第十七話 先触れ
旅の三日目、街道の両脇に色が増え始めた。
初めは、農家の柵に掛けられた一枚の布だった。
次の家には三枚。その先では、赤や黄に染められた長い布が、風を受けて並んでいる。
一昨日交換した鉄栓は、もう音を立てていない。
二台の馬車は同じ間隔を保ち、轍に沿って進んでいた。
八郎の左肩には、朝から変わらぬ冷たさがある。後ろの馬車が坂で近づけば僅かに重くなり、間が開けば薄れた。
ミレアは休息のたびに銀盤をかざし、その変化を帳面へ記している。
「この辺りでは、一番大きな織物市があります」
ミレアが街道脇の布を見ながら言った。
「町の外まで干すのですか」
「染め上がった布を、通る商人へ見せるためです。これだけ並べておけば、遠くからでも分かりますから」
前方の丘を越えると、町が見えた。
街道を挟んで屋根が密集している。中央には宿駅の石壁があり、その周囲へ店や工房が後から広がったらしい。
幾つもの煙突から、白い湯気が上がっていた。
「最初は小さな宿駅だったそうです」
ミレアが続ける。
「北から来る毛織物と、南から運ばれる染料が、ここで一緒になるんです」
「町の名より、布の方が知られているくらいだ」
後ろの御者台からアルヴァンが口を挟んだ。
「だが、今日は布を見に来たわけではないぞ」
「まだ何も言っていません」
「言う前に止めた」
ミレアが振り返る。
「八郎さんへ説明していただけです」
「私のせいで叱られたようですな」
八郎が言うと、アルヴァンは鼻を鳴らした。
「君は余計な道へ入る顔をしている」
「随分と便利な顔です」
先頭から、セレナが振り返った。
「話は町へ入ってからにしてください。隊列を詰めます」
前方では、荷車が町の門へ列を作っていた。
染めていない毛糸を積んだ車。
大きな樽を載せた車。
屋根のある荷台から、幾重にも巻かれた布が覗いている。
護衛兵が馬車の左右へ寄った。
セレナは列の脇を進み、門兵へ封書を示す。危険物馬車だけが一般の荷車から外され、宿駅の奥にある石造りの倉へ案内された。
八郎の左肩から、冷たさが僅かに退いた。
倉の扉が閉じられるまで、アルヴァンはその場を離れなかった。
◇
その日の行程は、町までで終わった。
馬から馬具が外され、御者たちは二台の車輪を順に確かめている。
セレナは宿駅の役人と話すため、書類を抱えて奥の建物へ向かった。
アルヴァンは危険物倉へ残っている。
八郎は部屋へ荷を置き、刀を腰へ差した。
廊下へ出る。
階段を下り、宿の戸口へ向かったところで声を掛けられた。
「どちらへ行くんですか」
ミレアが買い物籠を持って立っていた。
「町を一回りしようかと」
「一人で?」
「町の中です」
「答えになっていません」
八郎は戸口の外を見た。
通りの向こうでは、色の違う布が軒先から幾重にも下がっている。
「セレナ殿は、お忙しそうでしたので」
「だから今のうちに、ということですか」
「護衛を探していたところです」
ミレアが八郎の後ろを見た。
宿の中には誰もいない。
「見つかりませんね」
「今から見つかるところでした」
「では、見つけてから出ましょう」
ミレアは庭にいた護衛兵を一人呼んだ。
兵士は事情を聞くと、八郎の腰の刀を見てから、無言で二人の後ろへついた。
「私は治療用の布を買います」
ミレアが歩き出す。
「八郎さんは、何を見に行くつもりだったんですか」
「町の出口と、道のつながりを」
「布の町で?」
「布は道を塞ぎませんが、布を買う人は塞ぎます」
宿駅の前には、荷車と人が溢れていた。
通りの半ばまで台を出した店もある。八郎たちは行き交う者を避けながら、市場へ入った。
◇
市場には、濡れた毛と湯の匂いが満ちていた。
開け放たれた工房では織機が鳴り、道の反対側では染め樽から布が引き上げられている。
赤、深い青、黄土色。
ミレアは染め布を通り過ぎ、白布だけの店で足を止めた。光へ透かし、爪で擦り、傷へ糸が残らないものだけを選ぶ。
「この町で色のない布を買うのは、少し惜しいですな」
「血や膿の色が分からなくなる方が困ります」
必要な布を買ったあとも、ミレアは細紐や刺繍を手に取って眺めた。
「買わないものを見るのですか」
「見たものを全部買っていたら、籠が幾つあっても足りません」
「何も決めずに店を歩くことは?」
「道を間違えた時くらいですな」
後ろの兵士が笑いを咳払いで隠した。
「そちらの旅人さん」「そちらの旅人さん」
別の店から声が掛かった。
年嵩の女が、八郎の上衣を見ている。
肩口には縫い直した跡があり、左袖は短く括られていた。裾も、砦町へ来るまでについた裂け目を何度か繕ってある。
「上へ一枚あった方がいいよ。朝はまだ冷える」
「間に合っています」
「間に合っていません」
