第十六話 王都式
街道には、二本の轍が途切れず続いていた。
砦町を出た二台の馬車は、その溝に沿って東へ進んでいる。
前には食料と野営道具。後ろには、封を施された標本類。
護衛兵は六人。セレナは馬上で隊列を見回り、アルヴァンは後ろの御者台から木箱を監視していた。ミレアは二台の間を歩く。
八郎の位置は、前の馬車の右側。
黒い試料とは馬車一台分離れている。それでも左肩には、薄い氷を入れられたような重さがあった。
後ろの馬車には、黒魔石、変質した砥石、魔獣の組織。それらは、この世界へ来た理由と、箱館へ戻る道に繋がるかもしれない。
先へ行きたい足を、八郎は馬車の速度へ合わせた。
「王都までは、何事もなければ十日です」
セレナの声が隊列へ届く。
十日。
一人なら縮められる。だが、一人で進めば手掛かりを置いていくことになる。
八郎は轍の先を見たまま、歩調を変えなかった。
◇
日が高くなる頃、一行は街道脇の水場で休息を取った。
石を組んだ水槽へ、丘から引かれた水が細く流れ込んでいる。
御者が馬を水槽へ寄せた。
先行していた兵士は街道の先を見張り、後方の二人は今来た道へ目を配っている。危険物馬車の左右にいた兵士だけが、交代で水を飲んだ。
アルヴァンは御者台から降りると、木箱を固定した縄と封を順に調べ始めた。
ミレアは八郎を水槽の端へ座らせ、左肩へ銀盤をかざす。
中央の石が淡く光った。
「朝と同じ強さです」
「私も、そう感じます」
「痛みは」
「冷たいものを載せられているような具合です」
「痛くはないのですか」
「歩けなくなるほどではありません」
ミレアの手が止まった。
「歩けるかどうかは聞いていません」
八郎は少し考えた。
「では、痛みはあります」
「最初から、そう答えてください」
「銀筒は役目を果たしているようだな」
いつの間にか、アルヴァンが背後へ立っていた。
「谷にいた時より反応は弱い。距離も保っている。この程度なら――」
「父さん」
ミレアは銀盤から目を上げなかった。
「今は患者を診ています。封の具合は、あとで調べてください」
「同じ現象を別々に調べているだけだ」
「なら、こちらが終わるまで待って」
アルヴァンは口を閉じた。
八郎は僅かに笑った。
「何ですか」
「いえ。話が早くてよいと思いまして」
「あなたの記録も、まだ終わっていません」
ミレアは帳面を開き、痛みの程度を書き加えた。
背後で、木を打つ音がした。
危険物馬車の御者が、右後輪の脇へ屈み込んでいる。
車軸の先に打たれた鉄栓が、僅かに外へ出ていた。
御者は鉄栓を指で押し、頭の片側を布で拭った。擦れた箇所だけが白く光っている。
「朝は根元まで入っていました。道の揺れで、少しずつ押し出されたようです」
セレナが馬を降りた。
「宿駅まで持ちますか」
「速度を落とせば。ここで抜く方が危ない」
御者は荷台を見上げた。
「車輪を支える設備がありません」
セレナはアルヴァンへ目を向けた。
「地面を固めて、車軸を浮かせることはできますか」
「できる」
アルヴァンは即答した。
だが、杖へ手を伸ばそうとはしなかった。
「ここでは使わん」
「理由は」
「黒い石を積んだ箱の真下へ、土の魔力を通すことになる」
アルヴァンは荷台を指した。
「封じた試料がどう反応するか分からん。大角獣は土壁の術式を内側から乱した。小さな試料だから安全だとは言い切れん」
「箱を降ろした場合は」
「街道で動かす方が危険だ」
セレナは御者へ向き直った。
「積んだまま、宿駅まで運びます」
「それがよいかと」
「後ろの二人を馬車へ寄せてください。音が変われば、すぐ止める」
御者が鉄栓を小槌で打ち戻した。
休息を終えた兵士たちが、それぞれの位置へ戻っていく。
八郎も立ち上がった。
「あなたは前の馬車から離れないでください」
ミレアが言った。
「手伝うつもりはありません」
「近くで見るつもりは?」
八郎は危険物馬車へ目を向けた。
「少しは」
「それを止めています」
「承知しました」
八郎は元の位置へ戻った。
◇
午後から、車輪の音に小さな金属音が混じった。
かつ。
右後輪が回るたび、一定の間隔で鳴る。
御者は何度も振り返り、鉄栓の位置を見ていた。セレナも危険物馬車の近くを離れない。
隊列は午前より遅く進んだ。
