第十九話 空白
刀のない腰は、歩くたびに軽かった。
王都へ入った翌朝、八郎は別棟の小部屋へ移された。左右にアルヴァンとミレア、扉近くにセレナが座る。
研究着の男が罫線の紙を広げた。
「名を」
「伊庭八郎です」
「生まれは」
「日本、江戸」
「年齢」
「二十六」
「どう来た」
「箱館で薬を飲んで死にました。目を覚ますと、土の上にいた」
死亡を見た者はいない。死んだとは限らないと男は言う。
「そうかもしれません。ただ、死ぬつもりでした」
質問は目覚めた場所、所持品、失った左腕、空と月へ続いた。
「元の場所へ戻る意思は」
「あります」
考える必要はなかった。
「そのために王都へ来ました」
紙へ書かれた見知らぬ文字の中で、その答えだけは八郎自身にも読めるほど明瞭だった。
「次は左肩を調べる」
◇
隣の部屋は、先ほどより広かった。
石床の中央に背の低い椅子が置かれ、その周囲を銀色の細い線が囲んでいる。壁際には目盛りのついた器具が並び、細い針がすべて零を示していた。
別の作業台には、湿らせた土と小石、それに同じ大きさの淡青色の魔石が二つ用意されている。
八郎は上着を脱ぎ、左肩を出した。
ミレアが傷口の周囲へ薄い銀盤を三枚当てる。
「痛みが出たら、すぐに言ってください」
「承知しました」
「少しでも、です」
「信用がありませんな」
「これまでの報告が正確でないだけです」
ミレアは銀盤を留める紐を締めた。
机の向こうで、研究着の男が記録紙を準備している。
「まず、黒い試料が通常の魔石へ及ぼす変化を見ます」
男は淡青色の魔石を一つずつ、銀線で測定器へつないだ。
どちらをつないでも、針は同じ位置で止まった。
「出力は揃っています。一つを基準として残します」
扉の外へ合図を送る。
しばらくして、小さな台車が運び込まれた。木箱の蓋は開いていたが、中の銀筒には封が残されている。
台車が銀線の外側へ近づくにつれ、つないだ魔石の針が下がり始めた。
同時に、八郎の左肩へ冷たい重さが生まれる。
失った指が、握り込もうとした。
「止めてください」
ミレアの声で台車が引き戻される。
肩の冷たさは薄れた。だが、魔石の針は元の位置まで戻らない。
「出力が落ちています」
「落ちた分が、黒い石の中へ入ったとは限らん」
アルヴァンが言った。
「散ったのか、流れを止められたのか、それもまだ分からん。今言えるのは、整えられた魔力へ作用したということだけだ」
研究着の男が記録紙へ線を引いた。
「次に、肩へ残った道との関係を見ます」
「アルヴァン殿。最初に作ったものと同じ腕を再現してもらいたい」
「簡単に言うな」
アルヴァンは土の入った台を見た。
「あれは腕の形へ土を固めただけだ。関節もなければ、動かす仕組みも作っておらん」
「それでも構わない。魔力がどこから入り、どこへ流れるかを見たい」
「土も場所も違うぞ」
「完全に同じものは求めていない。左肩との結び方が再現できればよい」
アルヴァンは口元を曲げたが、断りはしなかった。
杖先を土へ向ける。
「前にも言ったが、わしの魔力で支える。途中で切れば崩れるぞ」
「前と同じですね」
「前より重くするつもりはない」
杖先の石が淡く光った。
湿った土が持ち上がり、細い筋となって八郎の左肩へ伸びる。
冷たさが傷口を覆った。
土に小石が混じり、固く締まっていく。
上腕。
肘。
前腕。
最後に、太い五本の指が形を取った。
見覚えのある、不出来な左腕だった。
肩へ重さが掛かる。
最初に作られた時と同じく、土の塊を括りつけられたような重みだった。
「具合は」
「懐かしい重さです」
「懐かしがるものではない」
アルヴァンが杖を握ったまま答えた。
壁際の針が一斉に動き始める。
アルヴァンの前にある針は大きく振れ、八郎の肩へつながれた三本も、それぞれ異なる位置で止まった。
研究着の男が器具を見比べる。
「魔力はすべてアルヴァン殿から入っている。八郎自身からの流入はない」
「前から分かっていたことだ」
「ここからだ」
男は土腕の指先へ、小さな銀片を一枚ずつ取りつけた。
「左の人差し指を動かすつもりで」
八郎は、失われた指を曲げるところを思い浮かべた。
土の指は動かない。
だが、人差し指につけられた銀片とつながる針だけが、僅かに揺れた。
「もう一度」
八郎が同じことを考える。
針が先ほどより大きく振れた。
