一つ長いものが布を掛けて置かれている。
「これは」
「この国の刃物鋼だ」
ガルドは研いでいた鉄片を水で洗った。
灰色の研ぎ汁が流れ落ちる。
「焼きも入れてある。町で手に入るものじゃ、上等な方だ」
鉄片の表面に変わったところはない。
ガルドは砥石を持ち上げた。
石にも、多少の減りはあるだけだった。
「次だ」
彼が隣の布を取る。
八郎の刀が現れた。
鍔と柄は外され、裸身のまま台へ固定されている。
刃こぼれは均され、歪みも直されていた。
だが、まだ仕上げには入っていない。
ガルドは、先ほどと同じ砥石の反対側を刀身へ当てた。
一度、滑らせる。
音が変わった。
高い擦過音ではない。
水が乾いた土へ吸い込まれていくような、低く濁った音だった。
二度目。
砥石が刀身へ食いつく。
黒い水が、刃の上から流れ落ちた。
八郎の左肩が微かに疼く。
「これだ」
ガルドは手を止めた。
砥石の面には、細い黒筋が浮いていた。
先ほど現地の鋼を研いだ面にはない。
「同じ石ですか」
「同じ一枚だ」
ガルドは砥石を裏返した。
「こっちで、この国の鋼を研いだ。何も起きん」
再び返す。
八郎の刀へ当てた面だけが黒く濁り、端から細かな粒となって崩れている。
「石が刀を選んだ?」
「選んだかどうかは知らん」
ガルドは黒い研ぎ汁を布で拭った。
「だが、石だけが妙なら、どの鉄でも同じことが起きる」
現地鋼の鉄片を作業台へ置く。
「変わったのは、お前の刀だけだ」
八郎は刀身を見た。
刃文とは別に、銀灰色の細い筋が浮かんでいる。
光の角度を変えなければ見えない。
表面の傷ではなかった。
地鉄の中へ、糸のように入り込んでいる。
「何が違うのでしょう」
「中身だろうな」
ガルドは現地鋼の鉄片を指で弾いた。
澄んだ音が鳴る。
「この世界の鉄には、どれだけ精錬しても魔素の癖が残る。魔道具でなくてもだ」
次に八郎の刀へ触れる。
「だが、お前の鉄には、それがない」
「魔素が」
「ああ。まるで空だ」
ガルドは黒筋の走った砥石を見た。
「こちらの鉄は、最初から何かで満ちている。だから、この石を当てても表を削るだけだ」
「私の刀は違う」
「何もなかったところへ、石のものが入り込んだ。そう考えれば辻褄は合う」
「石を吸ったと」
「鉄が水を飲むとは言わん」
ガルドは眉を寄せた。
「だが、起きていることは似たようなものだ」
八郎の左肩が、もう一度弱く疼いた。
黒い石に近づいた時の痛みとは違う。
傷の奥へ冷たい波が一度だけ広がり、消える。
「刀を見せてください」
ガルドが固定を外した。
八郎は茎の近くを右手で持ち上げる。
反りは変わっていない。
重ねも、重心も大きくは動いていない。
箱館から持ってきた刀のままだ。
ただ、その内側に知らないものが加わっている。
「ひびではありませんか」
「違う」
ガルドは即答した。
「ひびなら音で分かる」
刀の棟を軽く弾く。
澄んだ音が長く伸びた。
「折れた鉄の音ではない」
「では、このまま仕上げられますか」
「できる」
「問題は」
「硬くなりすぎている」
八郎は刀身から目を上げた。
「どの程度です」
「確かめる」
ガルドは棚から一本の鑢を取った。
厚みのある鋼製で、目が粗い。
刃物の仕上げではなく、焼き入れ前の鋼を削るためのものらしい。
彼は刀の棟へ鑢を軽く当てた。
引く。
乾いた音がした。
刀身には跡がつかなかった。
ガルドが力を強める。
もう一度、鑢を引く。
今度は細かな金属粉が落ちた。
八郎が刀身を見る。
傷はない。
削れていたのは、鑢の歯だった。
先端の目が僅かに潰れている。
「これは」
「こちらの鋼では削れん」
ガルドは潰れた鑢の歯を親指でなぞった。
「少なくとも、今ここにある道具ではな」
八郎は刀の刃先を見る。
「よく斬れるということですか」
「違う」
ガルドは刀を光へかざした。
「硬いんだ」
「丈夫になった?」
「それも違う」
ガルドは刀を八郎へ戻した。