東から来た荷馬車とすれ違う。
干した草を高く積んだ車で、御者は護衛兵の姿を見ると早めに街道の端へ寄った。
荷台に座っていた子供が、封を施された馬車を見つめる。
次に八郎の空の左袖へ目を移した。
母親らしい女が子供の肩を引き、前を向かせる。
荷馬車は何事もなく通り過ぎた。
しばらくして、セレナが八郎の横へ馬を寄せた。
「鉄栓は、まだ動いていません」
「ええ」
「音が鳴るたび、振り返っていますね」
「止まるべき時を見落としたくありませんので」
「止めるのは御者です」
「見るだけなら、邪魔にはならないでしょう」
セレナは八郎を見下ろした。
「確認に行かなければ」
「この位置からにします」
「そうしてください」
セレナは危険物馬車の方へ戻っていった。
日が傾くにつれ、金属音は少しずつ大きくなった。
だが、鉄栓が再び浮き出すことはない。
やがて丘の裾に、幾つかの屋根が見えた。
石壁に囲まれた宿駅だった。
片側には二階建ての宿と馬小屋。向かいには、荷車を入れる庭と倉庫が並んでいる。
門の前には荷を降ろしている商人が二組いた。
セレナが封書を示すと、宿駅の者たちは商人の馬車を脇へ寄せ、危険物馬車を奥の庭へ通した。
中身を訊く者はいなかった。
赤い封と六人の護衛を見れば、それで足りるらしい。
馬車は平らな石を敷いた場所で止められた。
護衛兵が周囲へ立ち、アルヴァンが荷台に残る。
宿駅の男たちは車輪の前後へ木片を噛ませ、車軸の下へ梃子を差し込んだ。
重さを僅かに浮かせてから、摩耗した鉄栓を引き抜く。
鉄栓の側面には、短い線が三本刻まれていた。
一人がそれを持って倉庫へ入る。
壁の棚には、長さや太さの異なる鉄栓が並んでいた。
男は刻みを順に確かめ、同じ三本の線が入ったものを一本取った。
寸法を測ることも、外した鉄栓と重ねることもしなかった。
「測らなくてよいのですか」
八郎が訊いた。
「王都式ですから」
男は新しい鉄栓を車軸の穴へ差し込んだ。
小槌で二度打つ。根元まで収まり、車輪から金属音が消えた。
「どの馬車も、この作りなのですか」
「公用のものだけです。同じ印なら、どの宿駅でも替えられます」
八郎は三本の刻みを見た。
ガルドは一本の刀を調べ、その刀だけに合う鉄を継いだ。
こちらは、誰が作っても、誰が直しても、同じ働きをするよう先に形を決めている。
雪の軍議室で、ヴァルクールが小銃を語った時のことを思い出した。
名人を待たず、十日で兵を揃える。個人の技ではなく、仕組みとして力を残す。
「なるほど。王都式か」
その言葉の奥に、八郎は知らぬ誰かではなく、よく知る男の考え方を一瞬だけ聞いた気がした。
◇
日が沈む頃、危険物馬車の周囲には夜番の兵士が立った。
宿の入口で、ミレアがもう一度銀盤を取り出す。
「少し弱くなっています」
奥庭の木箱との距離が開いたためだろう。
八郎自身も、左肩の冷たさが薄れたのを感じていた。
「明日も同じ距離を保ちます」
セレナが言った。
「歩幅も含めてですか」
「含めてです」
「承知しました」
「朝も覚えていてください」
「努めます」
「約束してください」
ミレアが横から言った。
八郎は僅かに間を置いた。
「約束しましょう」
「その返事は、前にも聞いたな」
アルヴァンが言う。
「前回は守りました」
「試さないと約束した後、銀筒を開けたのは誰だ」
「あれは反応を確かめるためです」
「それを試すと言うんだ」
ミレアは八郎を見たまま、銀盤をしまわなかった。
「明日は、セレナの指示した位置を守る。箱へ近づかない。肩の状態が変われば、すぐ申告する」
一つずつ確認する。
八郎は頷いた。
「すべて約束します」
ようやくミレアは銀盤を鞄へ戻した。
「では、食事にしましょう」
四人が宿へ入る。
帳場の脇には、小さな秤が置かれていた。
先ほど外された鉄栓が、その上に載せられている。
宿駅の男は重さを確かめ、帳面へ書き込んだ。書き終えると、鉄栓を古い鉄ばかりが入った木箱へ落とす。
八郎は足を止めたが、何も訊かなかった。
古い鉄栓は重さを量られ、帳面へ記され、再び鉄として使う箱へ落とされた。
壊れたものさえ、次に使える形へ戻していく。
王都式の先に、箱館へ帰る道があるかもしれない。
階段を上る間も、帳面へ筆を走らせる音が続いていた。