ミレアが言った。
「先ほどから、裾の縫い目が開きかけています」
八郎が見ると、右脇の下から細い糸が垂れていた。
「まだ布はつながっています」
「切れてから買うつもりですか」
「その方が無駄にはなりません」
「次に、これだけ布のある町へいつ着くか分かりません」
ミレアは店先に並んだ外套を手に取った。
どれも袖がなく、肩から身体を覆う形をしている。
八郎は渡された一枚の縫い目を確かめた。
布は柔らかいが、薄い。
別の外套は厚みこそあるものの、裾の始末が粗かった。
「お気に召さない?」
店の女が訊いた。
「旅で使うには、少し心許ない」
「布を買いに来たのか、縫い目を買いに来たのか、どっちだい」
「外套を買うなら、両方ですな」
店の女は肩をすくめた。
「なら、奥に一枚あるよ。文句を言わない客にしか出すつもりはなかったけどね」
「私は、文句を言う客に見えますか」
「見えたから出すんだよ」
女は店の奥へ入り、大きな木箱の蓋を開けた。
乾燥させた薬草の匂いが流れてくる。
中から取り出されたのは、ほかとは形の違う外套だった。
青灰色の厚い布地。
襟は高く、肩の上には短い布がもう一枚重ねられている。胸元には、くすんだ金色の釦が二列に並んでいた。
派手ではない。
だが、市場のどの店にも同じ型は見当たらなかった。
八郎は裾を持ち上げた。
見た目より軽い。
縫い目は細かく、力の掛かる肩と襟の裏には別の布が当てられている。釦も飾りではなく、裏側へ革を挟んで縫い付けてあった。
「これは丈夫そうですな」
店の女が、僅かに困った顔をした。
「品はいいよ。品はね」
外套の首元には、細い紐で小さな値札が結ばれていた。
一枚ではない。
四枚の札が重なり、それぞれに違う数字が書かれている。
「この札は」
「値を下げるたびに足したんだよ」
ミレアが一枚ずつめくった。
「最初の半分以下になっています」
「三十年ほど前には、王都で随分流行った型でね」
店の女が金色の釦を指で弾いた。
「高い襟に、二列の釦が格好いいって、若い者が欲しがったものさ。うちの父も随分仕入れたらしい」
「今は違うのですか」
「今着ると、父親の若い頃の服だと言われる」
「それで売れ残ったのですか」
「父が、また流行ると言って残してね。私が店を継いでから、値を下げるたびに札だけ増えた」
店の女は四枚の値札を持ち上げた。
「今じゃ、外套より札の方が増えそうだよ」
八郎は外套を肩へ掛けた。
袖はなく、前を重ねて釦で留める作りだった。左腕を通す必要はない。
右手で上から順に釦を掛ける。
多少の慣れは要るが、片手でも扱える。
肩を回す。
刀の柄にも触れない。
「これにします」
「八郎さん」
ミレアが外套と八郎を見比べた。
「本当にそれでいいんですか」
「何か問題が?」
「三十年前の流行です」
「布も縫い目も、先ほどの物より上です」
「流行の話です」
「値も一番安い」
「そこではなくて」
八郎は襟の位置を直した。
「着るのに困らず、破れにくく、安い。ほかに何か要りますか」
店の女が吹き出した。
「三十年待って、ようやく似合う客が来たよ」
「似合っているそうです」
「店の人は、売るためにそう言うんです」
「では、値を四度も下げた話はしない方がよかったのでは」
「違いない」
店の女は笑いながら、外套の値札を外した。
ミレアが腰の小袋を取り出す。
「私の金はありませんが」
「旅装を補うための費用は預かっています」
「セレナ殿から?」
「必要なものにだけ使うように、と」
「必要かどうかは」
「私が決めます」
「外套を選んだのは私ですが」
「買うと決めたのは私です」
ミレアが代金を払った。
八郎は外套の襟元を右手で押さえた。
「王都へ着いたら返します」
「隊の費用です。返す相手はいません」
「では、働いた分から引いてください」
「王都へ着いてから、セレナへ言ってください」
店を離れてからも、ミレアは時折店先で足を止めた。
染め糸。
刺繍の入った手袋。
小さな布袋。
手に取ることはあっても、治療用の布以外は買わなかった。
八郎も急かさず、その間に通りの幅と脇道の位置を見ていた。
市場を抜けた先には、東へ続く門がある。
荷車二台が並んで通れる広さだった。
「これで満足ですか」
ミレアが訊いた。
「東の道は確認できました」
「店では、ずっと道を見ていたんですね」
「布も見ました」
「何色がありました?」
八郎は少し考えた。
「この外套の色は覚えました」
「買ったものですからね」
◇
宿へ戻ると、食堂の一角が書き物に使われていた。
セレナの前には、三枚の紙とインク壺が置かれている。
アルヴァンは標本の一覧を片手に、その向かいへ座っていた。
「遅かったですね」
セレナが言った。
