第十八話 別門
織物の町を出て二日目、昼前から雨になった。
青灰色の外套は、短い肩覆いが雨を左右へ流し、胸元を濡らさなかった。
「役に立っていますね」
「値札を四枚も重ねる必要はなかったようです」
ミレアが笑いかけたところで、セレナの馬が近づく。
「この先は下りです。車輪から離れて」
轍は雨水に削られ、後輪が何度か横へ滑った。
八郎は馬車との距離を広げた。外の冷えとは別に、左肩の内側には薄い氷のような重さが残っている。
午後、三方を石壁で囲んだ待避小屋へ入った。
アルヴァンが封を確かめ、ミレアが銀盤をかざす。
「反応は前の宿駅と同じ。痛みは?」
「今はありません。冷たさは骨の内側です」
雨で強まらないことも記録された。
八郎は石壁へ背を預け、外套の肩に溜まった水を払った。金色の釦は、曇った空の下でも僅かに光っていた。
◇
翌朝には雨が上がった。
それから先、街道の景色は日ごとに変わっていった。
畑の間に点々と建っていた家が、やがて途切れなくなる。
道幅も広がった。
向かいから来る荷車とすれ違っても、どちらかが路肩へ降りる必要がない。
王都へ向かう荷車には、布、酒樽、木材、穀物が積まれていた。反対へ進む馬車には、蓋を揃えた木箱や、印の押された包みが多い。
橋の手前では、棒を持った男が荷車を左右へ振り分けている。
一行の二台も指示に従い、重い荷を積んだ列へ入った。
八郎は前の馬車の右側を、決められた歩調で進んだ。
「ようやく馬車の速さを覚えましたね」
横を通ったセレナが言った。
「馬車の方も、私の速さを諦めたようです」
「あなたが合わせているだけです」
「そうとも言います」
セレナは何も返さず、先頭へ馬を進めた。
すれ違った荷車の御者が、八郎を振り返った。
視線は腰の刀ではなく、外套の金色の釦へ向いていた。
「また見られていますよ」
ミレアが言った。
「珍しいものが多いのでしょう」
「珍しいというより、古いのだと思います」
「役に立っております」
「それは分かっています」
八郎は襟元の釦を一つ外した。
雨が過ぎてからは、昼の空気が少し暑かった。
◇
八日目の午後、街道の先を屋根の群れが埋めた。
倉庫が並び、その間を荷車が行き交っている。道の脇には水路が走り、石橋の上で荷を積み替える者たちの声が響いていた。
町の向こうにも家が続いている。
砦町より、はるかに大きい。
「着いたのですか」
八郎が訊いた。
「まだです」
セレナは馬上から屋根の先を見た。
「ここは西の荷継ぎ町です。王都までは、あと二日あります」
「これでも王都ではないと」
「王都へ運ぶ荷を、行き先ごとに組み直す町だ」
後ろの御者台からアルヴァンが言った。
「遠方から来た荷車の多くは、ここで荷を下ろす。王都へ入る馬車を減らすためにな」
荷台の前では、幾つもの樽が同じ大きさの荷車へ積み替えられていた。
「砦町より大きく見えます」
ミレアが辺りを見回した。
「ええ」
八郎は水路の向こうまで続く倉庫を眺めた。
「驚いてもよいのですよ」
「驚いております」
「そうは見えません」
「少々、遅れて顔へ出るのかもしれませんな」
その夜、一行が入った宿駅では、奥庭があらかじめ空けられていた。
主人はセレナが封書を出す前に、二台の馬車を別々の場所へ案内した。夜番の人数も、危険物馬車へ近づいてよい者も知らされている。
先に出た報せは、すでに一行より二日分ほど前を走っていた。
◇
十日目の朝、街道は低い丘を上った。
頂を越えたところで、王都が見えた。
遠い山並みに囲まれた盆地を、幾筋もの川が流れている。水はところどころで湖のように広がり、その岸に畑と家々が連なっていた。
盆地の中央には、白い城壁が低い丘を幾重にも囲んでいる。
壁の内側から、大小の尖塔が空へ伸びていた。最も高い塔を中心に、白い建物が斜面へ重なるように広がっている。城が一つ建っているというより、丘そのものが白い城郭になったように見えた。