今度は中指。
次に親指。
形の上では何も起きていないが、命じた指に応じて別々の針が動いた。
アルヴァンが眉を寄せる。
「わしの魔力だぞ」
「力はな」
研究着の男は記録を取りながら答えた。
「だが、流れる先を決めているのは本人だ」
八郎は土の左手を見た。
動かない指の内側で、何かだけが動いている。
「腕は命令を受けているのですか」
「受けてはいる。ただ、土の塊には命令どおり動く継ぎ目がない」
男が細い木の棒を一本、土腕の前へ置いた。
アルヴァンはため息をつき、杖先を人差し指へ向ける。
指の付け根と二つの節へ、細い溝が入った。
「崩れやすくなる。一度だけだ」
八郎は、もう一度人差し指を曲げようとした。
土の表面から細かな粒が落ちる。
溝を入れた指が、ゆっくりと内側へ折れた。
指先が木の棒へ触れる。
棒は僅かに傾き、石床へ転がった。
室内に、乾いた音が響いた。
八郎は土の指を見た。
感触はなかった。
それでも、自分が動かしたことだけは分かった。
「戻せますか」
ミレアが訊いた。
八郎は指を伸ばそうとした。
土の指が震えながら開く。
男は動いた針を順に記録していった。
「左肩に残っているものは、単なる魔力の残りではない。腕の形と、動かすための道が結びついている」
「道だけが残ったということか」
アルヴァンが八郎の肩へ目を凝らす。
「わしが流した力を、こいつの身体が勝手に振り分けている」
「次は、同じ試料を土腕へ近づける」
セレナが壁から背を離した。
「中止の基準は」
「本人の申告と計器の変化で――」
「本人の申告だけでは遅れます」
男の言葉を、ミレアが遮った。
「銀盤の中央がこの位置を越えたら止めてください。それ以前でも、土腕に亀裂が出れば中止です」
セレナは目盛りの位置を確かめた。
「私が止めます」
研究着の男が扉の外へ合図を送った。
しばらくして、車輪の音が近づいてきた。
八郎の左肩へ冷たい重さが生まれる。
「来ました」
まだ扉は閉じている。
ミレアが銀盤を見る。
中央の石が、弱く明滅していた。
扉が開き、二人の研究員が小さな台車を押して入ってきた。
台車には木箱が載っている。
蓋は開かれていたが、中の銀筒には封が残されている。
黒い石そのものは見えない。
それでも、左肩の冷たさは一段強くなった。
台車が銀線の外側で止まる。
壁際の針が揺れた。
アルヴァンの前にある針が、ゆっくりと下がり始める。
代わりに、銀筒へ近い側の針が持ち上がった。
「わしの魔力が引かれている」
アルヴァンが杖を握り直した。
土腕の表面から砂が落ちる。
八郎は左手を開いているつもりだった。
だが、先ほど溝を入れた人差し指が、勝手に内側へ曲がった。
失われたはずの指まで、握り込もうとする。
「動かしていません」
八郎が言った直後、左肩の奥が脈打った。
一度。
間を置いて、もう一度。
冷たさとは違う。
傷の奥へ食い込んだものを、外から引かれるような痛みだった。
土腕の肘へ細い亀裂が走る。
「止めてください」
ミレアの声と同時に、セレナが手を上げた。
台車が後ろへ引かれる。
だが、土腕の亀裂は止まらなかった。
肘から先が崩れ、重い音を立てて床へ落ちる。
残った土も肩から剥がれ、椅子の脇へ積もった。
アルヴァンが術を切る。
左肩の疼きは、台車が扉の外へ出るにつれて弱くなった。
最後に残ったのは、いつもの冷たい重さだけだった。
ミレアが銀盤を外し、傷口へ指を添える。
「痛みは」
「もう引いています」
「先ほどは」
「強く引かれるような具合でした」
「指は動かそうとしていましたか」
「いえ。開いたままにするつもりでした」
研究着の男は、二つの針が描いた跡を見比べていた。
「先ほどの基準石と同じです。黒い石が、八郎だけを選んでいるわけではない」
「少なくとも、わしが腕へ流した力も弱められた」
アルヴァンは自分の杖と、八郎の左肩を順に示した。
「力は石の側へ引かれ、腕の形と命令を結んだ場所は肩へ留まった。同じ結び目を、両側から引いたようなものだ」
「指が勝手に動いたのも、そのためですか」
「その揺れが、指を動かす道へ逆に伝わったのだろう」
断定はしなかった。
だが、谷で失った指が握り込もうとしたことも、同じ仕組みなら説明がついた。
石が八郎を呼んだのではない。肩に残った道が、外から揺さぶられていた。