「日没前です」
ミレアは買った布と、残った金の入った袋を卓上へ置いた。
セレナは中身を確かめ、八郎の外套へ目を向ける。
金色の釦の上で、その視線が止まった。
「それを選んだのですか」
「ご存じですか」
「古い肖像画で見たことがあります。今でも売っているとは思いませんでした」
「三十年ほど待っていたそうです」
アルヴァンが顔を上げた。
目を細めて外套を見る。
「また随分と古いものを掘り出したな」
「アルヴァン殿もご存じで」
「私が王都にいた頃には、すでに流行の終わりだった。若い役人が金具を磨いては、服の方が仕事をしているような顔をしていたものだ」
「父さんは着なかったの?」
「釦を磨く時間が惜しい」
ミレアはセレナへ小袋を押し出した。
「本人は返すと言っています」
セレナは帳面へ金額を書き込んだ。
「必要経費に入れておきます」
「流行遅れでも?」
「必要な装備なら」
八郎の襟元をもう一度見る。
「ただし王都で、その服を選んだ理由を訊かれても、私の指示とは言わないでください」
「責任は持っていただけない」
「監視対象の衣服の趣味までは管理していません」
「それは残念ですな」
セレナは帳面を閉じた。
「座ってください。ちょうど、あなたのことを書いています」
八郎は卓上の紙を見た。
文字は読めない。
一枚目には細かな行が続き、二枚目には短い文が幾つか並んでいる。
「明朝、王都へ早馬を出します」
セレナが言った。
「私たちより先に、標本の受け入れ準備をさせるためです」
「先触れですか」
「同じようなものです。宿駅ごとに馬を替えるので、少なくとも三日は先に着きます」
セレナは一枚目を八郎の方へ向けた。
「黒い石、大角獣から採取した組織、黒い血、変質した砥石。封の方法と、現在までに確認した反応を書きました」
「刀については」
アルヴァンが言う。
「携行することだけ記せ。硬度の推測は、向こうで測ってからでいい」
「そうしています」
セレナは筆先で一行を示した。
アルヴァンが紙を覗き込み、頷く。
「左肩について、朝と昼で反応の強さは変わっていません」
ミレアが帳面を開いた。
「危険物倉へ木箱を入れてからは、冷たさが軽くなっています。距離による変化として追記してください」
セレナはそのまま書き足した。
「痛みは?」
八郎へ訊く。
「今はありません。冷たい重さだけです」
「それも入れます」
「随分と細かく書くのですな」
「王都へ着いてから、一から同じ質問をされたいですか」
「それは遠慮したい」
セレナは二枚目へ移った。
「異邦人一名。魔力制御系統を確認できず、黒い石に対して左肩の残留術式が反応する。意思疎通は可能。武器を携行」
「標本と同じ紙ですか」
「こちらは人物についての別紙です」
「安心しました」
「標本より勝手に動くので、別にしました」
セレナは顔を上げなかった。
ミレアが八郎を見る。
「箱は、調子が悪くても隠しませんから」
「私より扱いやすそうですな」
「その点では」
アルヴァンが喉の奥で笑った。
セレナは三枚目の紙を八郎の前へ置いた。
他の二枚より、余白が多い。
「もう一度、国の名を」
八郎は紙を見た。
「ニホン」
セレナの筆が動く。
見知らぬ文字が、短く並んだ。
「戻ろうとしている町は」
「ハコダテ」
セレナが二つ目の音を書き留める。
箱館へ帰るという望みが、初めてこの世界の文字になった。紙の上へ置かれた二つの音は、八郎より先に王都へ向かう。
「ハコダテは、あなたの生まれた町ではありませんね」
「ええ」
「それでも、そこへ戻る」
「戦が残っていますから」
セレナはそれ以上訊かなかった。
紙の下へ短い文を加える。
「この二つの音に一致する記録がないか、王都へ着く前に調べさせます」
「見つかると思いますか」
筆を置いたのはアルヴァンだった。
彼は答えず、セレナが書いた二つの文字列を見比べている。
「まず探す」
やがて、そう言った。
「あるかないかは、その後だ」
セレナは三枚の紙を重ね、紐を掛けた。
溶かした封蝋を落とし、自分の印を押す。
印が冷えるまで、誰も触れなかった。
◇
翌朝、早馬は一行より先に宿駅を出た。
書状は革筒へ収められ、騎手の腰へ固く結ばれている。
セレナが最後に封を確かめた。
「次の宿駅で馬を替えてください。休むのは、その間だけです」
騎手が頷き、手綱を引く。
馬は石畳を蹴り、東門へ向かった。
革筒の中には、見知らぬ文字で記された二つの音が入っている。
ニホン。
ハコダテ。
蹄の音は、朝の往来へ紛れていった。
背後では、御者たちが二台の馬車へ馬をつないでいる。護衛兵は危険物馬車の封を一つずつ確かめていた。
八郎は時代遅れの外套を肩へ掛け、金色の釦を右手で留めた。