その裾を、屋根の群れが取り巻いている。
壁の外にも町が続き、水辺に沿ってさらに遠くまで広がっていた。
「あれが王都ですか」
八郎が訊く。
「そうです」
セレナが答えた。
八郎は尖塔から視線を下ろした。
川も、橋も、幾本もの街道も、最後には同じ白い丘へ集まっている。城の高さより、そこへ吸い込まれていく人と荷車の数の方が目についた。
丘を下るにつれ、白い塔は手前の屋根に隠れていった。
代わりに、王都の外壁と、門へ続く荷車の列が大きくなる。
街道は門の手前で幾つにも分かれていた。
人だけが進む道。荷車が並ぶ道。家畜を連れた者が進む道。
一行が荷車の列へ入ろうとしたところで、道脇にいた灰色の上衣の男が白い札を掲げた。
「北西砦からの一行ですね」
セレナが封書を示すより早く、男は後ろの馬車へ目を向けた。
「先触れは届いています。こちらへ」
案内されたのは、正面の大門ではなかった。
一行は荷車の列を外れ、城壁沿いの道へ入った。人通りが減り、大門の喧騒が遠ざかっていく。
やがて、外壁から少し離れた場所に、低い石塀が見えた。
その中央にある鉄の門は、一行が着く前から開かれていた。
二台の馬車が中へ入ると、待っていた役人たちが動き出した。
セレナの封書が書記へ渡り、荷台の封印番号が読み上げられる。アルヴァンが一つずつ確認し、その横で別の書記が帳面へ印を付けていった。
「黒い石は銀筒ごと第一棟へ。血液と組織は第二棟。治癒を受けた部位は別箱のまま。砥石は材料庫へ」
指示が下るたび、灰色の前掛けを着けた者たちが箱を運び出していく。
「その箱は開けるな」
アルヴァンが声を掛けた。
「第一棟の責任者が立ち会うまで、封は切りません」
役人は足を止めずに答えた。
黒い石を収めた箱が荷台を離れ、庭の奥へ運ばれていく。
左肩の冷たさが、少しずつ薄れた。
「変わりましたか」
ミレアがすぐに訊いた。
「先ほどより軽いです」
ミレアは箱との距離を見て、帳面へ時刻を書き込んだ。
その間にも荷台は空いていった。
刀は八郎の腰に残された。書記が外装と長さを記し、検査が終わるまで抜かないよう告げただけだった。
十日間続いた隊列は、半刻もせずに形を失った。
箱は三方の建物へ運ばれ、記録は書記の手へ渡った。二台の馬車も、荷を失うと別々の場所へ引かれていく。
「次に、皆さんをご案内します」
役人が新しい紙を開いた。
「アルヴァン殿は第一棟。ミレア殿は第二棟。セレナ隊長は報告所へ。伊庭八郎殿は第三棟です」
「八郎と黒い石を離すのか」
アルヴァンが訊いた。
「まず、離した状態を調べます。同時に調べれば、どちらが原因か分かりません」
アルヴァンは役人の顔を見たが、それ以上は言わなかった。
八郎は自分の名が書かれた紙を覗いた。
「私は標本とは、別紙だったはずですが」
「別紙です。ですから、別棟です」
「それは何よりです」
役人は表情を変えなかった。
「待ってください」
セレナが呼び止めた。
「伊庭八郎の移動制限は」
「第三棟と中庭までです。外へ出る場合は許可と同行者が必要になります」
「命令書に責任者の名を」
役人は頷き、その場で一行を書き足した。
アルヴァンは黒い石の運ばれた棟へ向かい、ミレアは帳面を抱えて反対側の建物へ入った。セレナも書記に促され、報告所へ歩いていく。
護衛兵たちも、それぞれ指示された場所へ散った。
八郎だけが、空になった庭に残された。
◇
第三棟の部屋には、寝台と机、それに水差しが置かれていた。
扉に錠はない。
ただし廊下の端には役人が立ち、外壁の外へ続く道は見えない。
八郎は窓を開けた。
見えるのは、王都を囲む白い壁の一部だけだった。丘の上で見えた尖塔は、手前の建物に隠れている。
中庭では、空になった二台の馬車が別々の方向へ引かれていった。
蹄と車輪の音が消える。
王都へ着いた。
だが箱館へ近づいたのか、それとも遠ざかったのか、まだ何一つ分からなかった。