「硬すぎるものは、曲がらずに折れる」
八郎は片手で刀身を支えた。
「この刀は、もともと一様な鉄ではないのでしょう」
ガルドが言う。
「刃は硬い。芯は粘る。そういう作りだ」
「分かるのですか」
「直せと言われた刀を、見もせず触ったと思うか」
彼は銀灰色の筋を指した。
「石のものは、鉄の筋へ沿って入っている。全部を同じ硬さへ変えたわけじゃないらしい」
「ならば折れない」
「そこまでは言っていない」
ガルドの声は厳しかった。
「刃は、俺が知る鋼より硬い。だが、横から無理な力を掛ければどうなるか分からん。刃筋を外せば、どれほど硬くても折れる時は折れる」
「承知しています」
「本当に分かっている顔だな」
「刀は、硬さだけで斬るものではありません」
ガルドは少しだけ口元を歪めた。
「ならいい」
彼は黒筋の走る砥石を水へ戻した。
「別の石へ替えることもできる」
「替えれば元へ戻りますか」
「戻らん」
ガルドは短く答えた。
「もう石は鉄へ入った。この筋を消すには、その分だけ刀を削るしかない」
「仕上がりは」
「普通の石なら五日。このままなら明日だ」
王都行きは三日後だった。
「危険だと思いますか」
「思う」
「使えないほどに?」
「それは、まだ分からん」
ガルドは砥石へ手を置いた。
「だから、お前に決めさせる」
八郎は台の上の刀を見た。
箱館から持ってきたものは多くない。
この刀も、一度折れかけた。
何も変わらぬまま元へ戻せるとは、初めから思っていなかった。
「このままお願いします」
「いいのか」
「ええ」
「もっと変わるかもしれんぞ」
「ここで止めても、すでに変わっています」
「元の刀ではなくなる」
「折れた時点で、元どおりではありません」
ガルドは黙った。
「それでも直すのか」
「使えるなら」
「危なくなれば捨てられるか」
八郎は少し考えた。
「その時に決めます」
「捨てられない者の答えだな」
「捨てるつもりなら、ここへは来ません」
ガルドは鼻で笑った。
「違いない」
砥石を刀へ当てる。
低い音が工房へ響いた。
黒い研ぎ汁が流れる。
銀灰色の筋が、鋼の組織へ沿って静かに伸びていった。
◇
翌朝、刀は仕上がった。
工房の裏庭には、藁束と、厚い鋼の試験片が用意されていた。
「まず普通のものから斬れ」
ガルドが言う。
八郎は柄を握った。
目釘と柄木の一部は新しくなっている。
元の鮫皮と柄糸は、使える部分を残して巻き直されていた。
反りも重心も変わらない。
片手で構える。
一歩踏み込み、藁束へ刃を走らせた。
上半分が遅れて落ちる。
刃筋は素直に通った。
八郎は切り口を確かめる。
「問題ありません」
「次だ」
ガルドは厚い鋼片を木台へ固定した。
刀ほどの厚みはない。
だが、刃物の試験に使う焼き入れ済みの鋼だという。
「斬り落とせとは言わん」
「では」
「刃を入れろ。無理なら止めろ」
八郎は鋼片の前へ立った。
右手だけで柄を握る。
呼吸を整える。
硬いものを力任せに叩けば、刀身へ横の力が掛かる。
必要なのは、刃筋を外さないことだった。
踏み込む。
刃が落ちた。
甲高い音が庭へ響く。
鋼片が木台から外れ、地面へ転がった。
表面には、深い斜めの傷が入っている。
半ば近くまで刃が食い込んでいた。
八郎は刀身を見る。
刃こぼれはない。
潰れもない。
ガルドが刀を受け取り、布で拭った。
目を細めて刃先を確かめる。
「傷一つない」
鋼片を拾い上げる。
切り込まれた縁は押し潰されたのではなく、刃によって裂かれていた。
「こちらの焼き入れ鋼へ、ここまで入るか」
「以前は?」
「刃が先に欠ける」
ガルドは刀を八郎へ返した。
「よく斬れる、では済まんな」
「硬くなった」
「ああ」
ガルドは険しい顔のまま刀身を見た。
「とんでもなくな」
八郎は鞘へ収めた。
「これなら、黒くなった獣にも通るでしょうか」
「知らん」
「やはり」
「硬いものを斬れることと、生き物を倒せることは別だ」
ガルドは鋼片を木台へ戻した。