◇
休息を挟んで、もう一つ試した。
アルヴァンが石柱へ同じ術式で土を結んだが、術を切ると何も残らなかった。
一方、八郎の左肩には微かな反応が残る。
「最初の土腕を動かそうとした時、お前の身体が術へ道を作った。本人の魔力なら上書きされるが、お前には消す流れがない」
「なら、もう一度土をつければ腕になる?」
「ならん。重く、脆く、外から力を流し続けなければ崩れる」
ミレアは銀盤を見た。
「ただ、動かす道は使えるかもしれない」
「骨に当たる枠、動く継ぎ目、外からの力、それを戻す道が要る」
「腕が戻る話ではないのですね」
「新しく作る話だ」
八郎は左肩へ触れた。
失ったものが戻るのではない。戻らぬ身体へ、別の道を作る。
それでも、箱館へ帰るために使える手が増えるのなら、拒む理由はなかった。
鉱物担当の結果では、黒魔石と青灰色の母岩は組成も層も同じだった。黒いものが後から生えたのではなく、元の鉱脈の一部が変質している。
「いつ、何によって?」
「まだ分かりません」
◇
午後になると、預けていた刀が長い木箱へ収められて運ばれてきた。
研究員が蓋を開く。
鍔と柄を外された刀身に、銀灰色の筋が浮かんでいた。
砦町を出る前に見た時から、形は変わっていない。
刀は二つの台へ渡され、その隣には、この世界で作られた細長い鋼が置かれた。
それぞれの端へ、小さな銀具が取りつけられる。
「まず、こちらの鋼から」
研究着の男が小さな魔石へ触れた。
ごく弱い魔力が銀具を通り、鋼へ流れ込む。
手元に近い針が上がった。
反対側の針は、僅かに動いただけだった。
「これが普通です。鉄の中を進む間に流れが散り、一部は内部へ残る」
魔石から手を離しても、手元の針はすぐには零へ戻らなかった。
次に、同じ銀具が八郎の刀へ取りつけられる。
「同じ強さで流します」
魔石が淡く光った。
手元の針が上がる。
ほとんど同時に、切先側の針も同じ位置まで跳ねた。
室内の空気が止まった。
刀身そのものは光らない。
熱も音もない。
だが、並んだ針だけが、魔力が茎から切先まで届いたことを示していた。
男が魔石から手を離す。
二本の針は同時に零へ落ちた。
「残っていない」
ミレアが言った。
「この鉄は、魔力を蓄えていないのでは?」
「蓄えていません」
男は刀身に浮かぶ銀灰色の筋を見た。
「だからこそ、入ってきたものをほとんど止めない」
アルヴァンが刀へ顔を寄せる。
「元から何もなかったからか」
「それだけではありません。この刀の鉄は、幾つもの層を重ねて作られている」
男は銀灰色の筋へ、触れないよう指を沿わせた。
「その層には、こちらの鉄が持つ魔素の癖がなかった。そこへ砥石を通して強い力が加わり、層の間にあった道が刀の長さへ沿って揃った。そう見るのが自然です」
「黒いものが刀に残っているわけではないのですか」
八郎が訊いた。
「少なくとも、この測定では残っていません。筋はひびでも、黒い魔力の塊でもない。魔力が通る道です」
男は銀具の位置を逆にした。
今度は切先側から弱い魔力を流す。
茎側の針が、やはり同時に持ち上がった。
「柄から刃先へ通る。刃先から柄へも同じです」
「斬ったものの力まで、手元へ戻る可能性があるということか」
セレナが言った。
「あります」
男はすぐに魔力を切った。
「通りやすいことは、使いやすいことと同じではない。入ってきたものを止められなければ、握る者まで受ける」
八郎は箱の中の刀を見た。
「私も、この刀も、魔力を持っていない」
「同じにするな」
アルヴァンが言った。
「お前には身体がある。刀にはない」
「空なら、何を入れてもよいわけではないということですか」
「ようやく慎重なことを言ったな」
帰還の手掛かりを求めて王都へ来たはずが、調べるほど、自分の身体と刀がこの世界へ結びついていく。
研究着の男は測定記録を閉じる前に、別の薄い紙へ聴取と検査の要点を写した。
二枚は重ねず、それぞれ別の封筒へ入れられる。
「同じ報告ではないのですか」
セレナが訊いた。
「こちらは中央の記録担当へ回します。受け入れ報告とは別の照会です」
「照会の理由は」
「私には知らされていません」
待っていた書記が二通目だけを受け取り、先に部屋を出た。
刀は再び箱へ収められた。
翌日は、その流れを途中で止める方法を調べることになった。