「骨を断てても、届かなければ意味がない。巨体に押し潰されれば、刀が残っても持ち主が死ぬ」
「よく分かっています」
「なら、刀だけを当てにするな」
「これまでも、そうしてきました」
ガルドは八郎を見た。
昨日までより、少しだけ刀を見る目が変わっていた。
職人が仕上げた道具を見る目ではない。
自分にも分からないものを、送り出す目だった。
「砥石も王都へ持っていけ」
黒筋の走った石を布へ包む。
「現地の鋼には何も起こらず、お前の刀だけが変わった。それも話せ」
「魔素がなかったから、と」
「推測だ」
「ええ」
「断言するな」
「アルヴァン殿にも同じことを言われます」
「なら、少しは覚えろ」
ガルドは布包みを差し出した。
八郎は刀とともに受け取る。
「代金は」
「王都から戻った時でいい」
「戻らなければ」
「刀を置いていけ」
「それは困ります」
「なら戻れ」
◇
刀が仕上がった翌日は、王都行きの支度に費やされた。
標本は一つずつ封じ直され、馬車と護衛が揃えられた。八郎にできることは多くなく、腰へ戻った刀の重みを確かめながら出発を待った。
◇
さらに翌朝、東門の前に二台の馬車が並んだ。
一台には食料と野営道具。
もう一台には、封を施された木箱が積まれている。
黒い石。
大角獣の組織。
黒い血。
治癒術で崩れた欠片。
そして、刀を変えた砥石。
箱同士の間には厚い板が挟まれ、別々に固定されていた。
アルヴァンは荷台へ上がり、封印を確かめている。
「その箱を寄せるな」
兵士へ怒鳴った。
「砥石でしょう」
「だから安全だと誰が言った」
兵士は慌てて小箱を離した。
ミレアは医療道具と治療記録をまとめている。
黒い血を浴びた若い兵士に、再発はなかった。
傷口から黒い筋も消えたままだという。
セレナは馬上から護衛の人数を確認していた。
八郎を見ると、腰の刀へ視線を落とす。
「間に合ったのですね」
「ええ」
「異常は」
「あります」
セレナの表情が曇る。
「使えないのですか」
「逆です」
「逆?」
「こちらの鋼では、刃を削れなくなりました」
セレナは刀を見る。
「何をしたのです」
「研いだだけです」
「それで済む話ではないでしょう」
「私もそう思います」
セレナは荷台の砥石へ目を向けた。
「王都へ着くまで、むやみに抜かないでください」
「必要がなければ」
「必要かどうかを決めるのは、護送責任者です」
「監視役でもある」
「よく覚えていましたね」
「忘れにくい立場ですので」
門の脇には、守備長が立っていた。
右脚にはまだ添え木が巻かれ、兵士に支えられている。
「その脚で見送りですか」
八郎が言う。
「門から出る者を、寝台から見送れるか」
守備長は腰の刀を見る。
「直ったのか」
「使えるようには」
「歯切れが悪いな」
「硬くなりすぎたそうです」
「刀が?」
「ええ」
「持ち主に似たか」
「私はそれほど頑なではありません」
「自分で言う奴は信用できんな」
工房の前にはガルドも立っていた。
「壁の修理が終わる前に戻ってこい」
守備長がセレナへ言う。
「王都で資材を出させます」
「紙だけ出させるなよ」
「分かっています」
門が開いた。
外の街道が姿を現す。
王都がどれほど先にあるのか、八郎はまだ知らない。
そこに帰還の方法があるかも分からない。
それでも、ここに留まっていては何も変わらない。
セレナが馬を進める。
護衛の兵士と荷馬車が続く。
アルヴァンとミレアも門を出た。
八郎は最後に一度、砦町を振り返った。
継ぎ足された壁。
崩れた場所へ組まれた足場。
仮柵の向こうで働く人々。
数日前まで、名も知らなかった町だった。
右手で、腰の刀を確かめる。
箱館から持ってきた、魔素を持たない鉄の刀。
異世界の石を受け入れ、こちらの鋼では傷一つつかなくなった。
それでも、八郎にとっては同じ刀だった。
王都へ続く道の先に、箱館はない。
それでも、帰るために歩き始めた。




